猫チョコGQ (上)
2月14日。
世の中の女の子たちが「愛の結晶」を練り上げているその裏側で、
私は「地獄」それとも「天国」をテンパリングしていた。
始まりは、些細な慢心だった。
「チョコなんて溶かして固めるだけでしょ?」
その思い上がりは、深夜4時、寝不足のクマ、寝坊、そして最悪の天敵——「猫」との邂逅によって。
これは一人の女子高生が純愛を猫に盗まれ憎悪という名のチョコを噛み砕くまでの、
甘くない、ある一日の記録である。
※作者は猫飼ったことありませんが、
猫にチョコはあげては行けないと思います。
未来「チョコ入れる猫型の箱とハート型の箱どっちが可愛いと思う?」
すみれ「バレンタインだしハート型でしょ?
ま、猫もハートも未来媚びすぎじゃね?ガチ過ぎて引くわ」
猫なんて、あの野蛮な本能を隠して可愛子ぶってるだけの野獣じゃないの。
正直、親友のすみれがハート型の方を選んでくれて、正直ホッとしている。
人に言ったことない私の秘密、実は猫が苦手、というか嫌いだ。
この前見た近所にいる太ったおブスな猫はこの前小さいネズミ咥えてたのよ?
なんでこの日本のご時世にそんな猫がいるのって話よ。
大SNS社会のご時世にこんな事言ったら何をされるかわからないし、
まじで学校・社会的に抹殺されると思う。でもSNSとかに流れてくる猫の動画とかは見るし、
アニメとかの猫のキャラは可愛いから好きなんだけどね……変な矛盾。
未来「やっぱりそうだよね、だけどベタすぎないかな、ははは……」
なぜ苦手、嫌いなったのか小学生の頃のトラウマを思い出していた。
親戚の家にいた巨大な猫、みいちゃん。
私も小学生だったし、ただみいちゃんと遊びたかっただけなのに……
今思い出すと渡しがやりすぎたのが行けないんだと思う。
あの時みいちゃんが見せた本当にこれが猫と言わんばかりの凶暴な瞳。
それ以来、私にとってリアルな猫は可愛いペットじゃなく、
いつ喉笛を掻き切るか分からない野獣だと私は思い込んでる。
すみれ「奏くんって、猫飼ってるんだっけ?」
未来「んー……どうだったかなあ?」
私は知っている。そう、私の好きな奏くんは猫を飼っていることを。
ちゃんと見たことはないんだけど彼の家に飼い猫が入ってくる所を見たことがある。
バス停近くの一軒家、ちょっと近所なのも実は私知っている。
その時に初めて奏くんを見てからの一目惚れだった。
夕暮れ時、奏くんの家の庭に、あの太ったおブスな猫が入り込んでいくのが見えた。
未来「げ誰よ……あんな野獣を飼ってる人は……。」
そう思って顔をしかめた瞬間、玄関から彼が出てきた。
彼は、私がこの世で最も恐れるあの獣を、信じられないほど優しい手つきで抱き上げたのだ。
夕日に照らされた彼の横顔は、野蛮な生き物さえも、
無害なぬいぐるみに変えてしまうような、聖母か何かっぽい神々しさがあった。
猫を抱く彼の指先があまりに綺麗で、その瞬間、私の心臓は激しく波打った。
猫は苦手、嫌い。
でもその猫を愛おしそうに撫でる彼の捕虜になってしまった。
今日は2月13日、バレンタイン前日。
高校1年生、初めてのバレンタイン。
すみれと何人かの中のいい友達には友チョコ渡すけど、本命は隣のクラスの奏くん。
普通なら、デパ地下で数千円するブランドチョコを買うのが正解かも。
だけど、私はどうしても自作にこだわりたかった。
理由は単純。あの日彼が猫に向けていたあの世界でたった一つのものに向ける眼差しを
私の作ったチョコに向けてほしかったから。
自作チョコなんて溶かして固めるだけでしょ?
