社員編、第五話
魔物はある年齢になると社会勉強として様々な世界に赴任することになる。それは王と呼ばれる身分でも同じことで、しかしそれが人間の世界に決まった時、雪人は自分の運の悪さに思わず舌打ちしたほどだった。
雪人、と言うより冬の国の住人は人間にいい思い出がない。
それは何百年か前に、雪人の母親であった女王が人間に恋をして国と一族、そして雪人と直ぐ下の弟や夫すら捨てて人間の世界に住み着いてしまったからだ。
人間の作った昔話に、「雪女」というものがある。それの原型になった雪女が雪人の母親だ。
雪の中で遭難していた男を助け、恋に堕ちた雪女。燃えるような恋情で結ばれた二人は末永く暮らしていくと思っていた。しかし、男は雪女よりも他の女に目が眩み、彼女を捨てた。
捨てられた悲しみは憎悪となって男を殺し、我に返った雪女もその悲しみから自ら炎の中に身をくべて命を絶った。
昔話ではどうなっているか雪人は知りたくもなかったが、実際はこういうことだ。
母親の身勝手な廃位に伴い、異例の弱冠にて王位についた魔力の強い雪人は当初、それでも周囲に文句を漏らすことはなかった。
自分たちが捨てられたということは確かにショックなことだったが、母親が強固な意思の持ち主であったことは知っていたし、夫である王とは恋愛結婚ではなかったと言うから、初めての恋に情熱を傾けても仕方がないと思っていた。
「幸せになってね」
何としてでも男と添い遂げると宣言して、周囲の猛反対を押し切って城を出る母親を、雪人は立場上表立っては応援できなかったが、別れ際にそう言って送り出した。
数年、母親は幸せだったのだろう。長くは続かなかった。
人間は自分たちに比べると命が儚い。それは解っているし、母親もだからこそ焦っていたのだろう。しかしながらそれが男の心変りで幸せが終わるだなんて誰が予想しただろうか。
知らせを聞いた時、駆け付けた雪人の前にあったのは、凍死した男の死体と、母親が身をくべた炎の柱だった。
その時、雪人は初めて見た人間と言う生き物が酷く憎らしいものに見えた。気は弱いが羞恥心以外はあまり起伏のない雪人だったが、暫く国の天候が荒れるくらい、人間について憎悪を持った。
だから人間の世界で働くことは躊躇われた。
王は多忙を理由にその職権を駆使して一度だけ拒否権を行使することが出来る。しかし、雪人は使わなかった。
躊躇われたが、母親が亡くなってからもう何百年も経っていたし、憎む気力すら人間に使いたくはないと思っていたからだ。
それに、憎らしいがあの男は雪人にとって細やかなプレゼントを遺していた。
雪人には妹がいる。
父親との間には雪人と弟しか子供はいなかったが、母親は人間の男との間に女の子の子供をもうけていた。
二人が悲惨な最期を遂げた後、周囲を見回った雪人が見つけたその小さな命を雪人は魔物の世界へと連れ帰った。
あの男の子供など、引き千切って捨ててしまえとこれまた周囲の反応は残忍だったが、雪人は半分魔物の血を引いてしまっているその赤子が人間の世界では生きられないことを知っていた。その子に自分の力を分けて、魔物として生きられるようにした。
可愛いその子は雪人にとって宝物だった。直ぐ下の弟も本来はクールだが、その子にはメロメロである。
かくして、その子のこともあり人間について興味もわいてきた雪人は人間の世界で働くことになった。
職種が金融業なので汚い一面ばかりではあったが、親切な人間もいるし、智のように自分たちの本性を知っても全くと言っていいほど動じない凄まじく心の広い人間もいるし、手代木のような気のいい人間もいる。
「ワタシタチの間でも、浮気はそんなに珍しくないでしょ」
実は向こうに夫が五人いる蘭林は平然とそういうことを言う。
「珍しくないけど、俺は智一筋かな。純愛、最高でしょ」
神妙に持論を唱える神坂が、向こうにいた時は食っては投げを繰り返したと智にチクる勇気があるものは誰もいない。
「恋人がいるのに他の女に目が行くって言うのは仕方ねえよ。それはオスとして当然だと思うね。少しでも上物がいればぴょんって跳ねる勢いでさ」
「みくりん、それ奥さんの前で言えるんだ?」
「……無理かな」
勇ましく発言したのにしょぼんとなった御厨はお茶をすする。
