第九・五夜「灯の歪み」
扉が閉まったあとも、黒金の煤は空気の中で脈打っていた。
煙ではない。呼吸している。
めるの耳が、その脈動に反応するたび、痛みが走る。
灯の視えない世界は、
“暗闇”ではなく、“過剰な明るさ”だった。
光のない場所ほど、輪郭が鋭かった。
指を持ち上げる。
そこに、煤がまとわりついている。
触れた皮膚が、じんじんと熱を訴える。
(これは――灯なのか?)
床の木目がゆっくりと揺れた。
椅子の脚が、少しだけ長く見える。
邸が、歪んでいた。
⸻
どこからか、囁きが聞こえた。
(救われぬ者など、いない)
(救われぬ者など、いない)
(救われぬ者など、いない)
声は誰のものでもない。
第七夜の祈祷師でも、
第九夜の修道女でもない。
める自身の声でもなかった。
狼の耳が後ろを向く。
誰もいないはずの暗がりに、
複数の【灯】が瞬いているのを感じる。
見えないはずの灯が、
熱と呼吸として押し寄せてくる。
⸻
テーブルの上のコーヒーカップが震えた。
冷め切ったはずの液面が、かすかに揺れている。
めるは気づいた。
もう一つのカップが増えていることに。
置いた覚えはない。
その縁には、黒金の痕がついていた。
(誰の……?)
尾が逆立つ。
背筋の毛が濡れていく感覚。
⸻
「……灯が、渇いている」
つぶやいた声が、空間で増幅される。
複数の声が、同時に繰り返した。
「灯が渇いている」
「灯が渇いている」
「灯が渇いている」
足元に落ちていた煤が、
生き物のようにめるの足に絡みつく。
皮膚が火傷のような熱を覚える。
⸻
「……鎮まれ。」
いつも通りの指示。
だが、何も従わない。
邸そのものが反応した。
窓の外の青薔薇が、一斉に頭を垂れる。
茎が軋むような音。
悲鳴のようだった。
めるは気づく。
邸はもう、“灯を渡す場所”ではない。
灯を吸う場所になっている。
⸻
(誰が――変えた?)
鼓動が耳のすぐ横で鳴る。
自分の胸の奥で、
何かが、こちらを見ている。
「視ているのは――あなたでは……」
言い終える前に、背後の書棚が軋んだ。
黒金の炎が、文字の隙間から滲み出す。
本が、息をする。
⸻
「……来る。」
予兆が、鋭い牙を持つ。
次の夜には、
祈りは壊れ、声は神を呼ぶ。
救いという名の刃が誰かの灯を裂く。
めるは震える指先で、
冷めたコーヒーに触れた。
そこに映った自分の影が、
二つあった。
⸻
「……あなたの灯は、まだ消えておりません。」
その言葉はもう、
「赦し」ではない。
選択肢の剥奪だった。
蝋燭が一斉に瞬き、
花狼邸は、ゆっくりと“口”を開いた。




