朱夏の当主
――子どもの声?
心配になって夢中で走り、門を出たところで足を止めた。
妖魔がいる。巨大な銀灰色の狼が、子どもを地面に押さえつけている。
押さえつけられているのは、澪に石を投げたあの男児だ。
「助けて、誰かぁーーー!」
狼の背丈は、人間のおとなを優に超えるほどはある。真っ赤な目は爛々と輝き、裂けた口の端からは涎を垂れている。狼は男児の背と頭に鋭い爪が伸びた足をのせている。
澪はとっさに石を拾って投げつけた。石はみごとに妖魔の額に当たる。
妖魔は赤い目を澪に向けた。燃え盛る炎の色に圧倒され、澪は一歩後じさる。
その瞬間、狼は咆哮した。空気を激しく震わせる響きに、思わず呼吸を止める。
背を向けて逃げかけたが、狼は跳躍すると、澪に飛びかかってくる。腹ばいに地面に押し倒され、身動きがとれない。
背中の皮膚に爪が食い込んでたまらなく痛い。澪は低くうめいた。
――死ぬ。
死んでしまう。きっと食われる。
――死にたくない……!
必死に身をよじるが、爪が皮膚を突き破り、激痛に襲われる。
「うぅっ」
肉に爪が突き刺さる痛苦に息が止まる。
腹の底がずんと冷えた。血がいきなり冷たくなったように、身体が冷えていく。
――なに。
五年前、澪は妖魔を封じるために力を振るおうとしたときがあった。そのときと感覚が似ていた。
全身がすうっと冷え、身体の底から何かが湧き出る気配がある。
しかし、あのときはなんの力も出せなかった。
指先から放たれるはずの氷の網が出ないどころか、氷のかけらさえ出せなかった。
――もしかしたら、今ならば。
痛みの中で、懸命に集中してみる。出せるはずだと信じて、指先で地面を掻いたときだった。
背中から狼の重みが急に消え、圧が失せる。
信じがたい思いで、澪はおそるおそる振り返った。
頭を飛ばされた狼の妖魔は、砂の城が崩れるように急速に形を失いつつあった。
「無事か?」
妖魔のそばにいる青年が質問を投げかける。
澪は小さくうなずき、青年を見つめる。
――初めて目にする方だわ。
紅茶色の髪をした青年は、狼の妖魔と同じく血の色をした瞳で憂鬱そうに澪を見返す。
切れ長の目元と薄い唇。整いすぎた顔立ちのせいか、作り物めいた冷ややかささえ感じる。
着ているのは、立ち襟の長い上着とズボンの洋装だ。黒い生地に赤銅色のボタンが映えている。
青年は手に刀を持っている。深紅の刀身はやけに禍々しかった。
「朱、朱夏の若さま、ご無事ですか?」
彼の周囲をあっというまに人が取り囲む。
青年は朱夏家の若者のようだ。彼は億劫そうに手にした灼刀の切っ先を左手に押し当てる。
鞘に押し込むように無造作に掌に収めてから、集ったものたちを見渡した。
「玄安家のお膝元で妖魔が出るとは、どういう事態だ?」
低い声には怒りがにじんでいた。
鞭打つような声音に、周囲が押し黙る。
そこへあらわれたのは、銀子だった。彼女は媚びを売るように微笑む。
「朱夏のご当主さま。誤解ですわ」
「誤解?」
「妖魔はその娘に招かれたのです。玄安家は、むしろ被害者ですわ」
指さされ、澪はあわてて起き上がろうとした。
しかし、身動きしたとたん、背中の痛みにうめき苦しむ羽目になる。
「その娘は氷姫のなりそこない。氷姫は幸運を招き、人々を守護する力の持ち主ですが、なりそこないは違います。恨みに骨髄をむしばまれ、妖魔と相通じ、厄災を振りまくのです。つまり、あの妖魔を招いたのは、その女です」
銀子はまるで物語の一幕を紐解くように朗朗と語る。
「……この娘は、自ら招いた妖魔に襲われたというのか?」
「そうですわ。身の程を知らずに自分よりもはるかに強い妖魔を玄安家に導こうとしたのです。襲われたのは自業自得」
「ち、違います。わたしはそんなことをしません!」
澪は恐怖にかられて叫ぶ。
確かに澪は氷姫になれなかった。だからといって、まるで反転するかのごとく妖魔を招く力を手にいれられるわけがない。
澪はむしろ無力な存在だ。誰かを救うこともできないが、襲うこともできないのだ。
「本当に違うんです。わたしは、そんなことしない――」
「おまえたち、その女を屋敷に連れておいき。仕置きが必要よ」
「ま、待ってください! わたしは何も!」
澪は両腋に手を入れられ、下男たちに無理やり立たされる。
傷が痛くてたまらないのに、誰も頓着してくれない。
「おい、待て!」
朱夏の当主が止めようとしたが、銀子が彼の前に立ちふさがった。
「ご当主。これは玄安家の問題ですわ。部外者は口を挟まないでくださいませ」
「部外者だと」
「事実でしょう。玄安の問題に、朱夏が物申す権利はございません」
銀子はそっけなく突っぱねる。
澪は通りすがりに彼を見た。彼は眉間に眉を寄せているが、何も反論はしない。
痛みと疲労で力の抜けた澪は、ただ引きずられていくだけだった。




