真音
少し間が空いたので、時間のある方は3、4話あたりから読み直しておくことをおすすめします。
土曜日、午前8時50分。柿崎遥斗は学校に来ていた。授業がない日にわざわざ学校に来るのは、もちろん部活(ジャズ研究会)の練習があるからなのだが、今日に限って遥斗は練習開始時刻より一時間ほど早く学校に訪れていた。理由は一つ、小鳥遊真音に呼び出されたのだ。
――アイツ、いつもならまだ寝てる時間だろーに、一体何考えてんだ?
それに、真音といえばもう一つ気になることがあった。バンドのことだ。結局彼は、昨日の帰り道で遥斗の質問に対し、
「少し、時間が要る。」
と、危うく聞き逃してしまいそうなくらい小声で言った後、遥斗に背を向け、足早に去ってしまったのだ。
そんな彼が、今朝早くに急にメールを寄越してきたと思ったら、『9時に、第二音楽室まで来てくれ。』である。第二音楽室といえば学年ごとに与えられた校舎とは別の特別棟と呼ばれる建物の三階にあり、さらに言えば遥斗達ジャズ研究会の活動場所でもある。
しかし、バンドをやるにしてもやらないにしても、あるいはまだ迷ってるのだとしても、直接、しかも第二音楽室に呼び出す理由にはいまいち結びつかない。そして最終的には、真音は一体何を考えているのか?という一番最初に浮かんだ疑問へと戻ってきた。
――結局、行かなきゃ何もわかんねーってことか。
本当はもう少し考えれば何か分かる気もしていた遥斗だが、はっきり言って頭のいい方ではない遥斗に言わせてみれば、朝っぱらから頭を働かすのはしちめんどくせー、のである。
そんな訳で遥斗は第二音楽室の前にいた。扉から中の様子は伺えないが、僅かな物音から中に人がいるのが分かった。
――真音、もー来てるのか。
一瞬鍵はどうしたのか、と思ったが恐らく事務室からでも借りたのだろう。遥斗はポケットから取り出していた部員用の合鍵をしまい、部活で使うために持ってきた自前の楽器を肩にかけ直すと入口の引き戸に手を伸ばし、開ける。すると遥斗が思った通りそこには真音がいたが、それ以前に予想外の光景を遥斗は目の当たりにしていた。しかし、遥斗が何か思うよりも速く真音から声がかかる。
「よお遥斗、遅かったな。もう準備できるからお前も早く準備しろ。」
「いや待て!いろいろ言いたいことはあるが、ちょっと待て!お前、何やってんの?」
「何って、ドラムのセッティングだけど?」
確かに真音はドラムのセッティングをしている。音楽室に元から置いてあったものだ。それは一目見れば遥斗にも分かる。
「いや、そーじゃなくて!なんでドラムのセッティングなんかしてんだって話だよ!」
すると真音は作業の手を止めて遥斗を見る。
「なんでって、叩くからに決まってるだろうが。」
あからさまに、お前は何を言っているんだ?と言いたげな表情だった。
「いや、え、お前がその顔しちゃうの?フツー逆じゃない!?」
「俺にはお前がどうしてそんなに慌ててるのかが分からない。」
――わかんねーのはお前の思考回路だよ!
遥斗は心の中でそう叫ぶと一度大きく深呼吸をした。真音はマイペースな上にハイペースな一面があるので、周りの人間が置いてけぼりを喰らうことも少なくない。なのでこうして一度冷静にならなければ、話が進まなくなるのだ。
「いいか、真音。俺はな、お前から9時に第二音楽室に来いって言われただけだ。だからお前がどうしていきなりドラムを叩こうとしてるのかちゃんと説明してもらわなきゃわからねーんだよ。」
すると真音を一瞬だけキョトンとした顔になると、すぐに納得した表情になる。
「ああ、そうか。すまん。詳しい説明は後でする。今はとにかく、それをすぐ演奏できるように準備してくれ。」
真音が“それ”と指差したのは、遥斗が肩にかけている楽器、ベースだった。
「はあ…わかったよ。」
遥斗はそう言うと、黙々と準備を始める。本当はいろいろ聞きたかったが、説明を後回しにされてしまった以上、何を聞いても無駄である。
音楽室に備え付けのアンプにベースを繋ぎ、音量を調節して、各弦のチューニングに入る。
「…よし、OK。準備できたぞ。何をするんだ?」
遥斗がそう聞くとドラムの椅子に座っていた真音はひとつ頷く。
「始めるぞ。」
――何を?
