第壱夜「消えた灯を抱いて」
――この邸は、罪や喪失を抱えた者だけが辿り着く場所。
月の灯が導くまま、花狼めるがあなたを迎えます。
どうか、心を静めてお読みください。
涙ではなく、ひとつ深呼吸を残せるように。
夜の峠は、雨を呑み込んでいた。
舗装の隙間に溜まった水が、赤いライトを歪める。
風のない霧。エンジンの音だけが遠くに沈んでいく。
あの夜。
僕たちは二台で山を走っていた。
並んで走るヘッドライトは、まるで二つの星のようだった。
それが途切れた瞬間の音だけを、今も覚えている。
雨の気配が近づいていた。
それでも僕は速度を上げた。
置いていかれるのが怖くて。
彼の背中が遠のくたび、胸に焦りが溜まっていった。
クラクション。
短く、軽く。
――待っている合図だと思った。
しかし曲がり角で、路面が濡れていた。
一瞬、ライトが揺れて、闇が裂けた。
タイヤが悲鳴をあげ、火花が散り、
音が砕け――灯がひとつ、消えた。
手が震えた。
声が出ない。
助けを呼べば、現実になってしまう。
名前を叫べば、彼がもう返事をしないと分かってしまう。
喉が凍りついたまま、世界が遠ざかった。
気づけば、雨の音が消えていた。
霧の奥に、柔らかな光が滲んでいる。
街灯ではない。家でもない。
それでも確かに“生きて”いる灯。
――逃げ場のようだった。
冷え切った足だけが、勝手に動いた。
闇の中、焙煎の香りがふいに鼻をかすめた。
その匂いにすがるように、扉を押した。
⸻
蝋燭が一つだけ灯っていた。
橙でも金でもない、淡い金色の灯。
静かに呼吸しているような光だった。
テーブルの向こうで、一人の男がページを閉じる。
蒼銀と群青の髪が月を溶かしたように揺れる。
胸元の青薔薇が、灯に呼応して淡く光る。
紅と翡翠――左右の瞳に、微かな火が宿っていた。
「……ようこそ。雨の音の中を、よくここまで。」
狼の耳がわずかに傾き、影の中で尾が揺れた。
低く穏やかな声の男――花狼めるは、カップを差し出す。
「どうぞ。まだ温かいはずです。」
香りを吸い込んだ瞬間、胸が軋む。
揺れた息の隙間から、言葉がこぼれ落ちた。
「……僕のせいなんです。」
抑えていたものが、一気にあふれる。
「速く走ろうって言ったのは、僕です。
あいつは笑って頷いた。
あの声が、あれが……最後でした。」
唇を噛む。血の味がした。
「ブレーキを握ったけど、遅かった。
光が跳ねて、音が裂けて……
僕は、助けを呼ぶこともできなかった。
名前を呼びもしなかった。
ただ……見ているだけだった。」
膝が震えた。
「みんな“事故”だと言うけれど……違います。
僕が、あの夜を作った。
僕が、あいつを死なせた。」
静寂が落ちた。
蝋燭の灯が、ゆっくりと一度だけ揺れた。
部屋の奥で時計が短く鳴る。
「――あなたの時計は、あの夜で止まったままなのですね。」
花狼めるの声は、囁きにも似ていた。
責めない。慰めない。
ただ、真夜中に雪が降るような静けさをまとっていた。
「時は、罪を薄めるために流れるのではありません。
あなたが、もう一度息をするために在るのです。」
胸の奥が、わずかに疼いた。
泣いていいと、誰かに初めて許された気がした。
「記憶は消せません。
けれど――抱えて生きることは、罰ではございませんよ。」
めるの前のカップは、いつの間にか冷えていた。
外の時間と、ここは違う。
冷たさが、沈黙の中でさえ静かに漂っている。
「……あなたの灯は、まだ消えておりません。」
その言葉が落ちた瞬間、
胸の奥で小さな拍動が確かにあった。
⸻
蝋燭の灯が、ひときわ強く揺れた。
僕は立ち上がる。
長い夜を抜けた後のような呼吸……
いや、まだ夜は終わっていない。
扉へ向かう足が、ほんの少しだけ前へ出た。
外気は冷たかった。
雨は止み、空の端が薄く滲んでいる。
鳥が一度だけ鳴いた。
振り返ると、花狼めるが静かに見つめていた。
その瞳に微かな朝の色が宿っていた。
耳が傾き、尾が影の中でゆれる。
「痛みは残るでしょう。
それでも、息を続けてください。」
言葉にできない想いが胸に満ちる。
――罪も悲しみも、まだここにある。
――だからこそ、灯もまだここにある。
扉を開ける。
朝の風が頬を刺した。
「……あなたの灯は、まだ消えておりません。」
遠く、静かな声が響いた。
足元の水たまりに揺れる光が、少しだけ暖かかった。
最後までお読みくださり、ありがとうございます。
第壱夜のテーマは「赦せなかった自分」。
花狼邸は救いの場所ではなく、
“灯を見つめ直す場所”として描いています。
もしこの物語の余韻が、
あなたの中に小さな灯をともしたなら、
それが何よりの喜びです。
次回、第弐夜でまたお待ちしています。