バイトでやってるバーガーのパティ焼くより簡単じゃないの。
そんな根拠のない自信は、恋という劇薬に侵された脳が見せた、チョコよりも甘い白昼夢だったのかも。
市販の完成された美しさじゃダメ。私の手掌の熱が伝わる何かじゃないと、あの猫に勝てる気がしない。
すみれ「リボンもラッピングも箱とか材料も買ったんだし、会計しない?そろそろ私バイトあるからさ」
未来「そ、そうね……」
会計を済ました私は待っていたすみれと合流する。
この時の私は本当に浮かれていたと思うし、本当に馬鹿だった。
すみれ「てか未来チョコなんてつくったことあんの?」
未来「え?そ、それぐらいあるわよ。そもそもチョコなんて溶かして固めればできるんだから!」
すみれ「ほーん、で、つくったことあるの?未来さん?」
未来「え……それはその……」
すみれ「ふーん、ま、じゃ頑張ってね。」
そう言うとすみれは別の方向へ向かっていった。
すみれ「私たちの友チョコも忘れんなよー!!」
未来「わかってるー!!今日のシフト変わってくれてありがとー!!」
手を振り返すすみれ。
実際何もわかっていないのはは私の方だった。
2月13日23時30分、悲劇は起こる。
「チョコレート 溶かして固める 固まらない なぜ?」
本来なら私の手作りチョコレートは完成している予定だった。
買ってきたハート型の箱にチョコレートを梱包して、メッセージカードを書く予定。
本来ならそうだったが違う。私はスマホで鬼の形相で検索を繰り返していた。
そう、チョコレートが固まらないのである。
未来「なんでえ?なんでえそうなるの?」
「チョコレート 溶かして固める 固まらない なぜ?」
チョコレートを溶かして固める際の失敗(分離、固まらない、ボソボソ)は、
主に「水分の混入」「温度が高すぎる(加熱しすぎ)」「テンパリング不足」が原因です。
分離した場合は、温めた牛乳や生クリームを少量ずつ加えて混ぜることで、なめらかな状態に復活できます。
未来「だからさっきからそうしてるでしょ!!!!!!」
私はテンパっていた。
未来「なんでえ? なんで固まらないのよぉ! テンパリング!? 何よその格闘技みたいな名前!」
検索画面に出てきたワードを睨みつけながら、一人切れ散らかす。
そう、とてもチョコとは言えない何かが出来ていたから。
例えるならとてもチョコとは程遠く、お菓子と最もかけ離れた物のような
見た目のモノが出来ていたからである。
未来の母「ちょっと!もう遅いんだからそんなに騒がないの!」
未来「お母さん!チョコが!チョコが!」
未来の母「だーから言ったじゃない!買ったほうがいいって!」
未来「それじゃあ友チョコじゃないし、すみれ達に渡させないの!!」
未来の母「そのうんちみたいなチョコ渡せばいいじゃない。」
未来「うんちじゃないの!!!!!!!!!!!!!チョコ!!!!!!!!!!!」
母親のうんちという一番言われたくなかったワードにショックを受けて、絶叫しながら床を転げ回る。
未来の母「うるさい!お父さんもう寝てるの!あんた明日も早いんだから!寝なさい!」
未来「ああああああああああああああ!!!!!!! 私はもうダメだぁ!!!!!!!」
未来の母「そもそもすみれちゃん達に渡すものなんでしょ、いいじゃないそれで。」
未来「そうだけど!!!!!そうなんだけど!!!!!!!!それでも!!!!!!!!」
母親とそんなやり取りを30分ほど続けてしまった。
時刻は0時。来たるべき2月14日、バレンタイン当日を迎えてしまった。
放課後に言われたすみれの言葉がループしている。
すみれ「てか未来チョコなんてつくったことあんの?」
うんちみたいなチョコをこの世に放り出してから小一時間ほど頭の中ループしているこのワード。
舐めてた、本当にお菓子作りなめてた。
こんな目に合うなら先週末にでもテストで作っとくべきだった。
否、中学生いや小学生の頃から作っておけばよかった。
