戦い・2
*
マドラスの森に住む緑龍は、重い首を伸ばすとその長い腕を一振りした。鋭い爪は周囲の木々に傷をつけ、一緒に小物の魔物たちがなぎ倒される。その悲鳴が緑龍の耳に届くと、不快そうに鼻から息を吐き出した。
<まったく、うるさいやつらだねぇ>
時折り、カナヒヒたちがいやがらせのように催眠をかけた魔物たちを送り込んでくる。とはいえ、この森の中で龍より強い魔物はいない。いくら緑龍が年老いていようとも、こんな小さな魔物など相手にもならなかった。
<数で来るしか能が無いくせに。……あいつらは、この私から森を奪い取れると思っているのか>
カナヒヒが、この森で勢力を広げはじめたのは50年ほど前からだ。緑龍が目覚めている間は狡猾に隠れていた奴らは、龍の睡眠期に一気に森での勢力を拡大させていた。
<……?>
緑龍は風が揺らいだのを感じた。何かが違う。緑龍は風を操るといく特性から空気の変化には敏感だ。
<何かが、森に入ったな>
人間のものとも違う。かといって魔物のものとも違う、異質な空気。こんな空気を持つのは、変化の術を持つ“彼”の血族だけだ。
<ようやく、現れたのかい?>
龍はその長い舌をべろりと出した。口の中は緑色の体とは反対の赤い粘膜がつやつやと光っている。
<待ってたよ。黒龍>
自然に笑みが浮かんでくる。もう何百年という時がたったのに、色褪せない思い、色褪せない憎しみ。この手で殺しても殺したりないと本気で思っていた緑龍にとって、もうそれが黒龍自身でなくとも構わなかった。彼の血さえ継いでいれば。彼が放つ、龍の香りさえ残っていれば。
<こんどこそ、私の傍にいる気になったのかい?>
半ば狂ったように、龍は含み笑いをした。
*
イバラのような枝が、幾重にも重なってブレイドの行く手をふさいでいた。ブレイドは舌打ちしながら、その枝を剣で切り倒して歩く。一本しか持たずに来た剣がこんなところで劣化させられるのは口惜しい。
「ったく、なんだって、こんな面倒なことしながら行かなきゃなんねぇんだ」
飛び出す愚痴も、誰にも届かないのではむなしいだけだった。たった数メートルを歩くだけなのに、道を切り開く作業が入るだけで疲労度も桁違いだ。背中に滲んだ汗を不快に感じながら、それでもブレイドは先を急いだ。
そんな風に何時間もかけて≪そこ≫についた時には、陽が傾き始め吹く風も冷たさを含み始めていた。
藪のような森が開け、大きな空間が空いている。数メートル先は、切り立った崖だった。その崖の中ほどに、ぽっかりと大きな穴が開いている。足場は何も無い、その穴がおそらく龍の巣だ。
「あれか」
ブレイドが呟くのと同時に強い風が吹いた。そして、穴の入り口から大きな緑色の龍が姿を現した。軽く翼をはためかせると、木々を揺らすような強風が湧き上がる。ブレイドは飛ばされないよう身を低くして手近な木につかまった。そのうちに、緑龍は大きな体をブレイドと同じ大地に乗せた。
「ほう、本当に黒髪のブレイドじゃないかい」
龍は、聞き取りやすい人の言葉を話した。ブレイドは驚いてその姿を見る。まさかこんな風に会話の通じる相手だとは思っていなかった。
「お前が緑龍か?」
「以前食らった男にそっくりだ。あれは、お前の父親か?」
「さあな。見て分かんないのか? 俺の方が親父の顔は知らないんだから、何とも言えないな」
額に滲む汗を感じながら、ブレイドは軽口をたたく。
ものすごい威圧感に全身が緊張してくる。龍はその大きさもさることながら、瞳に強い力を持っていた。睨まれたら、怖いもの知らずのブレイドとはいえ身がすくんでしまいそうだ。
緑龍は重そうな首をゆったりと動かすと、大きな口をゆがめて軽く笑った。
「心をくれるなら、体は生かしてやる。けれど、心をくれないなら、その体ごと食わせてもらうよ」
ブレイドは、息を飲んだ。一瞬要求の意味が分からず戸惑ったが、すぐに伝説の内容を思い出した。黒龍の代わりに傍にいろということか。
ブレイドは首を振る。そこに迷いは少しも無かった。
「悪いが、心はもう別の女にやった。とはいえ、体だってただやる訳にいかないけどな」
ブレイドは剣を構える。例え敵わないとしても、戦う前から負けるつもりは無かった。傍から見れば、ゾウに鼠が向かっていくような体格差だ。勝算はほぼ無い。
緑龍はじっとブレイドを見つめると、苦笑するような笑みを浮かべた。吐き出した息は強風となってブレイドの体を捕らえる。
「ふ。父親と、……同じことを言う」
龍の目が、憎々しげな色を浮かべる。先ほどまではまだ優しさのある表情だったことがここで分かる。
「ならば、いただくとしようか。その体」
言葉と共に、咆哮があがる。龍の腕が振り上がった瞬間、ブレイドも腕に力を込め剣を構えた。