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花狼邸懺悔録  作者: 花狼める/成優
3/14

第参夜「愛せなかった人」

雨上がりの夜に、灯はよく揺れます。


それは、誰かの心が静かにほどける音。


この邸に辿り着く人々は皆、

“泣けなかった何か”を胸に抱いているのかもしれません。


今宵は――

愛する人を喪いながらも、涙を忘れた女性の夜。


花狼めるが見つめたのは、

悲しみではなく、

その奥にまだ燃える「愛の灯」でした。

黒い喪服の裾が、湿った風に揺れた。

葬儀場の灯りが背後に遠ざかる。

雨は止んだというのに、空はまだ泣きやまない色をしていた。


白薔薇の花束を抱いたまま、

彼女は歩き出した。


病室の匂い、白いカーテン。

握っていた手の感触。

最後に交わした言葉――だけが、どうしても出てこない。


彼の呼吸が細くなるにつれて、

胸の奥で静かに何かが凍っていった。


「……終わってほしいって、一瞬だけ思ったんです。」


誰に届くこともなく、言葉が夜に落ちる。


「苦しませたくなかったのに……

 その願いが、いちばん残酷でした。」


涙は、出なかった。

泣かないのではなく、

泣くという選択肢が、どこかへ消えてしまったように。


「――もう、愛せないのかもしれない。」


声が震えた瞬間、

街の灯がふっと遠ざかった。


音が吸われていく。

心音だけが、やけに大きく響く。


水たまりの奥で、青い光が揺れた。

足が吸い寄せられるように動き、

知らない石畳が月明かりの下に現れる。


青銀の鉄門が、音を立てずに開いた。



門を越えた瞬間、

空気が、息を潜めた。


青薔薇の庭。

雨の滴が花弁の上で震え、

落ちるたび、微かな声をあげる。


「……泣けない代わりに、泣いてくれてるの?」


彼女の指先に触れた花弁が、ひんやりと震える。


そのとき、ふわりと黒い影が差した。


「その薔薇は、雨が止むたびに泣くのです。」


低く、穏やかな声。


花狼めるがそこに立っていた。

灰銀と群青の髪。

胸元の青薔薇。

左右の瞳に、月光が淡く宿る。


「泣きたいときに泣けないのは、

 愛が戻るのを、心が待っている証なのですよ。」


彼女の唇が震える。


「……私は、逃げたんです。

 彼の手を握りながら。

 “終わり”を選んだのは……私なんです。」


めるは視線を落としたまま言った。


「愛とは、ときに残酷です。

 “生かすため”に苦しみを強いる。

 “終わらせるため”に祈りを捧げる。」


風が通り、青薔薇の雫が落ちる。


「あなたは、彼を生かすことも、

 終わらせることも選べなかった。

 だから……沈黙した。」


彼女は息を呑んだ。


沈黙――それが自分の選択だったと

今、突きつけられた。


「静けさは、愛が失われた印ではなく……

 愛を守りきれなかった自責の形。」


胸の奥がきしむ。


「……愛せなかったわけじゃ、ないんですね。」


「いいえ。」


めるはわずかに微笑む。


「愛していたからこそ、

 “生きてほしい”と“終わらせたい”の狭間で、

 あなたの心は凍ったのです。」


彼女の手にある白薔薇が、かすかに揺れた。


「白は別れの色。

 青は、続く想いの色。」


めるは青薔薇へ視線を向ける。


「失われるものが愛ではなく――

 残るものこそ、愛なのです。」


彼女は静かに膝をつき、

白薔薇を土に置いた。


代わりに、青薔薇の花弁へ手を伸ばす。


指先に触れた雫が震え、

頬を伝う温度に変わる。


――泣いている。


どれほど待ち望んだ涙だろう。

痛みとともに、温度が戻る。


「……まだ、生きたいんですね。私。」


めるは答えなかった。

ただ、目を伏せ、

その灯を確かめるように呟いた。


「……あなたの灯は、まだ消えておりません。」


夜がほどけていく。

石畳に朝の気配が忍び寄る。


白薔薇は色を手放し、

青薔薇だけが、彼女の中で静かに咲いていた。

白は、別れの色。

青は、続く想いの色。


人は、悲しみを終えるためではなく、

生きるために静かになるのかもしれません。


そしてその静けさの中で、

灯はもう一度、呼吸をはじめる。


今夜も、花狼邸は静かにその灯を見守っています。

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