社員編、第七話
恋愛に免疫がない雪人は見事に苦悩に陥った。
手代木のことをそういう対象としてみたことがなかったので考え直してみる。
確かに彼はいい男だ。見かけだけでなく、穏やかで優しいところもあるというのは雪人も短い付き合いながら解る。そんな彼に真っ向から好意を寄せられて、戸惑いよりも大きかったものは喜びにも似たくすぐったい感情だった。
「それは恋の感情だよ」
身に起きた出来事を思い切って告白すると、魔王陛下はおっとりとした口調ながらも断言した。
本来ならば近付くことすら出来ない尊い御身である魔王陛下とこんなことで言葉を交わす間柄になるとは、長く生きていれば驚くことも多くあるものだ。
きっかけを作ったのは他でもない、智だった。
「手代木さん、遂に告りましたか」
「え、智くんのその把握していました的な感じはなんなの」
その智は魔王陛下のお気に入りで、智が煎れた日本茶をこよなく愛している。今も、ふらりとやってきては会社の一番豪華な椅子に長い足を組んで座り、お茶を楽しんでいる。
「その男はお前の母親を捨てた男とは違うのだろう。信じてみるのもいいのではないか」
「お言葉ですが、陛下。信じてのめり込んだ時にどうにかなってしまいそうで僕は自分が怖いです。それに、僕は母のように自分の正体を偽って彼を想うことが出来るとは思えません」
恋愛は狂気にして凶器である。
母親がそうであったように、雪人は自分が手代木と結ばれた時に彼が心変りでもした時に何かしでかしてしまうのではないかと自信がなかった。恋と言われて真っ先に浮かんだ不安はそれで、次は自身が人間ではないという根本的な問題だった。男同士と言うだけでも手代木にとってはハードルが高いのに、まさか異種になるなんて彼は思っても見ないだろう。
「智。お前は築の正体を知った時、どう思った?怖かったか?恐ろしく嫌悪したか?」
魔王陛下の声はまるで美酒のように酔えるほど美しい。
「いいえ。特に何とも思いませんでした。ここにお世話になる時の出来事が出来事で、おまけに普段が変態なのでもはや人間ではなくても不思議ではないと思いましたし」
身もふたもないことを平然と言ってのける智は、人類最強ではないかと雪人は尊敬すら覚える。
「お前も少なからず好意を抱いている人間から告白されて、悪い気はしないのだから己の正体を打ち明けてみればどうだ?」
「陛下、お言葉ですがそれで彼が立ち直れなくなったらどうするおつもりですか」
「それは私の知ったことではない」
「駄目ですよ、陛下」
バッサリ切り捨てた魔王陛下に智が溜息をつく。彼に躊躇いもなく意見できるのは智くらいだ。困った顔をする智に、陛下は思案顔になって「ならば、これをやろう」
ひょいっと片手を振って小さな小さな瓶を出した。
「男に少しでも違和感を感じたら、この瓶の中身を振りかけるがいい。お前にとって不利な記憶だけを綺麗に消し去ろうぞ」
「陛下はどうあっても打ち明けさせたいわけですね」
「その方が面白いと思わないか、智」
「まあそうですが」
魔王陛下の唇がニッと吊り上がる。真っ赤なルージュが妖艶で、蠱惑的だ。この場にいるのが苦悩している雪人と、魔王陛下の伴侶である女王陛下から抵抗できるように印を貰っているがために何とも思わない智以外だったらあらゆる煩悩が掻き立てられ心の瞬殺は免れないだろう。
「恋と言うのは素晴らしいな、智……」
この前、女王陛下との何千回目かの結婚記念日を迎えた魔王陛下はほうっと溜息をついた。仕草がいちいち色っぽい。
「雪嶋さん、手代木さんと個人的に連絡は取ってないんですか?」
「ああ、うん。だって必要ないじゃない」
「そうですけど、……じゃあ告白されてから一度も会ってないんですね」
あの時、手代木が消えてから雪人は部屋を一回氷結させてしぶしぶながら帰ってきた神坂にまたチョップを食らった。直りかけていたクーラーは基盤がむき出しだったところに氷の浸食を受けたので直るわけもない。
