社員編、第九話
「お兄様、出社しなくてよろしいの?」
妹が部屋の前で問いかけても、雪人は何も返さなかった。
立ち去る気配がして、ホッとして布団にくるまる。まるで引きこもりのような状態だが、雪人はもうそれでもいいと思った。
手代木に正体をはっきり伝えたうえで好きだと言う大事な想いも伝えようと思っていた。
しかしあれでは雪人が人間ではないということは丸解りだ。
普通の人間は思い出して恥ずかしくなった時に氷を大量発生させて姿を眩ませたりしない。あんまり生々しく思い出してしまったためにああするしか方法が浮かばなかったのだ。そんな自分はつくづく馬鹿だと雪人は溜息をつくしかない。
そして、初めての恋が両想いだったにもかかわらずお互いで確かめる間もなく終わったことに涙が出てくる。
こんなぐずぐずの状態を見せるのは可愛い妹には出来はしない。
実際のところは雪人の国は大量の水分を含んだ猛吹雪に襲われて酷い状態なので、雪人に何かあったことなんて妹を始め、そこらを歩いている旅人にすら解るくらいだったが。
「無断欠勤になっちゃうな……」
神坂の愛のムチが激しくなることは火を見るよりも明らかだが、精神状態がこれでは、折角搬送されるはずの電化製品をまた壊しかねない。
修理が必要になったら手代木が呼ばれることになるので、嫌でも顔を合わせる。
手代木はきっと雪人を恐れるだろう。怯えの混じった視線で見られるのが怖かったし、耐えられない。
その時のための薬を魔王陛下に貰っていたのに、もう手代木の前に姿を見せる勇気すらないのだから使えるわけがなかった。
「僕の意気地なし……」
すっかりしょんぼりした雪人は貧乏揺すりをしながら時間が過ぎるのを待った。
「・・・・・・」
どれくらい経ったのか、ふと目を閉じている間に眠ってしまったようで、ドアのノックで意識が浮上してきた。
「お兄様、お客様が来ていらっしゃるわ」
「……今日は誰とも会いたくないよ。悪いけどお引き取り願ってくれ」
まさか神坂がここまで来たのかとビクビクしたが、雪人の傷もそんなには浅くない。ここは独りになってやるんだという変な志で、頑固にも布団から出ようともしない。
「困ったお兄様ねえ。でも会わないと後悔なさると思うから、スペアキーを使わせていただくわ」
「え、ちょっと!」
傷心の兄のことを少しは気遣ってくれてもいいじゃないかと慌てたが、ぎゅっとだんまりを決め込もうとして雪人は身を固める。
冷たい布団の上から、確かに腕の暖かな感触がした。これは魔物のものではなく、明らかに人間の温もりだった。
「……なんで……」
上手く振り向けなかったので顔は見えないが、それが手代木の腕であることは嫌でも解る。
「なんで、あなたがこんなところに」
「そりゃ、いきなりいなくなったらビックリするじゃないですか」
「……いや、今は僕の方がかなりビックリしてますよ……」
何せ、ここは人間の世界ではない。オール魔物の世界なのだ。おまけに温度が氷点下の更に下をいっているくらいの氷の城に、人間がいることなんて有り得ない。
「雪嶋さんが人間についてあんまりいい印象を持ってないことは、妹さんから聴きました。それでも俺のこと、嫌いじゃないって思ってもいいんですよね……?」
震える雪人の指に指を絡め、耳にかかる手代木の吐息がやけに熱く感じられて、溶けてしまうのではないかと思った。
「雪嶋さん、もう何処を凍らせてもいいですから、答えてください。焦らされるのはどうにも堪えます」
雪人は今更ながら自分が人間ではないことも手代木が把握している事実に戸惑う。
「僕、……男で、しかも人間じゃないんですよ。手代木さんは怖くないんですか。ぼ、僕は魔物で、あなたを簡単に殺してしまう力だってあるんですよ」
声が否が応でも震えてしまう。しかし手代木はくすっと笑った。
「だから何です?俺、結構な決心をしてここに来たんですよ。猛吹雪の中で何時間も歩いたんです。引き返す機会は何度もあったし、神坂社長からも無理はするなって言われました。でも、今ここにいるんです。その意味が解ります?」
