終局・2
*
――――なんだろう、この温かい、懐かしい光は。
おぼろげな意識が浮いたり沈んだりしている。
時折、感覚が浮かび上がり夜風の寒さのようなものを感じる。と思えば、体の内部の痛みが意識をさらっていく。揺れているような感覚の中で、その温かい感覚がブレイドの神経をくすぐった。
――――知ってる。この空気。この光。とても懐かしい感覚。
徐々にだが痛みが和らいできて、外部からの感覚がはっきりしてくる。
――――そうだこれは、癒しの光だ。
そう思った途端に、急速に意識が戻っていく。
「お、れ……」
ブレイドは、重たいまぶたをゆっくりと開けた。すると目の前に、真剣な表情で呪文を唱えるディアナの姿が見える。
幻覚か? と思ったと同時に背中に激痛が走った。痛みの感覚が戻ってきたのだろう。お陰で幻覚ではないことも分かった。
じゃあここはどこだ?
ブレイドは目だけを動かして辺りを見た。どうやら今はディアナに膝枕されている状態らしい。けれども、温かい家の中かといえばそうではなく、やはりここはマドラスの夜の森の中だった。
「ブレイド、気が付いた?」
頭の上から降ってくるのは懐かしいディアナの声だ。
「……本物か?」
問いかけに、少しうるんだ瞳を細くしてディアナは笑う。
「失礼ね。幽霊扱いする気? 自分の方が死にかけてたくせに」
「だって……いっ」
体を起こそうとして、ブレイドは激痛に顔を歪めた。すぐさまディアナに押さえつけられ、回復魔法を施される。彼女の回復魔法の効き目は相変わらずの凄さで、ブレイドは徐々にだが痛みが和らいでいくのを実感していた。
じっと見ていると、ディアナの額からは汗が流れおちている。どうやら相当の魔力を使って魔法を施しているようだ。体にまで負担が出ている。けれど、ディアナはそれを気にした風もなく、呪文を唱え続けていた。その掌から放出される癒しの光は、今までにないほどまばゆい。
「ディアナ、無理すんな」
ブレイドは、痛みをこらえながらその額に手を伸ばした。震えながら汗を拭いてやると、ディアナの瞳から涙がこぼれおちる。
「……大体」
ディアナは呪文を一度止め、怒った表情で自分の腕で涙をぬぐった。
「英雄なんて言われて、いい気になってるからこんなことになんのよ」
「……はぁ?」
突然のケンカを売ってくるような会話に、ブレイドは身を起こした。呪文が効いたのか、痛くとも動かせる程度にまでは回復している。
上体を起こしたブレイドに、ディアナは気の強そうな瞳を向けると、人差し指を突き立てる。
「この国の一番の英雄はあんたじゃないわ。剣もできて回復魔法も得意なこの私よ。だから、……だから」
その瞳は潤んでいて、声も涙ぐんでいて。それでも言ってることはかなり上からだ。
「あんたは黙って、私に甘えてりゃいいのよ」
ブレイドは一瞬頭が真っ白になった。
普通は言わないだろ、こういうことは。仮にも、たった今龍を倒した英雄に向かって。気が強いのにも程ってもんがある。
ブレイドは、呆れを通り越して笑いがこみあげてきた。笑うたびに、背中がきしんで痛い。それでも、笑わずにはいられないほどおかしい。
「はは、お前って相変わらず、高飛車」
お腹をかかえるブレイドに、ディアナは睨みつけようとして失敗したような変な顔を見せた。
「……ブレイド」
「分かってるよ」
ブレイドは手を伸ばすと、ディアナを引き寄せた。栗色の髪が頬に触れて、ディアナの香りが心を満たす。
「お前は、俺の英雄だ」
「……っ、馬鹿」
ディアナの手が、ブレイドの背中に回った。最初はためらいがちだったが、すぐにしがみつくような強さになる。泣いているのか、肩は小刻みに震えていた。
「本物のディアナだな」
これだから本物は凄い。思い出の中のどんなディアナより鮮烈だ。過去の彼女より、現在の彼女が一番愛おしい。改めてそう思って、ブレイドもディアナを抱きしめ返す。
「……っつ、いて」
「あ、ごめん。痛い?」
ボソリと呟いてしまった言葉に、ディアナが体を離す。ブレイドはその時、ディアナの左手の薬指に収まっている指輪に気づいた。
「お前、これ……」
「ロックがくれたの」
「ロックが?」
今までの気分が一気に下降する。
そうか。もうロックは、そこまで準備していたのか。せっかく生き残れても、もうディアナはロックのものになってしまったのか。
ブレイドは視線を逸らして、ディアナから体を離した。するとなぜかディアナは離した分だけ近づいてくる。涙の浮かんだ瞳には、悪戯を仕掛けたような色を浮かんでいた。
「ロック、ブレイドに代金よこせって言ってた」
「は?」
驚いて顔を見ると、後ろから枯れたロックの声がした。
「昔、ブレイドが頼んだんじゃないか」
振り向くと、喉をさすりながらロックが立っている。こんな場所であっても、ロックはやはりいつものロックのまま、穏やかな笑みを浮かべていた。
「踏み倒しは許さないよ。ちゃんと払って貰わないと。先に渡しといてあげたんだから」
「お前ら……」
ブレイドは喉元までこみ上げてきた涙に、言葉が続かなくなる。ちゃんとした理由も告げずに出てきたというのに、二人とも迎えに来てくれたというのか。
「馬鹿だな、お前らは」
「失礼ね、一人で行くなんて、あんたの方が馬鹿なのよ」
「そうだよ。大体失礼だよね。僕やディアナの力を信じてないんだから」
ポンポンと言い返してくる二人の声。心地よくて懐かしくて、胸に沁みる。
本当に、生き残れたんだ。信じられない気持でディアナを見詰めると、彼女は首をかしげて微笑んだ。
旅立つ前の弱さは、今のディアナにはもう無かった。それを解き放ったのはきっとロックだったんだろう。そこに悔しさを感じてみるも、どうしようもない。ブレイドにはどうしてもロックに敵わない部分があるのだ。
それでも二人はこうしてここにきて、あんな別れを告げても尚、ディアナはブレイドを選んだ。それで充分だと思えた。
明け方近くなったころ、バジルとデルタがタンカを持ってやってきた。大人しくそこに乗せらせてブレイドはため息をつく。
「はは。背中が痛ぇ」
「うん。流石に治しきれなかった」
顔の見える位置を、ディアナが寄り添うように歩いていく。足場の悪い中を歩くせいかタンカが時折木々の枝にぶつかり、ブレイドは痛みに顔をしかめる。
「生きてる証拠だね」
「……ああ。そうだな」
ディアナはブレイドに笑みを向けた後、白んできた空を仰いだ。脳裏には、城の聖堂で見た聖母の白い彫像がうつる。
……神様なんて、今でも信じていないけど。
そう思いながら、ディアナは木々の向こうに少しだけ見える空を見る。
ブレイドを、生かしてくれてありがとうございます。もう一度、会わせてくれてありがとうございます。
一度は離してしまったけれど、これから先、夜の闇がどんなに濃く深くなっても、もう絶対に彼の手を離したりしない。
晴れ晴れした気持ちで、ディアナは明けてくる空に誓った。