未来「すみれ、本当にそのとおりだよ……」
涙目になりながらもチョコ作りを再開する。
未来「バイトでハンバーガー作ってるから料理なんて簡単だと思ってたのに……」
そこからは地獄が待っていた。
二度目のチョコ作りも失敗。失敗と同時にチョコレートのストックが切れる。
私は無力感を感じながらすみれにチャットを送る。
そもそもチョコづくりのためにバイト変わってもらったものの、私のためだし、
私もすみれからのメッセージに気がついていなかった。
「今日なんかハードだった、バーガー100個ぐらい作ったかも」って連絡来てたのに今気がつく、すみれの既読はつくわけもなく。
仕方がないので動画サイトを開き失敗しない作り方の動画を3つか4つほど見た。
よくわからないが、数時間前よりかわかったと思う。ええ完璧に理解した。
多分理解したと思うが、悲劇は襲う。放り出し過ぎたのか、
未来の板チョコレートのストックはすでにそこを尽きていた。
深夜2時過ぎだったと思う、こっそりと家を抜け出して近所のコンビニへ向かった。
そこからは作業再開してチョコレートらしいチョコレートが完成したのが朝の4時。
未来「はぁ……はぁ…こ、これで、で出来た。」
本命のチョコレートとすみれ達に渡す友チョコが完成した。
正確には本命チョコレートと失敗したチョコレートの2つ。
未来「奏くんに渡すのはハート型のケースに入れて、ラッピングして」
この時までは順調だった。うまく行った思っていた。
作ったチョコレートをラッピングして、友チョコ同様に
紙袋に入れて学校に行く。頑張って奏くんに渡してなんだかんだで仲良くなって
彼氏ゲット。ガハハ、勝った!高校生活完ッ!これで私も花の女子高生の仲間入り、JKよ!JK!
未来「梱包終わりッ。バイトでハンバーガー包むのと同じ感じね。次はメッセージカード!」
と、ここまではよかった。しかしここで慢心してしまった。
未来「ふわわ、眠、4時超えて起きてるのなんて初めて。」
メッセージカードは後でいいや。一眠りしたら、書こう。
未来「寝ヨ、もう無理。起きたら書こ、奏くんの名前だけ夕方に書いたし。」
バカ。本当にバカ。この世で一番バカ。
この時書いておけばワンチャンあったのかもしれない。
いや、なかったかも。
2月14日、7時半未来起床。
未来「……っ!!」
いつの間にか自分で止めた目覚まし代わりのスマホぶん投げ、
ベッドから跳ね起きた瞬間、脳髄を灼くのは、遅刻への恐怖と、
奏くんに突き刺したいこの想いだけが激しく揺れた。
案の定、私は寝坊した。
普段より25分ほど寝坊した。
すみれからの「おはよ~~~~やばてかチョコ出来たん??」というメッセージと共に。
優雅な洗顔? そんなの今の私には無用、
未来は洗面台へダイブすると、氷のような冷水を顔面に叩きつけた。
「あぁ、あ~! 冷ぇ……っ!!」
寝不足でドロドロに淀んだ眼球を無理やり覚醒させる。
鏡の中の自分は、昨夜のチョコ格闘のせいなのか、
夜遅くまで起きていたせいで髪がみたいにボサボサだ。
クシを髪の根元に叩き込み、絡まった毛先をメキメキッという音を立てながら力任せに引きちぎる。
痛覚なんて、首元を締め上げる焦燥感という名のラッピングのような束縛感によって、
すべて麻痺している感じ。
スキンケア? そんなもん、化粧水を顔面にドピュッとぶっかけ、
手のひらで往復ビンタするように叩き込むだけで終わり。
その上にファンデーションを塗りたくり、
寝不足のクマにチョコレートの仕上げるが如くのコーティング、
厚塗りのカモフラージュで強引に埋めていく。
未来「最悪!最悪!最悪!最悪!」
次は着替えだ。
制服のブラウスに腕を通すが、焦りでボタンが穴に入らない。
未来「時間!時間!時間!時間ないの!!」
指先が震え、ボタンがはじけ飛びそうになるのを、気合と握力でねじ伏せる。
スカートを腰で回し、リボンを喉元でギュッと締め上げる。