雪人はもそもそ首を振った。手代木の腕の力が強くなる。
「雪嶋さんが男って言うことは一目惚れした時点で気にしてないです。人間じゃないってことも、この際どうだっていいです。……俺が心変りしたら、その時は殺してくれて構いません」
「殺していいなんて、そんな、簡単に……」
思わず布団から顔を出した雪人の視線を受けて、手代木は目を細めた。
「それくらい、雪嶋さんが好きなんです。自分でもおかしいなあって思うんですけど、あなたになら殺されても本望だなって。もうこれは恋に堕ちた時に覚悟出来てるって感じだったと思います」
俺はあなたをずっと好きでいる自信があるって言えますと、雪人を真っ直ぐ見詰めて口説く瞳はやっぱり綺麗で、雪人が思わず抱き付いて後ろに引っ繰り返って帽子に隠れてしまったけれど、キラキラ笑っているようだった。
「帰りませんか?あの、出来れば俺の部屋に……」
「え……」
お誘いに顔を赤くした雪人は部屋に氷をまき散らしたが、今度は逃げなかった。
「いや~。俺、北海道より寒いところとかどうなることかと思ったんですけど、愛があればなんてことないですね」
初めてベッドを共にした翌日、手代木は白い息を出して欠伸をした。
季節はまだ夏の真っただ中。決してクーラーをかけ過ぎていて寒いわけではない。天然のクーラーのおかげで部屋は氷点下まで室温が下がっている。
「済みません、済みません……」
雪人はひたすら謝るしかない。
手代木は神坂から貰ったという、防寒対策だというブレスレットをしているので、通常の人間よりも寒さの耐性が身についているらしい。それでも肌寒さは感じるらしく、寝間着は真冬用のものだった。
一方、雪人の手首にあるブレスレットは逆に雪人の身体をより人間に近付けるものらしく、ベッドの中で手代木を受け入れる時にその熱さで溶けてしまわないようにと配慮されていた。おかげで雪人は溶けずに済んだが、別の意味でドロドロに溶かされて、思い切り甘やかされた。
「雪嶋さん、無断欠勤ですよね」
「はっ!そうですね、……うう、頭くらいはたかれるかな」
「……愛のスパルタ教育って素敵だと思いますけど、俺は恋人が他の男に触られるのも本当は困るんですが、ひっぱたかれてるのはもっと嫌で見たくないんで神坂社長にイジメないでくださいってお願いしておきました」
「重ね重ね有難う御座います」
優しい人だと雪人が涙ぐみそうになっていると頬にキスされた。部屋に涼しい風が吹く。
「雪嶋さんって本当に免疫がないんですね。昨日は雪の重みで床が抜けるかと思いましたよ」
そこも可愛いので構いませんよと言われて、雪人は返事の代わりに部屋に小さな霰を降らせた。
「抱き締めてもいいですか?」
「は、はい……」
どうぞと身体を差し出すとぬいぐるみのように抱き締められて幸福感が全身を駆け巡り、雪人はうっとりした。
「俺より物凄い年上なのに可愛過ぎてどうにかなりそう……」
手代木も幸せいっぱいと言う感じで雪人の身体をぎゅうぎゅうする。
すると、身体が反応してしまったのか少し気まずそうに目を泳がせた。
「手代木さん……?」
「あの、済みません。もう一回いいですか……」
こういう時だけ察しがいい雪人は部屋を氷結させながらもぎこちなく頷いた。
「この部屋の電化製品も買い直さないといけなくなりましたね」
「また二人で見に行きましょう。今度は正真正銘のデートです」
「……そうですね」
「その前にいっぱい愛させてください。出来れば、その後も……」
「はい……」
ベッドの中に潜り込んだ二人は手をつないで身体を合わせた。
夏の陽射しが未だきついと言うのに、その日の幸寿地区だけには真冬並みの雪が降ったそうだ。
「恥ずかしがり屋の雪の王様にも困ったものだな」
そう言って昼間っから雪見酒をしているのは、金融会社スチャラカぱらだいすの面々だけだった。
社員編の本編はここで終わりですが、次回は手代木視点の社員編になります