偽りの初夜
澪は自分の足で歩きたかったが、おとなしく従う。
青年は、足音を殺して廊下を進む。向かっているのは、客人を泊める離れだ。
離れは西側にあり、母屋からは一本の廊下でつながっている。誰かと会ったら大騒動になると恐れていたが、夜更けなのか邸の中はしんと静まり返っていて、ひとの気配がない。
離れに着くや、澪はまず風呂に入れられた。
青年は脱衣所で澪をそっと下してくれた。
「湯につかれ。身体が温まれば、少しはましになるはずだ」
半分ほど開いた板戸から覗けば、風呂場はおとなが二人も入れば窮屈に思えるほどの広さしかない。
「すまんが、こちらには女手がない。手伝ってほしければ、俺が助けるが」
「ひとりで大丈夫です」
澪はあわてて首を横に振る。煌貴の手を借りるなんて、恐れ多い。
「では、俺は行く。外に見張りを残しておくから、必要だったら遠慮なく声をかけてくれ」
彼が去ってから、澪は濡れて肌に張り付いた着物を脱いだ。
風呂場に入って、湯につかる。
背中の傷がじくじくと痛んだ。それをこらえて湯につかっていると、冷え切った身体に血が通いだすのがわかる。
山中の小屋では、こんな贅沢はできなかった。近くの池につかるのが関の山だった。
足指の先までぬくもってから、用意された浴衣を着て、外に出る。
すると、深紅の髪で目尻の垂れた美貌の青年が待ち構えていた。
彼は愛想よく笑い、澪を促す。
「こちらにどうぞ」
「あ、ありがとうございます」
彼のあとについて歩きながら、思わず問う。
「あの、あなたさまはどなたですか?」
彼は振り返ると、にこやかに微笑んだ。
「煌貴さまの従者ですよ、奥さま」
朱夏の当主は煌貴という名であるらしい。
それを知れたのはよかったが、奥さまという呼称には気恥ずかしくなる。
結婚したからには、そう呼ばれて当たり前だ。だが、今さらながらとんでもない決断をしたという気にもなった。
「待っていてくださって、ありがとうございます」
「お気になさらず。役目ですから」
彼は廊下を進み、奥の居室の前で両膝をついた。ふすまに隔てられ、中の様子は窺えない。
「煌貴さま、お連れしました」
「入ってもらえ」
従者はふすまを開けてから、澪に目配せする。
部屋に一歩入ってから、澪の足が止まった。
灯籠が灯された部屋には、布団が敷かれている。
浴衣を着た煌貴は布団に半身を起こし、帳面に何か書きつけていた。
「あ、あの……」
おろおろする澪に対し、彼は何事もないような顔をして宣告する。
「今晩はここで一緒に寝てもらう。既成事実が必要だ」
「既成事実、ですか?」
「夫婦になった、ということにする必要がある」
全身の血がすうっと下がっていくのを感じる。
まさか、肉体的にも結ばれる必要があるとは思わなかった。
――当然よ。
夫婦なのだから、夫の要求には応じる必要がある。
それでも、緊張しないはずはない。澪は震える手で胸を押さえ、破裂しそうな心臓をなだめる。
「……わかりました」
おそるおそる近づいて、布団のそばに膝をつく。
煌貴は帳面と万年筆を枕もとに置いてから、澪の手を握る。
「何もしない。とりあえず、明日の朝、一緒にいるところを見せるだけだ」
「……はい」
「まずは傷の手当てをしよう。背中を見せてくれ」
軟膏の容器を手にした煌貴に言われ、澪はためらいつつも浴衣をずらして肩を出す。
「痛かっただろう」
肩甲骨のあたりを煌貴がそっと指で触れてくる。薬を塗る手つきは幼子を撫でるようで、澪は目頭が熱くなってしまう。
――こんなふうにやさしくしてもらったのは、いつぶりだろう。
物心ついたころには母は亡くなっていて、澪は乳母たちに育てられた。
その人たちも、銀子が後添えとして嫁いできてからは、いなくなってしまった。
澪の味方は誰もいない。とりわけ、氷姫ではないと判明したときからは、あからさまに蔑まれるようになった。
だから、煌貴のように触れてくる人は今までいなかったのだ。
「手当くらいしてやればいいんだ。玄安の奴らはクズだな」
煌貴は憎々しげに吐き捨てた。
「……仕方ないんです。わたしは氷姫ではないから」
「自分を卑下するな。それはあいつらの評価を受け入れることと同じだぞ」
煌貴は澪の背に布を貼ってから、包帯を巻きだした。肩から何度も腋を通して、しっかりと包帯を巻いてくれる。
「抗え。せめて気持ちだけでも」
鼓舞するように言われて、澪はうつむく。
――そんなことを言われても、無理よ。
澪は何もできない価値のない娘だ。当主になった煌貴のように立派な人間ではない。
弱気な気持ちは簡単に上向かない。
煌貴は包帯を巻き終わってから、肩を叩いた。
「もういいぞ」
澪は衿を合わせて帯を結び直し、彼に向き合った。
「ありがとうございます」
心から礼を言う。
煌貴は澪の命を救い、傷を治療し、励ましてくれる。
感謝しても、し足りないくらいだ。
「礼は不要だ。俺はおまえを利用するために助けたんだから」
「利用ですか?」
「そうだ。だから、礼は要らない」
煌貴は自嘲の笑みを浮かべたあと、澪の手を引く。彼に導かれ、布団に横たわった。
横向きになって、互いに見つめ合う。
「もっとくっついてくれ」
ぐいっと肩を抱かれて、煌貴の身体と密着させられる。
煌貴はいい香りがした。品のいい甘い香りだ。
めまいがするのは、緊張しているからか、動揺が極まっているせいか、わからない。
煌貴は澪の背に腕を回し、しっかりと抱きしめてくる。
「冷たいな」
煌貴のつぶやきに、澪はどきりとした。
きっと身体が芯から冷え切っているから、彼にとっては不快なのだろう。
「は、離れていただいて、けっこうですので……!」
「何をあわてているんだ。俺はむしろ冷たくて気持ちがいいんだが」
澪は彼の胸に頬を押し当てつつ、つぶやいた。
「そうなのですか?」
「ああ。ひんやりしている。ちょうどいいな」
腰をきつく抱かれ、澪は狼狽する。身体が密着していると、煌貴の体温がひどく熱いことに気づいた。
「……煌貴さま。熱いです。風邪か何かをお召しになられたのですか?」
「風邪なんかひいていない。俺の身体が熱すぎるだけだ」
「そうですか」
正直、煌貴の身体は温石を突っ込んでいるように――いや、燃え盛る炎を宿しているように熱かった。
病気ではないのかと心配になるほどだ。
しばらく硬直していると、寝息の音がした。
煌貴はすっかりと寝入っている。
澪は彼の顔を見つめた。瞼を閉じていると、険しさがとれて、少年のようなあどけなさが強調される。
澪はおそるおそる彼の背に腕を回して抱きしめた。
――わたしの身体、冷たいのかしら。
もしも、冷やしてあげられるなら、そうしたかった。
煌貴の身体は尋常ではなく熱を持っているから。
澪は目を閉じる。眠るつもりはなかったのに、疲労のせいか、いつの間にやら眠りの縁を滑り落ちていた。