その締め付けが、まるでチョコレートの梱包を行う早朝の自分のように、未来の呼吸を浅くさせた。
昨夜から鼻腔にこびりついて離れない、
あのチョコの混ざったな香りを消すために香水を全身に噴射する。
甘ったるい香りと香水の甘ったるい違う2種類の匂いと部屋中すべての混ざり合い、
部屋中にカオスな匂いが立ち込める。
登校用に仕上がった未来はなりふり構わず、ブレザーを羽織り、カバンを持ち、部屋を飛び出した。
未来「なんでお母さん起こしてくれないの!!!!」
未来の母「起こしたわよ!それよりもあなたなにこれ?キッチンやりっぱなしじゃない!お父さんびっくりしてたわよ!」
未来「ちょっと今無理!!後で片付けるから待ってよ!!」
未来の母「なにこのレシート?え今日の2時半?なによこれ??」
未来「あーもう!、うるさい!うるさい!」
未来「帰ったらやる!帰ってきたらやるから!」
お母さんにガミガミと言われながら、私は友チョコを下に、本命チョコを上に入れた紙袋を持って玄関を出た。
未来「行ってきます!帰ったら片付けるから!今はゆるして!」
バレンタインデーだというのにいつもより寝てないし頭は回らない、
普段はない感覚が襲う。頭がガンガンして、2月とは思えないような汗をかきながら、
いつもより髪もボサボサのまま家を飛び出す。
普段乗るバスより2本遅いバスに乗る、乗れれば遅刻は回避できる。
そのことだけを考え私は走る。そもそも時間がない。ダッシュでバス停へ向かう。その時だった。
その時眼の前にヌッと近所にいる太ったおブスな猫が現れた。
未来「げっ!猫!」
2月の寒さのせいなのか、霧が立ち込める朝の道。
あの太ったおブスな猫が、未来の行く手を阻むように立ちはだかる。
未来「そこどいて! どかないとどうなっても知らないわよ!!」
しかし猫は退かない。
未来は全力で走りながら咄嗟に身を翻すが、その拍子に紙袋からコトッという乾いた音が響いた。
猫「ニャーン……」
それは、奏くんへの想いを詰めたハート型の箱が、アスファルトに叩きつけられた音だった。
だが、未来の脳内は遅刻回避というドーパミンで埋め尽くされている。
苦手な猫を回避すること、バスに乗ることしかその時は考えていなかった。
なにかが落ちる音へ気がつくべきであった。
猫を飛び越え、バスへ向かう未来。未来は振り返ることはなくバス停へ向かった。
猫は落ちたハート型の箱の前に座り込み、不気味な声で鳴いた。
走り去る未来をじっと見つめる猫、その場を動かずじっとチョコの上に止まっていた。
未来「はぁ、はぁ……猫、バス、遅刻、そ、それだけは回避、バス……バス乗ら……!!」
バスの到着と共に私はバス停に到着した。
いつもと違うバスは普段乗るバスよりも混んでいた気がする。
あまりこの時間のバスに乗ったことがないからだ。
バスはゆっくりと高校へ向かい、HR前ギリギリの時間に私は校門をくぐり抜け、教室へ向かった。
あの時何を落としたかに気がついたのは昼休み前だった。
未来「ふぅ……。とりあえず午前中の授業は無事にすんだし、さて、奏くんに渡す前に、カードを……」
紙袋を覗き込んだ瞬間、未来の顔から血の気が引く。
指先が震え、全身から変な汗が噴き出す。
未来「ななな……ない。ハートの箱がない……! 入ってるのは……すみれ達への“失敗作”だけ……!?」
未来の脳裏に、あの時の猫の冷たい瞳がフラッシュバックする。
未来「そ、そんな……終わった……私のJKバレンタイン、終わったぇ……!」
紙袋の底を掻きむしる。指先に触れるのは、アルミホイルに包まれた、歪で、ボソボソとした、あのうんちと蔑まれた失敗作の感触だけだ。
未来「な……ない。……うっそでしょ、ハートの箱がない……!」
未来の脳裏に、猫の冷たい瞳とコトッという音がフラッシュバックする。
あの太ったおブスな猫は、今頃私の想いを砂場に埋めているのか?
