閑話 干し柿1
陽の光に晒されて小さくなった鼈甲色の柿が、民家の軒先で数珠つなぎにされている。
村落を下馬して歩いていた煌貴は、つい足を止めた。
「どうしたんですか?」
隣にいる澪が首を傾げた。
「いや、干し柿が吊るされているな、と」
「干し柿はお好きですか? わたしも好きです!」
澪が弾んだ声を出すから、煌貴はつい目を丸くした。澪がこんなふうに無邪気に振る舞うのは珍しい。
「いや、好きというか、なんというか……」
煌貴は困り、鼻梁を撫でて言いよどむ。
好きだったのは確かだが、それを覆い隠すほどの複雑な感情が胸の内で交差する。
「少しだけ分けていただくように、お願いにまいりましょうか? もちろんお金は払います」
後半をあわてて付け足した澪に、煌貴は笑みを浮かべた。
「澪が食べたいなら、もらってくればいい」
「え、そんな。わたしひとりだけ食べるなんて」
「遠慮しなくていい」
煌貴が歩を速めると、澪は一拍の間のあとについてくる。
しまったと臍を嚙んだが、だからといって戻る気にはなれない。
煌貴は表情を崩さずに歩き続ける。愛馬の規則的な鼻息が、ふたりの間に流れる気づまりな沈黙をやわらげていた。
朱夏の中心街には、妓楼がひしめく花街がある。
反り返った屋根をかぶった二層や三層建ての建物が並び、意匠を凝らした灯籠が無数に吊るされ、深夜まで煌々と明かりが灯っている。
脂粉の香りと酒の匂い、女の甘えた嬌声と男の下卑た笑い声。琴に琵琶の楽音が鳴り響き、金と肉欲の臭気がそこかしこに漂っている。
その花街のはずれ。闇を背負って夜鷹が男を誘う場末を煌貴は走っていた。
煌貴はまだ十の年だが、夜更けまで妓楼で仕事をしていた。掃除をし、酒器を洗い、風呂を沸かした。
疲れ果てた肉体を引きずるように走っていたが、うっかり水たまりに足を突っ込んでしまう。草履と足裏が泥水で汚れ、嘔気をもよおすようなどぶの臭気が臭ってきた。煌貴は思わず鼻をつまんだ。
『最悪だ』
物心がついてから、煌貴の人生にはその二文字しかない。
ぬめりのある水が草履を汚し、走りにくくて仕方がない。しかし、煌貴は藁草履が脱げないように鼻緒を足の指でしっかり挟んで走り、辿りついた長屋の一角の障子戸をほんの少し開けた。
土間からすぐに布団が敷かれた部屋が見える。布団の上では男女が睦あっていた。
下にいるのは煌貴の母で、上にいる男は客である。尻を丸出しにした男のまぬけな動きを一瞥したあと、煌貴は外にしゃがみこんだ。うめき声に似た喘ぎがかすかに聞こえてくる。
もっと幼いころは、あの光景の意味がわからず、母を助けようとして男に摑みかかっては、部屋の外に放り投げられていた。今ではなんの感情もわかない。
――金を稼ぐためだ。
煌貴もどぶさらいや荷運びなど、できる仕事をして金を稼ごうとしていた。
しかし、子どもに――しかも、男にまともな賃金を与える奴など花街にはいない。はした金を投げつけられるのが関の山。ひどいときは殴られて終わりだった。
心を無にしていると、障子戸が開かれた。
『おい』
乱暴に呼びつけられ、煌貴はあわてて立ち上がる。
やにさがった団子鼻の男からは、きつい体臭がした。鼻をつまむのを我慢していると、男は煌貴を頭の先からつま先まで見てから唇をねじまげた。
『おまえ、本当に朱夏の当主の子か?』
煌貴は奥歯を噛みしめる。
かつては花街で一番の売れっ妓だったという母が朱夏の当主に目をかけられて産んだ子。
それが煌貴だという話だが、世迷い事にしか聞こえない。
『……わかりません』
『本物の朱夏の当主の子ならよ。金をせびりにいってこいや。おまえの親父はこの土地で一番金を持っているんだからよ』
顎をしゃくられ、煌貴は黙り込んだ。
今までそんなことを考えたことがなかった。母の言葉を信じていないからだ。
男は地面に唾を吐いてから、にたりと笑った。
『おまえの母ちゃん、もうすぐ死ぬぜ。身体に全然締まりがねぇからな。その前に当主に泣きついて、金を恵んで医者に診てもらえや。それが親孝行ってもんだろ』
煌貴はこぶしを握り締めた。喉もとに湧きあがってくる怒りを必死に飲みくだす。
『せっかく当主の息子なんだからな。うまく利用しろよ』
煌貴の肩を叩いたあと、男は背を向けた。鼻歌まじりに去っていく男が戻ってこないことを確認してから、煌貴は急いで障子戸を開けて部屋に入る。
母は口元にぼろきれを当て、咳込んでいた。海老のように背を曲げ、ひどく苦しそうだ。
『大丈夫?』
煌貴はあわてて部屋にあがり、母の背を撫でる。
単衣をまとった身体は痩せこけ、骨に皮が張り付いているような状態だ。背を撫でていても手に当たるのはゴツゴツとした固い感触ばかりだった。
枕もとに置かれた十枚ほどの銅貨を見て、焦燥感に追い立てられる。十日分の米の代金しかない。これでは、医師に診せることも薬を購入することもできはしなかった。
煌貴は強く唇を噛みしめる。男の言葉どおりに行動する必要があることを悟るしかなかった。




