第三話 宮廷の女房たち
春の内裏は、どこか浮き立つような気配に満ちていた。庭の桜はちょうど見頃で、風が吹くたびに花びらが舞う。女房たちの笑い声も、いつもより少し華やいでいるようであった。その廊を、雅行は歩いていた。萌黄色の直衣に、整った姿。すらりとした立ち居振る舞いは、どこか雅やかである。
東宮の蔵人となってまだ数日。宮廷では、すでにひそやかな噂が広まっていた。
「ねえ、見て。あの方が……」
「まあ、本当に美しい方……」
御簾の向こうから、女房たちの囁きが聞こえてくる。
「春宮坊の若き才子、雅行殿よ」
「書も歌も見事だとか」
「しかも殿下の蔵人になられたのよ」
雅行は聞こえぬふりをして歩いていたが、内心では小さく息をついた。
――困ったことになった。
男として宮廷に出仕している以上、女房たちの関心を引くのは避けられない。だが、それが強くなりすぎると、いろいろと面倒なことも起こる。
そのとき、背後から声がした。振り向くと、通成が立っていた。柔和な笑みを浮かべている。
「雅行殿」
「通成殿」
「今日も人気だな」
「何のことでしょう」
雅行が言うと、通成は肩をすくめた。
「御簾の向こうをご覧になればわかる」
そっと視線を向けると、そこには数人の女房がいた。こちらを見て、慌てて扇で顔を隠している。
「気のせいでしょう」
「いや、気のせいではない」
通成は楽しそうに笑った。
「最近、宮中で評判だぞ。“春宮の麗しき蔵人”と」
「それは誇張です」
「誇張ではないと思うがな」
そう言っていると、ひとりの女房がそっと廊へ出てきた。若い女房であった。頬を少し赤くしている。
「雅行様」
「何か」
「もしよろしければ……」
雅行が静かに答えると、その女房は文を差し出した。恋文であることは、すぐに分かった。雅行は一瞬困ったが、やんわりと微笑んだ。
「お気持ちはありがたいのですが、私はまだ若輩の身。このようなものを頂くには、恐れ多いことでございます」
彼女を傷つけてしまうが、女の身では気持ちに応えることができない。申し訳ない気持ちで丁寧に断わると、女房は少し残念そうに頭を下げた。
「失礼いたしました……」
その姿が見えなくなると、通成が声を上げて笑った。
「見事な断り方だな」
「通成殿……」
「いや、本当に感心した」
通成はしばらく笑っていたが、ふと真面目な顔になった。
「だが雅行殿」
「はい」
「気をつけた方がいい」
「何をでしょう」
「宮中というところは、噂が広まりやすい」
通成は静かに言った。
「才ある若者は、時に目をつけられる」
雅行は小さく頷いた。
「肝に銘じます」
通成は少し笑った。
「まあ、私が言うのも妙だが」
「?」
「私は、雅行殿の味方だからな」
その言葉は、どこか率直だった。
「ありがとうございます」
雅行は静かに頭を下げた。
そのとき、廊の向こうに、見覚えのある姿が現れた。東宮景尚である。雅行と通成は、すぐに礼をした。
「面を上げよ」
景尚は静かに言った。
「通成、先日の文は整ったか」
「はい、殿下」
通成が答える。景尚の視線が、ふと雅行へ向けられた。
「雅行」
「は」
「随分と賑やかだったようだな」
雅行は一瞬、言葉に詰まった。
「女房たちのことだ」
景尚は淡々と言った。
「恐れながら、私の力ではどうにも」
そう言うと、通成がくすりと笑った。
「殿下、雅行殿は宮中一の人気者ですから」
景尚はしばらく黙っていた。そして、静かに言った。
「……そうか」
その声は、どこか低かった。やがて景尚は視線を逸らし、歩き出した。
「雅行、後ほど蔵人所へ参れ」
「かしこまりました」
景尚の姿が遠ざかっていく。通成はその背中を見送りながら、小さく呟いた。
「殿下は、雅行殿を随分と気に入っておられるな」
「そのようなことは」
「いや、見ていれば分かる」
通成は笑った。
「まあいい。これからもよろしく頼むぞ、雅行殿」
「こちらこそ」
雅行も微笑む。
だがその胸の奥では、別の思いが静かに揺れていた。もし、この秘密が知られたなら。若き公達・雅行は消える。残るのは、ただの姫君・藤霞だけ。
それでも、藤霞は今日も、雅行として宮廷を歩く。春の風が吹き、桜の花びらがまたひとつ舞い落ちた