それとも、頑張って作ったチョコを噛み砕いて嘲笑っているのか?
すみれ「未来ー!チョコ交換すっぞ! ……って、うっそだろお前! 顔色真っ青じゃねーか。」
未来「あ……あはは、ちょっと寝不足で……」
ガタガタ震えながら未来の指先は、袋の中のアルミホイルに包まれた黒い歪な塊に触れていた。
脳裏に焼き付いて離れないのは、あの朝の、猫の勝ち誇ったような不気味な鳴き声。
未来(どうする……? すみれ達に渡すのは失敗作はあるけど本命のチョコは!!)
すみれ「ほら、出しなよ。私のは市販だけど、気合入ってるぜ?」
未来はもはや思考停止した表情で、袋の中からそれを取り出した。
未来「……これ、あげる……」
アルミホイルに包まれた何かを見た瞬間、すみれの動きが止まる。
教室に漂う、微かな、焦げたような不気味な香り。
すみれ「え……未来、これ、何……? 特級呪物?」
未来「それ!!チョコなの!! 本当にチョコなのよぉ!!」
未来、すみれの周りが少しざわつく。
すみれ(え”、もしかしてこれを奏くんに渡す……の??)
すみれは未来に回りに聞こえないぐらいの声で耳打ちする。
未来の耳元で、地獄の底から響くような声で
すみれ「……未来。正気か? これを奏くんに渡すつもりなら、今すぐ止めろ。お前の恋が終わるだけじゃねえ、お前の『人間としての尊厳』が粉砕されるぞ!!」
涙目になりながら顔を赤らめる未来。
未来「ち、違うの……本命は、もっと綺麗で、ハート型で、猫に……あぁ、あ~!!」
未来の言葉にならない叫び。
手元にあるアルミホイルの塊からは、謎の熱気と焦げ臭い甘い死の香りが立ち上っている。
すみれ「猫? 何言ってんだお前。……まさか、猫にチョコ奪われたとでも言うのか?」
未来の脳内に、最悪のパズルが組み上がる。
私の嫌いな猫が、死ぬ気で朝4時までかけて作り上げたチョコを受け取っている光景。
すみれ「私のチョコをやる。これを奏くんに渡してどうにか切り抜けろ!」
未来「ゥあぁあああああああああ!!!!(絶叫)」
すみれ「うおっ、急に叫ぶなよ! ……っ落ち着け!」
その時、教室の扉がガラッと開けて未来は疾走していった。
すみれの差し出した袋を弾き飛ばし、未来は教室を飛び出す。
廊下を走る足音は、心臓の鼓動と同じ激しいリズムを刻む。
すみれ「未来待て!」
すみれは疾走していった未来を追いかける。
握りしめたアルミホイルの中から、熱で溶け出した失敗作がヌルリと未来の手掌を汚す。
すみれ「未来、待て! その特級呪物を持ったまま走るな! バイオテロで停学になるぞ!!」
すみれの制止も耳に入らない。
未来は廊下を抜け、極限でダッシュする。
その時、数人の男子生徒の話が未来の耳に入る。
男子生徒「奏のやつ、インフルだってよ」
その言葉が、未来の耳に一発叩き込まれた。
未来「……え?」
猛スピードで走っていた脚がもつれ、未来は廊下の真ん中で急停止する。
慣性で前のめりになり、壁に手をついた。その瞬間、ギュッと握りしめていたアルミホイルが「グチャッ」と嫌な音を立てる。