そう遥斗が聞くのを待たずに、真音はドラムを叩き始める。しかし、それだけで遥斗は十二分に答えを得ることができた。
――なるほどな…まったく、とんでもねームチャぶりかましてくれるなホントに。
真音が叩いているのは、8ビート。八分音符を基本に構築される、数多く存在するドラムのビートの中でも最も基礎的で一般的なものだ。それに加え真音は4小節に一回、フィルインを入れている。
遥斗は真音の顔を覗き見る、今の真音は昨日はもちろん、さっきまでとも全く違う目をしていた。まるで遥斗を試しているかのような、挑戦的で挑発的な目。つまり真音はこう言っているのだ。
「即興で、俺に合わせて弾いてみろ。」
――…上等!
ドラムの無機質な音に重ねて、重低音のベースが包み込むような音色を響かせる。
…本来ならば即興の演奏など、普通の高校生にはまずできない。遥斗がこうして演奏できるのは、もちろん経験から来る実力もあるのだが、一番は真音のドラムによるところが大きい。ドラムの安定感、リズム感、真音自身の持つセンスがなければ、この音楽は成立しない。それほどまでに真音が持つ才能は凄まじいものなのだ。しかし逆に言えば、真音のドラムさえあれば遥斗は即興だろうとなんだろうと、余裕を持って音を乗せることができるのだ。
――まあ、即興はこれが初めてだけど。これも一種の才能ってやつかね。
演奏は3分ほど続いた。遥斗はそう言えばどうやって終わらすのかと少し不安になったが、真音のドラムがラストスパートを示すように盛り上がり始めたので、真音に調子を合わせる。
――あと8拍…ラスト1小節…!
遥斗の予想したタイミングと同時に演奏が終了する。遥斗としては完全に感覚だったが、うまくいったようだ。
「よく終わるタイミングがわかったな。」
真音が意外そうに声をかけてくる。遥斗は肩を竦めた。
「別に驚くことじゃないだろ、分かりやすかったしな。それよりも、言った通りしてもらおうか?“詳しい説明”とやらを。」
「分かってるよ。実は、遥斗に頼みたいことがあるんだ、けど、そろそろ人来るだろうし出くわしても気まずいから、俺、帰るな。また電話する。」
そう言うと真音はどうやら自前らしいマイスティックにマイSD、そしてマイキックペダルを手際良く片付けると、さっさと音楽室の出口に向かおうとする。あまりにも予想だにしない展開に唖然とする遥斗だったが、真音が引き戸を開けたところでようやく声を出す。
「ちょ、えっ、マジで!?」
真音は遥斗を横目で見やりながら、答える。
「冗談でこんなこと言わんよ、じゃあな。」
引き戸が閉められ、固まる遥斗。とりあえず肩にぶら下がったままのベースをスタンドに下ろす。丁度その時、先程閉まったばかりの引き戸が開かれる。一瞬真音が戻ってきたのかと思った遥斗だったが、入口にいたのは同じ部活の二年生だった。
「おぉ、柿崎か。今日は早いな。」
「あー、先輩、おはよーございます。いやー、ちょっと早く目が覚めちゃって。あははー。」
ぎこちない笑いを浮かべながら、遥斗の思考は数十分前へとさかのぼっていた。
――アイツ…ホントに一体何考えてんだ!?
そう思いながらも、しかして遥斗は、少し安心もしていた。
今日の真音の、遥斗を振り回すような言動に行動、そして演奏中に見せた眼差し。そのどれもが、遥斗達が高校に入学してから、いや正確には中学時代の吹奏楽部におおよそまとまりと呼べるものが消えてしまったあの時から、失われていたものだった。真音にそんな自覚はないだろうが、その当時の彼は完全に才能を食いつぶされているようだったと遥斗は感じていた。そんな、失われていたはずのものが、今日になって、何事もなかったかのようにひょっこり戻っていたのだ。
真音は過去を払拭していた。それが今回のバンドの件と関係があるのかどうか、遥斗には分からなかったが、どちらにせよ真音の顔を見た限り、納得のいく答えを見つけたのだろうと、遥斗は思うのだった。そして、完全復活した彼とまた一緒に演奏ができたのは、遥斗にとって実は何よりも喜ばしい事だった。
――これが最後だったかもなー。こんなことだったら、俺もバンド部に志願しとけばよかったかな。
そして遥斗は、口の中で小さく呟いた。
「お帰り。真音。」