その光景を手代木がどう思ったか解らないが「この部屋はブリザードでも吹くんですか」
冗談だと思うがそんな軽口を言うので心の中で叫び出したくなるような申し訳なさに駆られながらも、雪人は愛想笑いを浮かべているだけだった。
「智。その男はどうすればここに来るんだ?」
「電化製品が壊れれば来ますね」
「ほう……」
魔王陛下が一つ瞬きをすると、照明以外の電化製品が音を立てて破壊された。
「やりすぎです、陛下……」
メンテナンスされたばかりで輝き誇っていた電化製品たちへのあんまりな仕打ちに雪人が呆然とし、智が頭痛がしてきたと額に手をあてても無敵の魔王陛下は気にしていない。
「さあ、男を呼べ。私も顔が見てみたい」
「や、それは駄目です。陛下、そういう大切なことは二人っきりじゃないと駄目です」
「そうなのか……?」
「上手くことが運んだら素晴らしい思い出になります。告白記念です。記念と言うのは二人きりで大切に共有するものです。陛下だって女王陛下と二人きりでいる時に誰かが割り込んできたら嫌ですよね?」
智に言われて、魔王陛下はまた思案顔になった。
「そうだな。あれは何かと二人きりと言うのを大事にしたがる。私が智を寝台に連れ込んだ時は烈火のごとく怒り、その夜は私のことを半ば無理やり」
「話さなくていいです、陛下。解ってくださればいいです」
真っ赤になった智が何を制止したのか雪人は自分の問題をそっちのけで気になってしまった。いけない想像で羞恥心が募り、部屋の温度が下がっていく。
「しかし気にはなる。事後報告はしてくれるな?」
「はい、致します」
魔王陛下の尊い白い指に触れないように恐る恐る小瓶を受け取った雪人はコクコクと頷いた。
そこで、自動ドアが開く。入ってきたのはサングラスをしてレザースーツを着こなした若い男だった。
「女王陛下、いらっしゃいませ」
「もー、最初はいつも女王陛下って言うなあ。イデアだよ、智」
「遅いぞ。智のお茶が冷めてしまったではないか」
文句を言って男である女王陛下のイデアを睨む魔王陛下はお茶菓子をつまむ。
「陛下にはお代わりと、イデア陛下には煎れたてを持ってきます」
「サンキュー。ユキ、久し振り~」
「御久し振りです、女王陛下」
雪人が緊張で声を震わせながら挨拶すると、イデアがサングラス越しに目を笑わせたのが解った。
「うちの旦那さんにイジメられなかった?昨日意地悪してから機嫌悪いの、この人」
「とんでもありません。勿体ない素敵なアドバイスと、薬をいただきました」
魔王陛下は澄ましてお茶を待っている。
「なになに、媚薬でも貰った?俺はおススメしないよ?薬で気持ちよくなっても心はイケてないって感じ」
「からかうのも程々にしろ。そんなものを独り身にやるわけがなかろう」
お代わりに手をつけた魔王陛下が言うと、「え~?独り身だから自分で使うっていうのもありじゃん?夜な夜な独りで盛っちゃう、みたいな」
「下品な……」
真っ赤になった雪人に呼応して部屋の温度は遂に氷点下に達し、給湯室にいた智は黙ってコートとカイロを身につける。
「お前が来る前までユキの素敵な恋の話で盛り上がっていたと言うのに、台無しだ」
昨晩のこともひっくるめ出したのか、どうやら魔王陛下は機嫌が悪くなったらしい。
「怒らないでよ、旦那さん。今日はうんと甘やかしてドロドロに溶かすサービスするから許して?」
どちらかと言えば細身な魔王陛下よりも上背もあり、体格もしっかりしているイデアが可愛らしい声を出すのは傍から見れば怖い以外の何物でもないが、不思議と気持ち悪くはなくむしろ蕩けるような感覚に襲われる。
手代木に恋をしていると自覚させられた雪人ですら、不遜にも二人に対していけない想像をしてしまいますます赤くなっていく。
「お茶が冷めるので冷静になってくれると有難いのだが?」
「も、申し訳ありません」
熱々の新しいお茶に手をつけた魔王陛下は「築が楽しみにしている最近の変化、私も一枚噛めて嬉しいぞ」
そう言って妖しげに微笑んだ。