未来「い……ない……? 奏くん、学校にいないの……? 私は……誰のために……」
指の間から、人肌で完全に溶け切ったドロドロの黒いチョコが、無慈悲に廊下へと滴り落ちる。
その見た目は、もはやチョコとは呼べない、文字通りの特級呪物だった。
すみれ「……はぁ、はぁ、未来……待てって……」
追いついたすみれが、その光景を見て息を呑む。
すみれ「……お前。廊下でバイオテロかよ……。それに奏くん、インフルだってよ。お前、その手……どうすんだよそれ……」
未来は、ドロドロになった自分の両手を見つめ、失敗作を見て笑った。
未来「すみれ。これ友チョコ。すみれに。」
廊下にポタポタと滴る黒い液体。未来の瞳からはハイライトが消え、ただ粘着質な笑みだけが顔に張り付いている。
すみれ「……未来。お前、マジで限界なんだな。その手、もうチョコじゃなくて、お前の『怨念』が溶け出してんぞ」
未来は、アルミホイルから溢れ出たドロドロの塊を、惜しげもなくすみれの手に塗りつけた。
未来「受け取ってよぉ……。私が朝4時まで作った、世界で一番醜い私の愛よぉ!!!!!」
すみれは、未来の汚れた指先をガシッと掴み、拒んだ。
周りの生徒たちが「ヒエッ……」と悲鳴を上げて引いていく中、二人の周りだけは、異様な熱気と焦げ臭い甘い香りに包まれる。
廊下でドロドロになった手を眺め、笑い声を漏らしていた未来だったが、すみれに引きずられるようにして食堂へやってきた。
すみれ「……ほら、座れ。一旦落ち着け。」
運良く2人用の座席が空いていたので一旦未来を座らせるすみれ
未来「……お腹、空いた。……そういえば、昨日の夜からチョコの匂いしか嗅いでない……」
すみれ「何か腹に入れねーと、マジで魂まで溶けてなくなっちまうぞ。とりあえず、昼食べよ、食べながらでいいから何があったか教えてよ」
未来はゾンビのような足取りで券売機の前に立った。 ボタンが並ぶパネルを眺めるが、頭は全く回っていない。ただ、脳が強烈に昨日からずっと格闘し続けている色を本能的に求めていた。
未来「……これ、でいいや」
ピッという無機質な音。券売機から出てきたのはカレーライスの食券だった。
すみれ「カレーか、いいな私も同じの買お」
2人は学食の列にならび、湯気の立つ皿を受け取り、確保していた席に戻る。未来のその目は虚ろで、まるで深淵を覗き込んでいるようだ。
すみれ「なるほど、わかった。成功した自作のチョコはどこかに落としたと」
席につく2人。
手には使い捨ておしぼり、
手を拭きながら未来を見つめるすみれ。
未来「……そう。でも、もういいの。私の愛は今頃、あの太ったおブスな猫の胃袋の中か、あるいは砂場に埋められてるわ……」
すみれの指先は、いくら拭いても焦げたチョコの香りが取れない。
しかし未来の指先には固まってこびりついたチョコがまだついている。
すみれ「で、その『特級呪物』を私に塗りつけたわけだ。いい性格してんな、私のシャツとカーディガンの袖にその呪物ついてんだ。クリーニング代、お前じゃなく奏くんに請求していいか?」
