プロポーズ・1
クレオ王子は、母親である女王陛下の寝室の前で二度ほど溜息を洩らした。隣では側近のダールがもの言いたげな目つきで彼を見下ろしている。
王子の生活スケジュールは側近たちによって管理されている。11歳とはいえ、クレオは勉強も兼ねて政治方面の会議にも出席する立場だ。一日の予定は溢れるほどにあり、それをやりくりして得た母親との面会時間はおよそ一時間だけだ。
ためらっている間にも時間は過ぎる。けれどノックをする勇気が出ず、クレオは三度目の溜息をついた。
「……殿下、おはいりにならないのですか?」
しびれを切らしたように、ついにダールがせっついた。クレオは苦い顔で空気を読まない側近を睨んだ。
「いや、入る。お前はここで待っていてくれ」
咳払いをして扉をノックすると、いつも通りの母親の穏やかな返事が返ってきた。それに安心しながらクレオは中に入った。
「クレオ、待っていたのよ」
天蓋つきの豪奢なベッドの上で、細い体を横たえた母親の笑顔は弱々しい。クレオはいつも通りの凛とした態度で彼女に近づいた。
「母上、お加減はいかがですか」
「ええ、だいぶいいわ。ありがとう」
「それは良かった」
作り笑顔を見せながら、母親を観察する。どこが良くなっているというのか。顔色も悪いし手も随分骨っぽくなっている。最近じゃ、ベッドから起き上がることさえなくなっているとダールが言っていたが、それも嘘じゃなさそうだ。それでも、様子を尋ねれば当然のように母親はこう言い返す。そんな母親に、クレオも何と言って良いのか分からないのだ。
『女王陛下には、生きる希望がないの』
ディアナの言葉が蘇る。確かにそうなのかもしれない、母親からは生気というものがあまり感じられない。けれど、だからと言ってどうすればいいのか、クレオには分からない。どうしたら、自分やクルセアを生きる希望にしてくれるのか。
泣き叫べとディアナは言うけれど、一度弱さを見せてしまったら、今度は自分の方が立ち上がれなくなってしまうかも知れない。今まで必死だった。泣き言も言わず勉学に励んできた。それは、母親を安心させたい一心からだ。過去をぶち壊すような本音を言うことは怖かった。
「今日は、あの子は連れてきていないの?」
「え?」
「ディアナさん、だっけ。治療師の女の子。……お気に入りのようにみえたけど」
「ああ……」
クレオは、気まずさに目をそらす。あれから、ディアナとは話していない。自分の身勝手でこの城に縛りつけておいて、謹慎させるなんてひどい話だ。それが分かっていても、自分がどう行動すればいいのかわからない。
どうしてこうなってしまったんだろう。ただ、母親に元気になってほしいだけだったのに。元気そうな優しい顔で、母親に笑ってほしいだけなのに。執務やなにかで疲れた時に、そっと笑い合ってくれればそれでいいだけなのに。
「……母上」
不意に、涙がこみ上げてきた。何も間違ってなどいないはずなのにどうしてこんなに苦しい。母親を大切にしたいだけなのにどうして上手くいかない。苦しい。
クレオの心は悲鳴を上げていた。11歳の少年の心は、限界を迎えつつあった。吐き出してしまいたい。誰かに弱さを受け止めてもらいたい。そんな思いが、一気に湧き上がってくる。
「僕は、……母さまが必要なんです」
「クレオ?」
涙は、一筋流れてしまえば、後は簡単に次から次へと流れて行った。ほつれた糸を引き抜くように、気持ちまでもが次から次へとこぼれていく。
「何もできなくてもいいから、傍にいて、辛い時に話を聞いてほしいだけなんです」
「クレオ」
弱々しかった母親の瞳に、驚きの色が映る。
「母さまに、僕とクレセアの安らぎになってほしいだけなんです」
涙が、膝の上で握られている拳に落ちる。恥ずかしくてクレオは顔を上げられない。
「し、……死なないで、下さい。僕は、……僕は」
「クレオ」
「僕はまだ子供で、母さまが居ないと、……ダメなんです」
言い切って歯を食いしばっていると、不意に手が伸びてきた。細い骨ばったその手は、クレオの頬を伝う涙をゆっくりと拭う。
クレオは顔を上げた。母親が自分を見ている。今までには無いほど瞳を見開いて。
「ごめんなさいね。クレオ」
弱い力が、クレオの肩を抱き寄せた。ふわり、やわらかい感触に、クレオの体の力が抜ける。もう何年振りだろう。こうして、母親の腕に抱かれるなんて。
甘えるように目を閉じる。視界がさえぎられると触覚や嗅覚が冴える。このぬくもり、この香り、それだけで安らいでいく気持ち。これをずっと取り戻したかった。取り戻したくて頑張っていた。
「あなたにそんな思いをさせてるなんて、思わなかったの」
クレオは答えずに母親の背中にまわした手に力を込めた。どんな言葉よりも、これが伝わるはずだと考えた。
自分にとって、母親のやわらかさや香りが何よりのものだったように、母親を求める手の力が、何よりも必要だと伝えてくれる。
クレオの頭に何かが落ちた。それが母親の涙だと気づいたのは、顔を上げた時だ。
「私、……あなたたちの母親なんだものね」
「母さま」
「死んだりしないわ。あなたたちに私が要らないと言われるまで、私は死なない」
クレオは、心が軽くなっていくのを感じた。本当はずっと重たかった。冷静で、落ち着いていて、出来の良い王子でいるのは。毎日重石がのっていっていつか潰れてしまうような気もしていた。なのに、こうして一度甘えれるだけで、心も体もなんて楽になれるんだろう。
やがて、ノックの音が響いた。もう1時間が過ぎてしまったのだろうか。
「ちょ、ちょっと待て!!」
クレオは慌てて怒鳴ると、頬の涙を拭きとった。こんなところをダールに見られたら、後で何と言われるか分かったものではない。いつもの冷静な顔をつくって、咳ばらいを一つする。
「もう、時間です。僕は行きます。……母上、お元気になってください」
「ありがとう、クレオ。……また明日来てくれる?」
そんなお願いも、最近ではずっと聞けなかった。胸をくすぐるこの感情は嬉しさか。クレオは顔が勝手に緩んでいくのを止められなかった。
「はい。もちろんです」
満たされた満足感で、扉を開ける。そこに立っていた側近のダールにいつもの冷静な王子の顔を見せる。
「ダール、治療室へ行くぞ」
「は? どこかお怪我でも」
「ディアナの謹慎を解く」
「なぜですか」
「いいから、いくぞ、ほらついてこい」
どこまでも毅然とした、冷静な王子。休める場所があるのなら、それを維持するのは少しも辛いことじゃない。静かな廊下に靴音を響かせて、クレオは足早に歩きだした。




