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花狼邸懺悔録  作者: 花狼める/成優
11/14

第十夜「壊れた祈り」

祈りは、いつも美しいと思っていた。

人が誰かを想うその姿は、やさしさの象徴であり、灯のように見えた。


けれど——祈りが長く続くほど、灯はかすみ、熱を失っていく。

それが「救いの形」ではなく、「依存の始まり」だと気づくのは、

誰もが声を失ってからなのかもしれません。


今宵、花狼邸に訪れるのは“祈りを忘れた少女”。

彼女の沈黙の奥で、何かが崩れ落ちる音がするでしょう。


そして、灯を渡す者の心にも。


──壊れるのは、どちらの祈りでしょうか。

鐘は鳴らない。

それでも、空気の奥で微かな響きが続いていた。

煤が呼吸し、壁の木目が脈を打つ。

めるの耳が、そのリズムに反応して小さく伏せられた。


夜の扉を叩く音。

開けると、白い外套の少女が立っていた。

聖歌隊の服。喉を包む包帯。

唇は乾いているが、瞳は静かに濡れている。

掌には、切れたロザリオ。珠が二つ、欠けていた。


「……お入りなさい。」


少女は黙って一枚の紙を差し出す。

震える筆跡で、こう綴られていた。


――祈り方を忘れました。


蝋燭の炎がひとつ、細く息を吐く。

めるは首を傾けた。

灯は見えない。けれど、温度の揺らぎだけが世界を形作っていた。


「祈りは、思い出すものではございません。

……息をするように、戻ってくるものです。」


少女は、わずかに首を振る。

そしてもう一枚の紙を差し出した。


――神さまは沈黙しています。

――なのに、私だけが聞こえるのです。


蝋燭の根が震えた。

めるの耳がわずかに動き、邸の空気が逆流する。

どこかで、増えたコーヒーカップが、微かに触れ合う音を立てた。


「……何が、聞こえるのですか。」


少女は声を持たない。

それでも、室内に声の形が降りた。


(救われぬ者など、いない)

(救われぬ者など、いない)


あの時の祈祷師でも、あの時の修道女でもない。

める自身の声でもない。

これは——邸の声だ。


蝋燭がひとつ、黒く噛み、消える。

青薔薇が、一斉に首を垂れる。

“渇き”が近づいている。

床の木目が波打ち、空気がざわめいた。


「……ここは、灯を渡す場所です。」

「ですが今宵、邸は灯を――吸っております。」


少女の肩が小刻みに揺れた。

ロザリオの紐がほどけ、珠が床を転がる。

それは祈りの崩壊の音のようだった。


「近くへは、来ないほうがよろしい。」


めるは手を上げたが、邸は従わない。

本棚が息をし、天井の煤が降る。

書の隙間から、黒金の灯が滲み出していた。


少女の胸の前で、無色の灯が立ち上がる。

それは光ではなく、輪郭だけをもつ“明るさ”。

温度のない輝きが、めるの瞼を刺した。


(これは――灯の死ぬ色だ。)

本能が警鐘を鳴らす。尾が硬直し、机の脚を掴む。


「……祈らなくてよい。」


めるの声は、いつもより低かった。

祈りは刃。今夜は、祈れば誰かが切れる。


「ただ、ここに座りなさい。

あなたは今、祈りを失っておられる。

それでも――呼吸をしておられる。」


少女はゆっくりと椅子に座る。

沈黙が落ちる。

音の不在ではなく、選び取られた静寂だった。


めるは、言葉を探した。

あの時覚えた創造の熱が、舌の裏で疼く。

“救いの言葉”は甘い。

だが今夜、それは毒になる。


「……あなたの罪を、赦す――」


言いかけた瞬間、邸が呻いた。

空気が裂け、蝋燭が連鎖で消える。

青薔薇の花弁が床を走り、煤が少女の足首に絡みつく。


「離れなさい。」


めるの声が鋭くなる。

だが、邸は従わない。

灯が吸われている。


少女の目に涙が浮かぶ。

声は出ない。

それでも、室内に声の形が落ちた。


(救われぬ者など、いない)

(救われぬ者など、いない)


めるは立ち上がり、煤の帯を掴む。

熱が掌に食い込み、皮膚が焼ける匂い。

それでも、引き剥がした。少女の足首から、祈りの黒を。


「……もう大丈夫です。」


少女は首を振り、紙を取った。

震える字で、一言だけ記す。


――こわいよ。


めるは息を吸った。

耳が深く伏せられ、尾が動かない。

恐怖が胸の奥で形を持ち始めていた。


「……あなたの灯は、まだ消えておりません。」


言葉が落ちる。

救いではない。

延命の宣告。選択肢の剥奪。

それでも今は、それしか言えなかった。


少女は静かに立ち上がる。

深く礼をし、扉は音もなく閉じられた。

外の夜気が冷たく、鐘は終わりを告げぬまま止まっている。


──


書斎に、完全な暗闇が訪れた。

暗いのに、明るすぎる。

光のない明るさが、めるの瞼を焼く。


机の上には、二つのカップ。

どちらも冷めている。

縁には、黒金の灯の痕。


指先が、無意識に片方へ触れた。

そこに映る自分の影は、二つ。


「……灯よ、どこに。」


返事はなかった。

壁の本が、わずかに息をした。

邸の奥で、笑う“声の形”が落ちた。


邸は、まだ渇いている。

灯はまだ消えていない。

だがそれを燃やし、吸い、歪めているのは——

この邸と、そしてわたくしだ。


蝋燭の残り香が消え、完全な沈黙が降りた。

この夜を描いたあと、

花狼邸の静けさがいつもより冷たく感じました。


祈りは優しく、そして残酷です。

「救われたい」という願いは、ときに「支配したい」という欲と

まったく同じ姿をしている。


めるはその“境界”の中に立たされています。

救いの言葉が毒へと変わり、

彼の中に“恐怖”という名の灯がともり始めたのです。

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