第十一夜「赦せない灯」第三部 崩壊
「救い」と「侵食」は、似ている。
誰かを照らすつもりで、
自らの灯を燃やし尽くしてしまう。
祈りの音が、蝋燭を砕く音に変わるとき、
赦しは牙を持つ。
「愛だと……?」
めるの声が、低く響いた。
それは怒りとも悲しみともつかない音。
邸の空気がわずかに凍る。
祈祷師はなおも微笑んでいた。
その笑みは、信仰ではなく陶酔の形をしていた。
「あなたの赦しの言葉を、私も語れるようになったんです。
“あなたの灯は、まだ消えておりません”――
そう言うだけで、人々は泣いて救われた。」
「救われてなど、いません。」
めるの声が掠れる。
「あなたは、灯を“奪っている”。
救いは、与えるものではなく――見届けるものです。」
「いいえ、違う。」
祈祷師の瞳に黒金が流れた。
「あなたが赦すなら、世界も赦される。
それが灯の真理でしょう?」
「……それを決めるのは、わたくしではありません。」
「では誰が?」
男は一歩、踏み出した。
床の木目が波打ち、黒金の灯が彼の足跡に宿る。
「あなたの名は花狼める。
邸の主にして、灯の審判者。
あなたが“救う”と告げたその夜から、
わたしはずっとあなたを信じてきた。」
めるの耳が震えた。
心臓が速く打つ。
怒りではなく、恐怖。
“信じられる”という行為が、これほど恐ろしいとは。
「あなたが神なら、赦してください。
もし違うなら――」
男の瞳が細まる。
「わたしが、神になりましょう。」
──
蝋燭の火が一斉に爆ぜた。
黒金の炎が、天井へと逆巻く。
壁の中から、百もの灯が一斉に息を吹き返した。
囁きが重なり、悲鳴に変わる。
(赦して)
(視て)
(消したくない)
(救って)
空気がねじれる。
光と闇が逆流し、影がめるの足元を這う。
邸そのものが震えていた。
天井の梁が悲鳴を上げ、青薔薇が枯れる音が響く。
めるの視界は、もう光ではなく“熱”で満たされていた。
灯が痛む。
体内に入り込み、血と混ざっていく。
皮膚の内側で、光が腐る。
「やめろ!」
めるが叫ぶ。
しかし声は、祈祷師の声に飲み込まれた。
「救われぬ者など、いない!」
「救われぬ者など、いない!」
「救われぬ者など、いない!」
声が重なり、邸が応える。
床から、光が溢れた。
それは炎ではなく、“祈り”の形をした災害。
──
めるは膝をついた。
胸の奥で、何かが裂ける音がした。
吐き出された息が、黒金に染まる。
「……あなたは、それを救いと呼ぶのですか。」
祈祷師が振り返る。
黒金の灯が彼の背から立ち上る。
その影は羽のように広がり、邸の天井を覆った。
「彼らはもう苦しまない。
あなたが、わたしを赦したからだ。」
「赦してなどいません。」
めるの声が低く沈む。
「あなたは、“救われた気になっている”だけだ。」
「気ではありません。
あなたが神だと、私が証明してみせる。」
男が両手を広げた瞬間、邸の中心が光を放った。
黒金の灯が渦を巻き、壁に描かれた古い文字が浮かび上がる。
祈りの文。
けれど、どの言葉も“める”という名に変わっていた。
めるの視界が白に染まる。
痛みが意識を貫く。
胸の奥――灯を視る器官が、砕けるように鳴った。
──
(赦せない)
心の中で、何かが反転する音がした。
今まで積み上げてきた祈りの形が、ゆっくりと崩れていく。
邸の奥から、声がした。
(める……あなたが赦せないのなら……)
(代わりに、赦してあげる)
女の声。
懐かしい、けれど知らない声。
邸の“内側”から聞こえてくる。
「……誰ですか。」
答えはない。
ただ、黒金の灯が呼吸をするように明滅した。
祈祷師がひざまずいた。
両目が完全に金に染まり、笑みを浮かべる。
「ご覧なさい。
あなたの赦しが、世界を満たす。」
めるは立ち上がった。
胸の奥の痛みを押し殺しながら、唇を開く。
「――それを、赦しとは呼びません。」
蝋燭の炎がすべて倒れた。
邸の中に、ただ“熱”だけが残った。
壁の影が人の形を失い、黒い波のように溶けていく。
めるは震える声で、静かに告げた。
「……あなたを、赦せない。」
その瞬間、黒金の灯が砕けた。
光と影が混ざり、空気が悲鳴を上げる。
祈祷師の姿が、光に飲まれて消えた。
──
邸が静まる。
残されたのは、焦げた匂いと、冷めたコーヒーだけ。
机の上の二つのカップ。
片方の中に、黒金の雫が沈んでいた。
めるはそれを見つめながら、静かに呟く。
「……これは、赦しの果て。」
四部へ続きます。




