第二話 月下の任命
夜の内裏は、昼とはまるで別の顔をしていた。春の月が静かに昇り、白い光が回廊を淡く照らしている。遠くで風が吹き、桜の花びらが一枚、また一枚と舞っていた。雅行は、春宮坊の廊を静かに歩いていた。
今宵、東宮の命で、蔵人所へ参ることになっている。胸の奥が、わずかに高鳴っていた。蔵人とは、東宮の最も近くに仕える者。それは栄誉であると同時に、逃げ場のない立場でもある。もしも、この身の秘密が知られてしまったら。
雅行は、そっと息をついた。
「雅行か」
不意に声がした。振り向くと、御簾の向こうに人影がある。
「……殿下」
東宮・景尚親王であった。
月の光が御簾越しに差し込み、その姿をぼんやりと浮かび上がらせている。
「近う参れ」
雅行は静かに進み、膝を折った。
「面を上げよ」
顔を上げると、景尚の視線がまっすぐに向けられていた。昼間よりも、どこか静かな眼差しである。
「そなたを呼んだのは、昼に申した通りだ」
景尚はゆっくりと言った。
「雅行。そなたを、蔵人に取り立てる」
一瞬、時間が止まったように感じられた。
「……身に余る光栄にございます」
雅行は深く頭を下げる。
「そなたの才は、少進のままにしておくには惜しい」
景尚は言った。
「書も、歌も、政務もよく整う。そのうえ、そなたの言葉は不思議と心に残る」
雅行は黙っていた。
「通成も、そなたを高く評価しておった」
ふと景尚は微笑んだ。
「春宮坊の若き才子、か」
雅行は苦笑した。
「そのような噂、誠にお恥ずかしい限りでございます」
景尚はしばらく黙っていた。
そして静かに言った。
「……そなたは、どこか不思議な男だ」
雅行の胸が、わずかに跳ねた。
「多くの公達は、己を飾ろうとする。だが、そなたは違う」
月の光が、景尚の横顔を照らしている。
「まるで霞のようだ」
その言葉に、雅行の息が一瞬止まった。
霞――それは、藤霞という本名そのものだった。
「姿はここにあるのに、どこか遠くへ消えてしまいそうな気がする」
景尚は静かに言った。
「……殿下」
雅行は言葉を失う。
そのとき、夜風が吹いた。庭の桜が揺れ、花びらが廊に舞い落ちる。
景尚はふと立ち上がり、月を仰いだ。
「蔵人となれば、これからは我がそばに仕えることになる」
そして雅行を見た。
「よいな」
「……はい」
「我が影として働け」
その言葉は静かだったが、不思議と重みがあった。雅行は深く頭を下げた。
「仰せのままに」
だが胸の奥では、別の思いが渦巻いていた。――影となる。それは、東宮の最も近くにいること。そして、秘密を抱えたまま生きることでもある。
夜の宮廷には、月の光だけが降り注いでいた。その下で、若き公達・雅行の運命は、さらに深く東宮へと結びついていく。




