第伍夜「赤く濁った灯」
雨が降る夜ほど、心の中の熱は形を変えます。
誰かを羨み、妬み、壊したくなる――
その感情は、決して特別なものではありません。
今夜、邸を訪れたのはひとりの青年。
彼が抱くのは、消せない“赤”の記憶。
それは、愛と呼ぶにはあまりに熱く、
罪と呼ぶにはあまりに人間的な灯でした。
どうか、この灯に触れても、あなたの心まで焦げませんように。
夜の峠は、雨を呑み込んでいた。
アスファルトに残る水たまりが、街灯の光を歪める。
風のない霧。エンジンの音だけが遠くに消えていく。
青年は、手に握ったヘルメットを見つめていた。
こびりついた泥は、何度拭っても落ちない。
黒い塗装の下でひび割れが一本、
まるで光が逃げた痕のように刻まれていた。
ガードレールの傍らには、色褪せた花束。
中心の写真は笑っている。
あの夜、こちらを振り返った時と同じ顔で。
「……お前ばっかり、ずるいよ。」
声が霧に溶ける。
ポケットの中で、割れたミラーの欠片が鳴った。
――その一瞬が、いまだ焼けて離れない。
雨の夜。
ふたつのブレーキランプが並んで走る。
曲がり角の向こうで、彼が振り返る。
ヘルメット越しでも分かる笑顔。
置いていかれる、と理解した刹那――
心の奥で何かが叫んだ。
『落ちろ。』
その願いが喉を焼き、熱となった。
次の瞬間、赤い光が途絶えた。
音が砕け、世界が止まった。
「落ちろと願った瞬間、軽くなったんです。
痛みが全部、消えた。
あの一秒こそ……俺の救いだった。」
救いが刃となり、今も喉に刺さっている。
⸻
書斎の扉を押し開けると、
蝋燭が一つだけ灯っていた。
金でも橙でもない、赤黒い灯――
煤が光に溶け出したような色。
その灯の向こうに、花狼めるが座っていた。
閉じかけの本に、指を添えたまま言う。
「……濡れた靴のままでも構いません。座ってください。」
青年は腰を下ろす。
雨の匂いが部屋に広がった。
「……あいつが死んだ場所へ、行ってきました。」
蝋燭がひとつ、小さく揺れる。
ブレーキランプの明滅のように。
「皆、事故だと言います。
警察も、家族も、恋人も。
……でも違う。」
青年はミラーの欠片を取り出す。
濁った光が跳ね、瞳に刺さる。
「ブレーキを遅らせた。
ほんの一瞬。
“これでいい”って思った。
それだけで――全部変わった。」
声が割れた。
「嫌いで……欲しくて。
崖に消えた瞬間、胸が軽くなった。
その感覚が、今も怖い。」
めるは黙って、炎を見ていた。
言葉が空気を焦がしていく。
「俺はあいつを殺した。
誰も言わなくても、分かってる。」
灯が濁る。
影が黒を孕み、壁に広がる。
「……あいつがいない未来。
それは俺が望んだ未来だったはずなのに――
何も手に入らない。」
声が崩れる。
「死んだあいつの方が、みんなに愛されてる。
笑顔の写真に“いいね”が増える。
俺だけが、置いていかれた。」
めるはそっと本を閉じた。
「……灯は、美しいものばかりではありません。」
炎が低く響く。
「赤は願望の色。
焦げついて黒く濁っても、まだ熱い。
嫉妬もまた灯。
他者の光を凝視しすぎて、心に焼きつく残り火。
触れれば火傷し、誰も照らせない。」
青年はかすかに嗤った。
「そんな灯、いらない。消えてほしい。」
めるの声が、鋭く切り裂く。
「あなたが殺したのは、彼ではない。」
赤黒い光が瞳に宿る。
「あなたが殺したのは――
彼の未来にいた“あなた”です。」
息が止まる。
嗚咽が零れ、肩が震える。
「……あなたの灯は、まだ消えておりません。」
炎が青年の視界に揺れる。
「だからあなたは、奪った夜を生き続ける責を負う。」
青年はミラーを机に置いた。
赤黒い光が、欠片の内で燃えていた。
「濁っていても、光は光だ。」
扉を開いた背に、めるの言葉が落ちる。
まだ震える手で、ヘルメットを握った。
ひび割れは――今日も光を逃がさない。
外は静かだった。
風も音もなかった。
ただ、遠い空のどこかで――
赤が滲み始めていた。
嫉妬は、愛の影に生まれる“熱”です。
冷たく見える心の底で、
それでも「奪いたい」と願った瞬間、
人は誰よりも生きてしまう。
燃え残った赤は、罰であり、祈りでもあります。
誰かを羨んだ痛みが、
いつか“誰かを想える力”へと変わりますように。
――あなたの灯は、まだ、消えておりません。