「でもそのお友達、未だ浮気がケッテイしてるわけじゃないんでしょ。お雪はそういうの、ビンカンダカラネ」
「ランランが奔放過ぎるんだよ。うちの国は多夫多妻制とかじゃないから」
「……そのお友達、さん?どうして雪嶋さんにそんな相談したんですかね。と言うか、そもそもそれは相談なんですか」
智が何かを堪えるように肩を震わせて問いかける。
実は、スチャラカの三時休みに雪人が暇な社員に手代木の名前は伏せてお昼休みでの出来事を相談していたのだ。
困っている様子で相談してくれたのに、自分はいいアドバイスをあげられなかったと雪人は反省し、自分より上手な社員の面々から意見を訊いている。
しかし実際は雪人が手代木のことを言っているというのは本人以外には周知の事実だった。
雪人に近付いてくる人間なんて、手代木しかいないとみんな思っている。彼がモテないわけではない。定期的に行動範囲を変えていても、百年も人間の世界にいれば好意を抱かれても不思議ではない。でも、雪人はあまりそういうことに頓着がなかった。そして彼を覆う神秘的と言ってもいい雰囲気は特攻してこようとする男女の気力を不思議と殺いでいて、今まで彼の関心をこれほど惹いた人間はいなかった。
「相談、だったと思うよ?なんか切羽詰ってた感じだし」
「……雪嶋さんって可愛く鈍いですよね」
「どういう意味?智くん」
「お雪、お前は人間を好きになったりするか?」
小首を傾げる雪人に遠藤が投げかける。それに対し、雪人はふむと考え、真っ先に何故か手代木の顔が浮かんだ。
何故、手代木の顔が浮かぶのだろう。爽やかな笑顔が浮かんで胸が苦しくなる。自分を見詰める真っ直ぐな瞳にじりじりと焦がされていくものを感じる。
低く柔らかな声が自分の名を呼ぶと、何だかきゅんとした。
しかしその正体が何なのか、雪人は知らず不思議に思うばかりだった。
「お雪?」
「……好きにはならないと思います。智くんがいる前であれなんですけど、僕は人間に好意を抱くことはあっても恋愛感情は持ちませんよ」
母親の件があって、雪人は恋だの愛だのにはいい印象がない。多分、婚姻は結ぶだろう。しかしそれは人間相手ではないと思う。
「お雪は真面目だからな。まあそういうところも彼には評価が高いんじゃないかな。……お雪。女はともかく、男はどうだ?」
「男の人、ですか……」
人間の一部とは違い、魔物は同性でも結ばれることがあるのでその辺の認識はかなりゆるい。おまけに問うてきた神坂自身、男の上に人間である智と恋に堕ちているので雪人も否定的ではない。
「愛があれば性別なんて、些細なことですよ。社長が常々言ってることじゃないですか」
「雪嶋さんもその点は人間の僕とはハードルの高さが違いますよね……。まあ、僕も腹を括ってますけど」
「人間が囚われ過ぎなんだよ。まあ、彼も思い切ってる感じだけどいまいち押しがまだ弱いんだよね」
「あ~、あの外見だと押したことってあんまりないんじゃないっすか?普段が入れ食いだから口説くのは苦手そう……」
遠藤がもっともなことを言うと、「そういう初心な男もクイガイがありそうねえ」
蘭林が目を輝かせる。
「ランランの毒牙にかかるか、こっちが崩落されるのが早いか」
「賭けるか?……と言ってもランランは一回敗北してるからな」
御厨がサイコロを振るような仕草をすれば「もう!おじさんの意地悪!今度は失敗しないわよ」
蘭林が使わなくてもいい色目を御厨に向けて甘い声を出す。
そこで、雪人は自分の相談があらぬ方向に向かっていることに気付いた。
「あの、みんな。一体何の話になってるの?僕は友達について相談してるんだけど……」
話題が掴めないと混乱している雪人を見て、一同はうんうんと訳知り顔で頷いた。
「雪嶋さん。鈍いって可愛いけど、あんまりそれだと本当に可哀想だから。察する能力をつけましょう?」
「え?」
「お雪、男同士でも楽しむやり方が知りたかったら俺に言え。ひっそり向こうにアドバイスをしておく」
「何の話ですか、遠藤さん……」
「お雪ちゃんは心底人間が嫌いってわけじゃないんだし、愛があればそこは許容できるよな。俺のかみさんも人間だから、気軽に相談してくれよ」
御厨に肩を叩かれても、雪人は何が何だか解らなかった。