黒い影・2
「あの……」
感情のままに口を開きかけたディアナを遮ったのは、ノックの音だ。返事をする前に扉が開き、クレオが入ってくる。慌てて戻ってきたのか、若干息が切れている。
「失礼、母上。お待たせしました。いかがですか?」
「あら、まだお話していただけなのよ? それより、陛下からの要件はなんだったの?」
「大したことではありません。母上が心配するようなことは、何もありませんよ。それより、ディアナ。早くやってみてくれ」
苛立った様子でクレオが促す。
「あ、す、……すいません。ええと、眩暈、でしたね」
ディアナは、女王陛下の耳のあたりに回復魔法を唱えた。それは最近の研究で、眩暈は耳からくるものが多いと分かったからだが、そもそも眩暈というのは魔法治療が向いている病気ではない。効果が出せる自信はあまり無かった。
「……どうでしょうか」
おずおずと聞いたディアナに、女王陛下はやわらかく微笑んだ。
「ええ。少し良くなった気がするわ。……そろそろ眠らせてもらっていいかしら」
おそらくそれ程の改善は無かったのだろう。女王陛下に気を使われた形になりディアナとしては居心地が悪い。
「では、母上、お大事に。何もご心配なされないよう」
「……失礼します」
そのまま、三人は深々と礼をして女王陛下の居室を後にした。廊下に出た途端、王子は期待の眼差しでディアナを見る。
「どうだ? ディアナ。母上は治りそうか?」
「殿下」
「王子殿下、ここでは人目に付きます。もう少し女王陛下のお部屋から離れましょう」
カタリナに促されて、ディアナたちは足早に王族たちの私室のある棟を抜けた。
「……で、ディアナ」
クレオは完全に何かしらの効果を期待している。それがありありと分かるだけにディアナは胸が痛む。
今日女王陛下と話をしてみて、一つ分かったことがある。だけどそれを言ってもいいものかディアナは悩んでいた。
「ディアナ、どうなんだ」
クレオがディアナを城に呼び寄せたのは、女王陛下の治療をさせたいが為だ。だからずっと誤魔化せるわけは無い。ディアナは、意を決して口を開いた。
「……女王様は、おそらく回復魔法では治りません」
「え?」
「ディアナさん?」
クレオの顔がこわばり、カタリナも怪訝そうな表情を浮かべる。
「どういうことだ。そんなにひどいのか、母上は」
「女王様に必要なのは、治療じゃありません」
「……意味が分からない。ちゃんと言え、ディアナ」
語気が荒くなる王子に、気まずい思いを抱えながらもディアナは正面から見据える。
「女王陛下はおっしゃっていました。クレオ王子やクレセア王女にとって、自分は必要ないと」
「は? 何を馬鹿なことを」
「あなたがしなきゃいけないのは、心配ないって言うことじゃなくて、心配をかけることです」
「ディアナ、治せなかったなら治せないのだと正直に言え。何を言いたいのかさっぱり分からない!!」
クレオ王子は完全に取り乱していた。その感情がディアナにも移って来る。納得がいかないのはディアナ自身も同じだ。ここが城内で相手が王子であることなど、頭から一気に吹き飛び、ディアナは感情のまま大声で怒鳴った。
「……じゃあ言うけど! あんたがこのまま、女王陛下の前でいい子ちゃんにしてるんなら、あの人、安心して死んでしまうわよ。……もっとわがまま言ってもっと困らせて、お母さんが必要だって、ちゃんと伝えなきゃいけないんじゃないの?」
「ディアナさん!」
カタリナが慌てて制止に入るが、もう遅い。ディアナの暴言は止まらなかった。
「母親の話になるといつもの冷静さを失うほど心配してるって、あなたが必要なんだって、ちゃんと伝えないとダメなんだよ。女王陛下には、……生きる希望がないの。いつ死んだっていいって、そう思ってるみたいだった」
クレオの顔が、悲しげにゆがむ。その顔には見覚えがあった。一年前、サンド村で事件を起こし項垂れた少年の表情。
「馬鹿な。……そんなこと、何でわからないんだよ。母さま」
「王子殿下」
「そんなこと、……出来る訳ないじゃないか」
ポツリとつぶやいて、そのままクレオはとぼとぼと、私室に向かった歩き始めた。残されたカタリナが、苦い顔をしてこちらを見る。
「……あなたの言うことは一理あるけど、あの言い方はないわね。王族への不敬罪にあたるわ。しばらく自宅謹慎よ。許可が出るまで、自室に戻っていなさい。生活必需品購入以外の外出は厳禁よ」
「はい」
気がつけば、周りには護衛の兵士や召使たちがわらわらと集まっていた。この人ごみの中で、王子殿下に対してあの言葉使いで話してしまっては、不敬罪を問われても仕方ないだろう。
絡みつく視線から逃れるように、ディアナは歩き出した。
王子と自分が似ているということに、ディアナはここで初めて気がついた。
意地を張って平気な顔をして前を向く。だけど、本当は平気なんかじゃなくて不安で心細くてたまらない。本当は、母親がいなくなることをものすごく恐れている。限界ギリギリまで頑張っている彼は、何かのきっかけで崩れてしまったら立ち直れないかもしれない。
ふと、ブレイドが自分の為に父親と戦ってくれたときの事を思い出した。あの時のブレイドも、こんな気持ちになったのかも知れない。もどかしくて、手を出してやりたくてたまらなくなったのだろうか。
「ブレイド」
彼の名前は呪文のようだ。呟くだけで胸が温かくなる。彼に会えたら、こんな惨めな気持ちは多分一瞬で吹き飛んでくれるのに。
ディアナはこみあげてくる涙を何とか押しとどめて、こぶしを硬く握り締めた。
真っ直ぐに、前を向いて城門を出よう。正しいことを言った。少なくとも自分がそう思うならば。
城の外は、まだ明るく日差しが目にまぶしい。対照的に地に移る自分の影は暗く、胸にどんよりとのしかかった。