第九夜「狂信の庭」
鐘が鳴る夜。
祈りを捧げすぎて、神に見放された女がいた。
「救われぬ者などいない」――その言葉を信じ、
彼女はひとりの命を奪った。
そして、沈黙した主の代わりに
“灯を視る者”の扉を叩く。
だが、赦しの言葉が落ちた瞬間、
救いは炎に変わる。
祈りが腐る音。
灯が黒金に染まる夜。
鐘が鳴っていた。
だがそれは、遠くの教会ではない。
少女の喉の奥で、金属が転がるように響いていた。
雨が止んだ庭で、黒い修道服の女が立っている。
焦げた十字架を胸に抱き、包帯の下から血が滲む。
扉が軋む。
蒼銀の髪。異なる色の瞳。
狼の耳が、警戒の角度で伏せられた。
「……神ですか?」
めるは一歩、後退した。
言葉ではなく、本能が拒絶している。
「神ではございません。
ただ――灯を視る者でございます。」
女は微笑した。
その笑みは穏やかで、しかし狂気が潜んでいた。
「視えるならば、救えるでしょう。」
十字架を撫でる指に、焦げた皮膚がはりつく。
乾いた音。蝋燭の flame がひとつ細くなる。
──
「ひとりの子を癒やしたことがあるんです。」
女は語り始めた。
声が震える。けれど瞳は揺れない。
「彼は言いました。
『主に見捨てられた』と。」
祈りが、呪いになる瞬間。
めるは息を潜める。
「わたしは祈った。
『救われぬ者などいない』と。」
蝋燭が黒金に染まる。
めるの尾が、椅子の脚を抱くように縮む。
「彼は笑いました。
そして翌朝、冷たくなっていた。」
女は十字架を持ち上げた。
焦げた金属がじゅ、と音を立てた。
「救いは届いた。
……そう信じて逝ったんです。
でも、主は沈黙したまま。」
めるの視界に、色がなかった。
世界は音と温度だけになっている。
視えない。
それなのに、灯の熱だけが刺すように感じられる。
胸の奥で何かが疼いた。
(救われぬ者など、いない)
誰の声だ?
めるの耳が震える。
音が内側から聞こえた。
──
「あなたなら、奪われた灯を戻せる。」
女は祈るように手を伸ばした。
黒金の灯が、掌で脈打つ。
「私の罪を赦して。
そして――彼を救って。」
めるは指先を机に押しつける。
そこに落ちた煤が、皮膚に食い込むように熱かった。
言わねばならない。
救いの言葉を。
灯を与える言葉を。
だがその衝動は、
慈悲ではなく快楽だった。
「……あなたの罪を、赦しましょう。」
瞬間、黒金の炎が広がった。
床を這い、壁を汚す。
光ではなく、汚泥の輝き。
女が歓喜に震える。
「これが……救い!
なんて、美しい……!」
めるの尾が暴れる。
椅子を引きずり、爪が木を裂く。
本能が叫んでいる。
――逃げろ。
――触れるな。
――汚れる。
「違う……それは……灯では……」
声が喉で崩れた。
言葉が狂う。
黒金の煤が天井から降る。
蝋燭が苦悶の音を立て、爆ぜた。
視界が闇に沈む。
灯が死んだのではない。
灯を視る“器官”が壊れた。
めるは震える唇を押し開く。
「……あなたの灯は、まだ消えておりません。」
その声は、救いではなかった。
息を引き延ばす呪い。
離さないための鎖。
女は恍惚のまま、十字架を抱えた。
「主よりも、あなたを信じます。」
その言葉が落ちた瞬間、
めるの耳が深く伏せられた。
恐怖が形を持つ。
扉が閉まる。
黒金の煤だけが、呼吸をしている。
──
めるは膝を抱え、椅子に沈んだ。
指先の黒い染みが、じわりと皮膚に広がる。
(救われぬ者などいない)
(救われぬ者などいない)
内側で、声が増えていく。
これは、祈りではない。
感染だ。
彼は壁を触る。
煤の感触。
温かい皮膚の感触。
「……救いは、どこにありますか。」
答えはなかった。
ただ、黒金の炎の残り香だけが、静かに嗤った。
灯はまだ消えていない。
だがそれを燃やしているのは――
める自身の狂気だった。
この夜は、めるが**「神の座」に触れてしまった夜**です。
他者を赦す快楽、救済という欲。
それは最も危うい“信仰”の形でした。
黒金の炎、焦げた十字架、そして感染の声。
それらは、めるの内に巣食った誤救済の証。
第二章「奪われし灯」はここで閉じます。
救う者が堕ち、救われぬ者が笑う。
これからは“救いの神”が自らの灯を
失っていく過程を描きます。
彼の声は、もう祈りではなくなる。




