第十夜「壊れた祈り」
祈りは、いつも美しいと思っていた。
人が誰かを想うその姿は、やさしさの象徴であり、灯のように見えた。
けれど——祈りが長く続くほど、灯はかすみ、熱を失っていく。
それが「救いの形」ではなく、「依存の始まり」だと気づくのは、
誰もが声を失ってからなのかもしれません。
今宵、花狼邸に訪れるのは“祈りを忘れた少女”。
彼女の沈黙の奥で、何かが崩れ落ちる音がするでしょう。
そして、灯を渡す者の心にも。
──壊れるのは、どちらの祈りでしょうか。
鐘は鳴らない。
それでも、空気の奥で微かな響きが続いていた。
煤が呼吸し、壁の木目が脈を打つ。
めるの耳が、そのリズムに反応して小さく伏せられた。
夜の扉を叩く音。
開けると、白い外套の少女が立っていた。
聖歌隊の服。喉を包む包帯。
唇は乾いているが、瞳は静かに濡れている。
掌には、切れたロザリオ。珠が二つ、欠けていた。
「……お入りなさい。」
少女は黙って一枚の紙を差し出す。
震える筆跡で、こう綴られていた。
――祈り方を忘れました。
蝋燭の炎がひとつ、細く息を吐く。
めるは首を傾けた。
灯は見えない。けれど、温度の揺らぎだけが世界を形作っていた。
「祈りは、思い出すものではございません。
……息をするように、戻ってくるものです。」
少女は、わずかに首を振る。
そしてもう一枚の紙を差し出した。
――神さまは沈黙しています。
――なのに、私だけが聞こえるのです。
蝋燭の根が震えた。
めるの耳がわずかに動き、邸の空気が逆流する。
どこかで、増えたコーヒーカップが、微かに触れ合う音を立てた。
「……何が、聞こえるのですか。」
少女は声を持たない。
それでも、室内に声の形が降りた。
(救われぬ者など、いない)
(救われぬ者など、いない)
あの時の祈祷師でも、あの時の修道女でもない。
める自身の声でもない。
これは——邸の声だ。
蝋燭がひとつ、黒く噛み、消える。
青薔薇が、一斉に首を垂れる。
“渇き”が近づいている。
床の木目が波打ち、空気がざわめいた。
「……ここは、灯を渡す場所です。」
「ですが今宵、邸は灯を――吸っております。」
少女の肩が小刻みに揺れた。
ロザリオの紐がほどけ、珠が床を転がる。
それは祈りの崩壊の音のようだった。
「近くへは、来ないほうがよろしい。」
めるは手を上げたが、邸は従わない。
本棚が息をし、天井の煤が降る。
書の隙間から、黒金の灯が滲み出していた。
少女の胸の前で、無色の灯が立ち上がる。
それは光ではなく、輪郭だけをもつ“明るさ”。
温度のない輝きが、めるの瞼を刺した。
(これは――灯の死ぬ色だ。)
本能が警鐘を鳴らす。尾が硬直し、机の脚を掴む。
「……祈らなくてよい。」
めるの声は、いつもより低かった。
祈りは刃。今夜は、祈れば誰かが切れる。
「ただ、ここに座りなさい。
あなたは今、祈りを失っておられる。
それでも――呼吸をしておられる。」
少女はゆっくりと椅子に座る。
沈黙が落ちる。
音の不在ではなく、選び取られた静寂だった。
めるは、言葉を探した。
あの時覚えた創造の熱が、舌の裏で疼く。
“救いの言葉”は甘い。
だが今夜、それは毒になる。
「……あなたの罪を、赦す――」
言いかけた瞬間、邸が呻いた。
空気が裂け、蝋燭が連鎖で消える。
青薔薇の花弁が床を走り、煤が少女の足首に絡みつく。
「離れなさい。」
めるの声が鋭くなる。
だが、邸は従わない。
灯が吸われている。
少女の目に涙が浮かぶ。
声は出ない。
それでも、室内に声の形が落ちた。
(救われぬ者など、いない)
(救われぬ者など、いない)
めるは立ち上がり、煤の帯を掴む。
熱が掌に食い込み、皮膚が焼ける匂い。
それでも、引き剥がした。少女の足首から、祈りの黒を。
「……もう大丈夫です。」
少女は首を振り、紙を取った。
震える字で、一言だけ記す。
――こわいよ。
めるは息を吸った。
耳が深く伏せられ、尾が動かない。
恐怖が胸の奥で形を持ち始めていた。
「……あなたの灯は、まだ消えておりません。」
言葉が落ちる。
救いではない。
延命の宣告。選択肢の剥奪。
それでも今は、それしか言えなかった。
少女は静かに立ち上がる。
深く礼をし、扉は音もなく閉じられた。
外の夜気が冷たく、鐘は終わりを告げぬまま止まっている。
──
書斎に、完全な暗闇が訪れた。
暗いのに、明るすぎる。
光のない明るさが、めるの瞼を焼く。
机の上には、二つのカップ。
どちらも冷めている。
縁には、黒金の灯の痕。
指先が、無意識に片方へ触れた。
そこに映る自分の影は、二つ。
「……灯よ、どこに。」
返事はなかった。
壁の本が、わずかに息をした。
邸の奥で、笑う“声の形”が落ちた。
邸は、まだ渇いている。
灯はまだ消えていない。
だがそれを燃やし、吸い、歪めているのは——
この邸と、そしてわたくしだ。
蝋燭の残り香が消え、完全な沈黙が降りた。
この夜を描いたあと、
花狼邸の静けさがいつもより冷たく感じました。
祈りは優しく、そして残酷です。
「救われたい」という願いは、ときに「支配したい」という欲と
まったく同じ姿をしている。
めるはその“境界”の中に立たされています。
救いの言葉が毒へと変わり、
彼の中に“恐怖”という名の灯がともり始めたのです。




