第十一夜「赦せない灯」第一部 声の帰還
扉の外では、雨が止んでいた。
それなのに、邸の中だけがまだ濡れている。
赦しの言葉が、壁の奥に滲んでいるようだった。
「救われぬ者など、いない」
そう繰り返してきたわたくしの声は、
もはや祈りではなく、呪文になりつつある。
赦すこと。
それは、他者を抱くための温度ではなく――
己を焼くための炎かもしれません。
今夜、花狼邸に再び訪れるのは、
かつて“救い”を信じた男。
そして、
わたくしが初めて「赦せない」と言葉にする夜です。
灯の意味が、反転します。
どうか、見届けてください。
── 花狼める
灯は、人を救う。
そう信じていた。
だがその信仰が、灯を濁らせることを
誰も教えてはくれなかった。
雨のにおいが、灰のようだった。
雫が石畳を叩くたび、ひび割れの隙間に黒い影が滲んでいく。
花狼邸はいつもより静かだった。
蝋燭の灯りが濃くなり、青薔薇の花弁が、まるで呼吸をするようにわずかに膨らんでいる。
めるは、机の上のカップに視線を落とした。
中の液体はもう凍るほど冷たい。
それでも、指を離せなかった。
“もう一つのカップ”が、今夜も隣にある。
触れるたび、熱が戻る気がした。
だがそれは、自分の熱ではなかった。
──
扉が、二度、叩かれた。
その音が空気を割る。
めるの尾がぴたりと止まり、耳が後ろへ伏せられる。
この音を、彼は知っている。
何度も、夢の中で聞いた。
それは、祈りを名乗る“命令”の音。
「……入って、よろしいでしょうか。」
雨の向こうから聞こえたその声は、以前より深かった。
けれど響きの底に、かすかな軋みが混じっている。
まるで金属が喉を通るような――そんな不自然さ。
扉が開く。
湿気の中に立っていたのは、かつて邸を訪れた男だった。
黒の外套をまとい、右目だけが濁った金を宿している。
祈祷師。
第七夜の来訪者。
救えぬ信徒を悔やみ、祈りを失った男。
だが今、その瞳には確かに光があった。
救われた者の色ではない。
奪った者の色だった。
「……あなたの言葉で、私は立ち上がれた。」
祈祷師は、嗄れた声で笑う。
「あなたの“赦し”は、わたしの耳を満たした。
その瞬間、主の声が戻ったのです。」
めるの指先が震える。
胸の奥で、音のない鐘が鳴った。
「……主の声が?」
「ええ。」祈祷師は頷いた。
「あなたの声で。」
──
蝋燭の炎が一つ、わずかに長く伸びた。
まるで何かが邸の奥で喜んでいるようだった。
空気が熱を帯び、灯の呼吸が早くなる。
めるは、無意識に机の縁を掴んだ。
爪が木に食い込み、軋む音。
その音に合わせるように、祈祷師が呟く。
「あなたの灯は、まだ消えておりません。」
めるの息が止まった。
その声――音の高さも、言葉の間も、
すべてが花狼める自身の声だった。
「……どうして、その言葉を。」
「奇跡です。」
祈祷師の唇が笑う。
「この言葉を唱えると、人々が救われる。
彼らの痛みが、私に流れ込むんです。
それこそ、灯が視えるということなのでしょう?」
めるは小さく首を振った。
尾が低く垂れ、耳が震える。
「それは違います。」
声が掠れていた。
「灯は奪うものではなく……」
「与えるものだ?」
祈祷師の言葉が重なる。
まるで、心を覗かれたように。
「あなたが教えてくれたでしょう。
救われぬ者など、いない。」
──
空気が歪む。
邸の壁が呼吸する音。
どこかで、青薔薇の花弁が音を立てて落ちた。
「あなたは……何を視ている。」
「灯です。」
祈祷師の濁った目が、ゆっくりと邸の奥を見据える。
「無数の灯が、あなたを中心に集まっている。
この邸が、あなたを“神”にしているんです。」
黒金の光が、その眼から溢れた。
めるの視界が、一瞬、白く塗りつぶされる。
灯の“痛み”が全身を貫いた。
彼は思わず呟いた。
「……見ないでください。」
「いいえ、視えます。」
祈祷師は笑う。
「あなたの中に、救いが燃えている。」
──
蝋燭の灯が、音を立てて爆ぜた。
黒金の煤が舞い、床に落ちる。
それは血のようだった。
めるは胸を押さえる。
心臓が速く打つ。
だが、それは自分の鼓動ではなかった。
「やめてください。」
「救われぬ者など、いない。」
「やめろ!」
声が重なった。
同じ声が、二重に響いた。
邸の灯が震える。
その瞬間、壁の影が動いた。
めるの背に貼りつくように、もう一つの影が立ち上がった。
二部へ続きます




