第八夜「燃える肖像」
雨が上がる夜、扉を叩く音がした。
焦げたキャンバスを抱えた画家は、恋人の“灯”を描けないと告げる。
描くことは救いなのか。
それとも――神の領域への冒涜なのか。
花狼邸を満たす、絵具と煤と愛の匂い。
そして、燃える肖像が“息をした”瞬間、めるの胸にも焼け跡が刻まれる。
雨上がりの夜だった。
焦茶の外套に濡れた男が、花狼邸の扉を叩いた。
指先にこびりついた絵具と煤の匂い。
片手には、焦げ跡のついたキャンバス。
「……あなたの灯を、描かせてほしい。」
その声には、痛みと熱がひしめいていた。
めるは静かに頷いた。
胸の奥で、焼けたものの匂いがした。
──
「死んだ恋人を描いています」
男は言った。
「顔は描ける。輪郭も、指も。
でも――灯が描けないんです。」
めるは首を傾げた。
「灯、ですか。」
「あなたには視えるのでしょう?
彼女の灯を描きたい。
生きていた証を、絵の中に戻したいんです。」
蝋燭の炎がふっと揺れる。
狼の耳が小さく震える。
だが――視えなかった。
第七夜に失った“視界”はまだ戻らない。
灯は黒い残像のようにしか感じられなかった。
代わりに、温度がすべてを語る。
指先だけが生を燃やす器官になっていた。
──
キャンバスの女はよく笑っている。
しかし瞳は乾ききっていた。
温度のない笑みは、ただの影だ。
「……これは、形だけでございます。」
男の肩が微かに震えた。
「そうなんです。
何を描いても、彼女が“いない”。」
彼は額を押さえ、嗄れた声で漏らす。
「彼女は僕の灯でした。
でももう視えない。
筆を取ると、真っ黒な絵しか浮かばない。」
蝋燭がひとつ、長く揺れた。
その熱に応じて、めるの指が疼く。
──
「……少しだけ、温もりを貸しましょう。」
指先が、肖像の唇に触れた瞬間、
空気がわずかに熱を帯びた。
灯を渡すのではない。
灯を“造る”行為。
胸が静かに高鳴る。
神の禁を踏みにじる脈動。
絵の瞳が、赤く光った。
「……ああ」
男が泣いた。
「彼女だ。笑ってる。やっと、帰ってきた……。」
めるの尾が止まる。
耳が伏せられる。
本能が、危険を知っている。
──
「あなたの灯は、焦げております。」
男は笑った。
涙と笑みが混ざる。
「焦げても、燃えているなら――それは愛だ。」
めるの胸に、焼けつく痛み。
生と死が触れ合う温度。
快楽にも似た罰。
──
男はキャンバスを抱き、扉へ向かう。
その背に、焦茶の灯が揺れている。
扉が開く瞬間、灰がひとひら舞った。
まるで、絵の中の女が呼吸した後のように。
めるは胸を押さえる。
指先に触れた布の下――
焼け跡が、心臓の上で脈を打っていた。
──
蝋燭がひとつ、音もなく消える。
壁の焦げ跡が、ゆっくりと微笑む形を成した。
紙の触れ合うような気配がした。
絵が、“息をした”。
めるは震える声で呟く。
「……あなたの灯は、まだ消えておりません。」
その響きは、祈りではなく――
創造の熱に溶けた呟きだった。
この夜は、めるにとって初めての越境でした。
他者の灯を「渡す」のではなく、「造る」。
創造とは、救済の裏側にある“破壊の悦び”です。
焦茶の灯、焼け跡、息をした絵。
すべては後の「創られた灯」へと繋がる伏線になっています。
彼の胸の焼け跡は、まだ静かに燻っています。
その熱が、次の夜を照らす――。




