第一章 春宮坊の若き才子
春の朝であった。
内裏の東、春宮坊の廊には、やわらかな光が差し込んでいる。檜皮葺の屋根からこぼれる日差しは淡く、朱塗りの柱を静かに照らしていた。廊を、ひとりの若き公達が歩いていた。
萌黄色の直衣に緋の指貫。
細身の姿に、端正な面差し。
名を雅行という。
だが、この名は仮のもの。
その本名を知る者は、この宮中には一人としていない。
彼の正体は、左大臣家の姫君――藤霞であった。
女として生きれば、やがて中宮候補として籠の奥に閉じ込められる運命。それを嫌い、藤霞は男の名を借りて宮廷に出仕しているのである。
「おや、雅行殿。今日も早いな」
背後から声がした。振り向くと、同じ春宮坊の少進である若き公達が立っている。名は通成。柔和な顔立ちに知性の光を宿す、名門中納言家の子息であった。雅行は軽く会釈する。
「通成殿。おはようございます」
「昨夜は遅くまで文書を整えておられたとか。お身体は大丈夫か」
「たいしたことではありません。殿下の御前に差し出す文ですから、整えておきたかっただけです」
「まったく、雅行殿は真面目だな。和歌も書も見事、そのうえ政務まで抜かりない。春宮坊一の才子と噂されるのも無理はない」
「買いかぶりすぎです」
「いや、本心だよ」
通成は感心したように笑った。
そのとき、廊の奥で衣擦れの音がした。ふと、空気が静まる。
「……東宮様」
若き東宮が姿を現した。白の直衣に濃紫の指貫。まだ若いが、その眼差しにはすでに人を従わせる力がある。東宮・景尚である。雅行と通成は、すぐに膝を折って礼をした。
「面を上げよ」
静かな声が落ちる。景尚の視線はまず通成へ、そしてゆっくりと雅行へ移った。
「通成、昨日の奏覧文は整ったか」
「はい、殿下。雅行殿が清書を整えてくださいました」
景尚の視線が、再び雅行へ向く。
「そうか。……雅行」
「は」
「先日申した和歌草稿、持っておるか」
「はい」
雅行は懐から文を取り出し、両手で差し出した。景尚はそれを受け取り、しばし眺める。整った筆跡。どこか柔らかく、風のように流れる字であった。
「……見事だな」
小さく呟く。通成が笑った。
「殿下、雅行殿は書も歌も宮中随一です。私など到底及びません」
「謙遜するな、通成」
景尚は文を閉じると、ふと雅行を見た。その視線は、なぜか少し長かった。
「雅行」
「は」
「今宵、蔵人所へ参れ」
通成が驚いたように目を見開く。
「殿下……もしや」
景尚は静かに言った。
「蔵人に取り立てようと思う」
一瞬、廊の空気が止まった。
蔵人――それは東宮の最も近くに仕える役。若き公達にとっては異例の抜擢である。
「……身に余る光栄にございます」
雅行は深く頭を下げた。だが胸の奥では、心臓が激しく打っていた。
東宮の近くへ。それは、望んでいたことでもあり――同時に、危うさを増すことでもある。
景尚はわずかに頷くと、廊を去っていった。
春風が静かに通り抜ける。
「雅行殿、すごいではないか」
通成が嬉しそうに言った。
「蔵人だぞ。殿下のすぐそばだ」
「……そうだな」
「羨ましいな。私も負けていられない」
通成は笑った。雅行も微笑み返す。だが胸の奥では、別の思いが渦巻いていた。
――もし、この秘密が知られたなら。
若き公達・雅行は消える。そこに残るのは、ただの姫君・藤霞だけ。それでも。藤霞は胸の中で、そっと和歌を詠んだ。
霞たつ
春の宮路を
行く人の
名のみ残して
身は隠れなむ
こうして、若き才子・雅行の運命は、東宮の影へと近づいていくのだった。
霞たつ
春の宮路を
行く人の
名のみ残して
身は隠れなむ
訳:
霞の立つ春の宮廷の道を行く私は、
名前だけを残して、
本当の姿は隠して生きていこう。