未来「あぁ、あ~……。奏くん、今頃インフルでうなされてるのよね。そんな彼の枕元に、あの猫が……ドロドロのハートを……届けたりして……」
すみれ「猫?そもそもこんな事があったのによく食堂のカレーを呪物がついた手で食べれるな、精神状態おかしいよ」
未来は返事もせず、指先にこびりついた黒い粘体とカレーのルーを絶妙に混ぜ合わせ、口へと運ぶ。
すみれ「やめろ未来! それはコクじゃなくて、ただの不衛生だ!」
未来「……隠し味。……朝4時の、ぜぜ、絶望の味がする。」
未来はすみれの制止を無視し、指先にこびりついた黒い怨念「特級呪物」とカレーを、福神漬けと一緒にボリボリと咀嚼する。
すみれ「未来……お前、マジでもう戻ってこれないところまで行っちまったんだな。その咀嚼音お前のプライドが噛み砕かれる音がしてんぞ」
未来の指先から、唾液とカレーとチョコのが混じり合い、なんとも言えない不気味な茶色は皿に滴り落ちる。
未来「……いいのよ。どうせ私の『本物』は、あの泥棒猫に奪われたんだから。このあと帰っても台所グチャグチャだから……掃除しなきゃお母さんに怒られる。」
すみれ「猫がチョコを届けるわけない、もしそうだとしたらファンタジーじゃないのかよ?!そもそも奏くん猫飼ってんの??」
すみれの言葉は今の未来には届くことはなかった。
未来はフラフラと立ち上がり、食器を返却口へ置く。
指先には、もはやカレーなのかチョコなのか判別不能な愛の残滓がこびりついている。
未来「掃除しなきゃ。台所のチョコ、お母さんにうんちって言われたやつ……。あれを全部、きれいに洗い流さなきゃ……」
すみれ「おい未来、今カレー食べてるのにそれはないだろ……」
未来「ちょ、う、ふ、ふふふ……(ニチャア」
すみれ「私からあゆみとひなきには友チョコの件はなんとか言っておくからさ、ってどこ行くー」
放心状態でフラフラと食堂を出る未来。
未来の背中は、まるで連戦連敗の末に力尽きたボクサーのように丸まっていた。
手に残る不気味な感触と、鼻腔にこびりついて離れない焦げた甘い匂い。勿論午後の授業は何も手が付かなかったのは言うまでもなく。
そして放課後、すみれと別れた未来は夕暮れに染まり始めた。
帰り道を歩く未来のポケットの中で、スマホが無慈悲な通知音を鳴らした。
ピコーン
それは、奏くんのSNSの更新通知だった。
未来「えっ、奏くん……?」
バスに乗車した未来は震える指で画面をタップする。
そこには、熱で潤んだ瞳でベッドに横たわる奏くんの自撮り写真……
ではなく、彼の枕元でドヤ顔を決めている、あの太ったおブスな猫の姿があった。
猫の足元には、無残に噛み砕かれ、
泥と涎でコーティングされた見覚えのあるハート型の箱の残骸と添えられたテキスト。
【奏:熱きつい……けど、ペットの猫、ショコラが外からこれ拾ってきた。僕の名前が書いてある……。
宛名がないから誰からかわからないけど、ショコラが僕に届けてくれたのかな。ありがとう、季節外れで不思議な猫サンタさん。】
未来「……は??はははは!!!!!!」
その時社内に2つの音が鳴り響いた。
バキッ!!
