第七夜「盲目の祈り」
雨の夜でした。
祈りの言葉が、誰にも届かなくなった頃。
扉の前に立っていたのは、一人の祈祷師。
彼は信じ続けることでしか、生きられなかった。
「救われぬ者などいない」
その言葉に、どれほどの命が縋り、どれほどの心が壊れたでしょう。
今宵、花狼邸は――“祈りの音”を受け入れます。
──救いとは、祈ることか、それとも縛ることか。
鐘が鳴っていた。
けれどその音は、誰のためでもなかった。
黒く濡れた外套の裾を揺らし、祈祷師は雨の中を歩いていた。
祈りの言葉が喉で石のように詰まる。
神は黙し、信徒は消えた。
それでも、祈ることをやめられなかった。
扉の前で、彼はひざまずいた。
灯りが一つ、闇の底に浮かんでいる。
その光は十字ではなく、ただの蝋燭の灯。
それでも彼には、神の顕現のように見えた。
「あなたは……神か?」
扉を開く音。
蒼銀の髪、異なる色の瞳。
狼の耳が、わずかに伏せられる。
花狼めるは、一歩、距離を取った。
「神ではございません。」
「ならば――天の代行者か。祈りの届く者か。」
「ただ、灯を視る者でございます。」
祈祷師は笑った。唇が裂ける音がした。
掌を胸にあて、震える声で呟く。
「見えぬ。……主の声が聞こえぬのだ。
救われぬ者などいないはずなのに。
なぜ、アリアは、死を選んだ。」
めるの瞳がわずかに揺れた。
祈祷師は続ける。
「あの子は言った。『あなたの祈りがあれば、大丈夫』と。
主ではなく、私を信じて――あの子は逝った。
それを“奇跡”と呼べるものか?」
蝋燭の火が揺れ、めるの瞳の奥に黒金の灯が生まれた。
その瞬間――視えなかった。
世界が塗りつぶされる。
闇ではない。
黒は、灯が死ぬ色だと、本能が叫んだ。
尾が硬直し、耳が震える。
彼の内で、何かが逆流する。
「……あなたの灯が、視えません。」
「ならば、耳を貸してくれ。私の祈りを聞け。」
祈祷師は立ち上がり、机に手をついた。
蝋燭の火に手をかざし、熱で掌を焦がす。
焦げた匂いが部屋を満たす。
「私は、あの子を救えなかった。
あの子の病は祈りでは癒えなかった。
それでも私は――“救えぬ者などいない”と、言い続けた。
その言葉で、あの子は笑って逝った。
救いを信じたまま、息を引き取ったのだ。」
めるの瞳に、黒い光が走る。
蝋燭の煤が天井へ伸び、影が歪む。
「救いとは、届かぬ場所を祈ること。
けれど、届かぬ祈りは……時に呪いとなります。」
「ならば私の祈りも呪いか!」
祈祷師が叫ぶ。声が擦れ、血が混じる。
「救われぬ者などいない」と幾度も繰り返し、
それがまるで呪文のように、部屋の灯を狂わせた。
蝋燭の炎が黒金に変わる。
めるの耳が反応し、尾が机の脚を掴むように動く。
息が荒くなる。
「あなたの祈りは、すでに……他者を縛っております。」
「縛る? 違う、私は導いている!」
「導くとは――同じ場所で迷うことではございません。」
短い沈黙。
その間にも煤が降り、空気が重くなる。
「……アリアを、救い損ねた。」
祈祷師は床に膝をつき、微笑んだ。
「神よ、灯を――」
めるが息を呑む。
再び、何も視えなかった。
ただ黒金の残光が、彼の胸の奥を焼いた。
「……あなたの灯は、まだ消えておりません。」
その声は、救いではなかった。
延命のように静かで、残酷だった。
祈祷師は立ち上がり、ふらりと扉へ向かう。
振り返らずに、ただひとこと。
「ならば、神もまだ、消えてはおらぬのだな。」
扉が閉まる。
鐘の音が遠くで鳴った。
──
めるは、目を閉じていた。
瞼の裏には、闇しかない。
耳がすべてを拾う。雨、呼吸、蝋燭の揺れ。
世界が音でしか存在しない。
指先が机の縁に触れる。冷たい。
灯が視えない代わりに、温度が異様に鋭く感じられた。
「……灯よ、どこにありますか。」
その声は、祈りにも似ていた。
そして祈りほど、脆いものもなかった。
蝋燭が、静かに音を立てて消えた。
めるは唇を震わせた。
自分でも気づかぬうちに、呟いていた。
「……救われぬ者などいない。」
その響きは、祈祷師とまったく同じ音で。
祈りは、刃にもなります。
届かぬ願いを繰り返すうちに、それは“他者を救う言葉”ではなく、
“自分を保つ呪文”へと変わっていくのかもしれません。
救いたいと願う人ほど、壊れやすい。
そしてその壊れた祈りは、いつか誰かの声を真似てしまう。
「救われぬ者などいない」
──その響きが、まだ耳の奥で消えません。