1つは未来の中で、昨日から丹精込めて練り上げた愛という名のチョコが、
救いようのない形にへし折れた音がした。
ピコーン
もう1つはすみれからのメッセージ「奏くんのSNS見た??ファンタジーじゃないのかよ?!」
ガタガタと揺れるバスの中、未来は空っぽの肺から搾り出すような、乾いた笑い声を上げた。
冬の陽が落ち、夜の帳が降り始めた暗い車内。
無機質な液晶画面から放たれるSNSのキラキラした投稿だけが未来のひび割れた絶望顔を、
まるで死体のように青白く照らしている。
私の本物の愛は、私がこの世で最も嫌悪する猫の手柄になり、
今や奏くんの心強い看病の思い出として美化されている。
その奏の投稿には未来がやらかしたチョコ事件の事情も知らずに、「猫可愛すぎ!!」「ショコラかわいいの~」「奏くんお大事に、猫サンタさん♡」「ファンタジーじゃないのかよ?!」とショコラに対する称賛と驚きのコメントと複数のいいねがついていた。
未来「ははは……私の愛は……猫のよだれ経由で、奏くんの思い出になっちゃった……」
私の血と涙をテンパリングして磨き上げた結晶が、あの獣の手柄として世界にシェアされる。
この屈辱こそが、私の憎悪をガチガチに固まったチョコレートのような硬度へと硬化させていく。
再び放心状態になった未来は、バスに揺られ続けて最寄りのバス停に到着した。
そこにはまるで未来を待ち構えていたかのように、あの太ったおブスな猫ことショコラが座っていた。
首元には未来が昨日悩んで選んだラッピング用リボンの切れ端が、勲章のようにぶら下がっている。
ショコラ「……ナーン」
未来の顔を見たとたん、ショコラは首元のリボンをペロッと舐めて見せた。
未来「………………コッ」
喉を灼くのは、悲鳴ですらない。
ひりつくような熱気と、ドロドロに溶けた呪詛とチョコが混ざり合った正体不明の慟哭。
とても女子高生が出して良い音ではない。
未来の瞳のハイライトは完全に消た。
その奥には小学生の頃に見た親戚の猫、みいちゃんの瞳をも凌駕するであろう
暗く深いドロドロの殺意が宿っている。
家に帰れば、そこには冷え切った無惨なチョコ残骸たちと、激怒した母親が待っているだろう。
だが今の未来には、そんなことはもうどうでもよかった。
未来は静かに帰宅した。
愛は猫に盗まれ、手柄まで横取りされるというバレンタイン史上最悪の敗北。
チョコとカレーと絶望で汚れたその手で、掃除道具を力強く握りしめキッチンの敗戦処理を開始した。
未来の母「そうだ未来、あなたへのバレンタイン、テーブルの上に置いとくわよ。」
母親の声は未来の耳に届くことはなかった。
未来「……剥がれない。……憎悪みたいに、こびりついて剥がれないわ……。」
ガリッ、ガリッ。
タワシがシンクを削る乾いた音が、静まり返ったキッチンに不気味なリズムを刻む。
爪の間にこびりついたドロドロの怨念は、まるで未来の魂そのものを侵食しているようだった。
未来の母「近所のケーキ屋で買ったガトーショコラ。お掃除終わったら食べてもいいけど、夕飯近いわよ?」
背後から投げかけられた、母親のあまりにも悪意はなく、何気ない一言。
その瞬間、掃除をしていた未来の手が止まり、心臓の鼓動が跳ね上がる。
未来「…………シヨコラ??」
ガリッ。
未来の母「あんた好きだったじゃない、そのショコラ。」
母親の何気ない一言で夕暮れのキッチンは、穏やかな日常の場から狂気の神殿へと一変した。
未来の低い笑い声と、タワシの削岩音が重なり合う。
テーブルに置かれたガトーショコラが、まるで荒ぶる神への供物のように静かに未来を見つめていた。
未来の母「……なんだか今日の掃除、一段と気合入ってるわねぇ」
皮肉にも母親が買ってきたガトーショコラはバレンタイン特別仕様の猫の顔の形を模した形状だった。
未来は母親の手によって切り分けられた自分の分のガトーショコラを勢いよく握りつぶし、口の中にいれ、食べるという表現では表せない捕食を完了すると、キッチンの掃除に戻った。
ガリッ、ガリッ。
再びタワシがシンクを削る乾いた音が、静まり返ったキッチンに不気味なリズムを刻む。
未来の母「ち、ちょっと、そんなにお腹空いてたの?ああ、朝ごはん食べなかったからね」
未来が口にしたショコラの味は生涯忘れないであろうバレンタイン史上、最も甘くない鉄のような味だったとか。
完
後半は気分が乗ったら書くかもしれません。ラストはハッピーエンドにします。
下篇 ホワイトデー




