氷姫1
久しぶりに訪れた氷姫の廟は、記憶にあるものよりも荘厳に見えた。
廟は滝のそばの高台に建てられている。
屋根は黒光りする瓦で覆われ、柱や壁も漆黒に塗られている。両開きの扉には、白 銀色で氷雪の文様が描かれていた。
「白燕、桐人と一緒に待っていてくれ」
煌貴が扉をそっと押し、澪はふたりで廟の中に足を踏み入れる。
正面に祭壇があり、掛け軸が吊るされていた。
掛け軸に描かれている絵は氷姫だ。氷の網で土蜘蛛を捕え、屈服させている。
「……やけに甘い香りがしますね」
澪は小鼻を鳴らす。灰がこんもりつもっている香炉があるが、残り香がほのかにたゆたっている。
「……そうだな」
煌貴が派手に顔をしかめてから言った。
「……妖魔を集める香の匂いがする」
「そんな香があるのですか?」
当惑してたずねれば、彼は嫌悪感を滲ませつつうなずいた。
「ある。俺も使ったことがある。人里離れたところでな」
予想もしなかった返事に、澪は口をぽかんと開けた。
「使っていた?」
「ああ。さっきと同じことをするために」
物騒な返答を聞き、澪は口を掌で覆う。
煌貴は金烏を捕まえて食していた。体内に気を宿すために。そうでないと、灼刀を体内に納められないのだという。
おそらくは金烏を集めるために香を使ったのだろう。
「灼刀を体内に保持しておくためには、気を絶やさないようにしないといけない。……俺には力が足りないんだ。情けない話だが、外から補うしかない」
煌貴は自嘲している。
「情けないなんて、おっしゃらないでください」
澪は首を左右に振った。
「すごいことだと思います。わたしには……とても、できない……」
妖魔はおそろしい。それを、力を得るために呑みくだす。
煌貴には勇気がある。強い意志があるのだ。
「わたしは……玄安の家に生まれたのに、なんの役にも立てない」
「澪、弱気なことを言うな」
煌貴が強い目をして言う。肩に手を置かれ、澪は彼をじっと見つめる。
「おまえの水衣には力がある。俺は水衣に助けられたんだから」
「本当に?」
「本当だよ。おまえには氷姫の力があるはずだ」
煌貴は励ましてくれているのだろう。それなのに、澪は自然とうつむいてしまう。
――力があるのだと信じたい。
澪は己の手を見つめる。
乾いた、あかぎれだらけの手だ。涼の手とは全然違う。
――どうやったら使えるのだろう。
昔、妖魔を捕縛したときのことを思い出す。
手の中から氷雪の網があらわれ、妖魔を捕えた。氷の力で妖魔は凍りつき、飴細工のように壊れた。
「思い出せないだけじゃないか?」
「わかりません――」
そのとき、外から桐人の悲鳴が聞こえた。
煌貴は素早く身をひるがえして外に出る。
澪もあとを追って、外を見回した。
桐人と白燕は滝の落ちる川に続く階段を走り下りていた。そのうしろを狼の姿の妖魔が追っている。青銀色の体毛が風になびいている。
灼刀を手にした煌貴は、階段の折り返しから飛び降りて、最短距離で妖魔に迫っている。
澪は瞬時迷った。
煌貴たちを追いたいが、明らかに戦力にならない。
そんなことはわかっているのに、勝手に足が動き出した。
――なにか、できることをしないと!
うつむいていても、何も変わらないのだから。
階段を走り下りていると、横合いから金烏に飛びかかられた。
「――っ!」
手で払おうとするが、金烏は炎をまきちらしながら、澪の身体のあちらこちらを鋭い爪で攻撃する。羽ばたきながら背後に回り、澪の背に爪を立てる。
身体の内側に熱い針を打ち込まれたような痛みが走った。
と同時に背にあった「何か」がほどけるような違和感を覚える。
だが、のんびりと考え込む時間はない。澪は走って必死に逃げる。階段を下りきったとき、狼を斬り捨てた煌貴が澪に身体を向けた。金烏を一撃で突き刺す。
澪は勢い余って彼の胸に飛び込む。煌貴は澪を左手だけで抱きしめた。
「澪、大丈夫か?」
澪は煌貴の身体の熱さに驚く。尋常ではない熱で、まるで体内で炎が燃えているようだ。
「煌貴こそ、大丈夫ですか? お身体がすごく熱いです」
「ああ、それは……。問題ない。いつものことだから」
「いつものこと?」
「灼刀を使っているとこうなる。身体がどうしようもなく熱くなる」
澪は彼の背に腕を回して、きつく抱きしめた。
澪の身体は冷たく、煌貴を冷やす効果があるのだという。それを今、役立てたかった。
「……ありがとう」
「煌貴さま!」
白燕の切羽詰まった声が響く。
狼の形をした妖魔が飛びかかってくるところだった。
澪は煌貴の背後に隠される。彼は灼刀を振り、またたく間に妖魔を斬り捨てる。
しかし、妖魔は次から次へとあらわれ、襲いかかってくる。
このままでは、足手まといでしかない。澪は逃げる場所を探して視線を巡らせた。
すると、桐人が川の中に入っていく姿が見えた。
「桐人、だめよ!」
制止するが、桐人の足は止まらない。
――白燕さんは?
助けを求めようとしたが、彼もまた刀を握って襲ってくる金烏を撃退するのに必死だ。
自由に動けるのは、澪しかいなかった。
澪は唇をきゅっと引き結び、川に走り寄る。
岸辺で裸足になり、足を水の中に入れる。水に濡れた瞬間、全身が震えるほどの冷たさだったが、それを堪えて川を進む。
桐人は川の中に何度も手を入れていた。
「厲魚だよ! これを食べさせれば妹の病気が治るんだ!」
川の中には、桐人と同じくらいの大きさの鯉が泳いでいる。
――妖魔だわ。
丸々と肥えた魚体は金色の鱗で覆われ、水を通してもはっきりとわかるほど目が赤い。この世ならざる姿は不気味の一言だった。
「誰が教えたの?」
「玄安の奥さまだよ」
澪の心臓がどきりと鳴る。銀子が教えたというのだろうか。
「これは妖魔なのよ! 妖魔を食べるなんて」
「でも、朱夏のご当主は食べてるじゃないか――」
桐人が言ったとたん、厲魚が飛び上がった。宙を舞う勢いのまま桐人にのしかかる。
「うわぁ!」
桐人が水に押し倒される。澪はあわてて桐人を助けようとした。
厲魚を押しのけて、水の中で転んだ桐人を起こそうとする。しかし、桐人は混乱しており、手足をばたつかせて暴れるため、うまくいかない。
何度も水を飲みながら、桐人を無我夢中で水から引きあげる。
己の肩に桐人の腕を乗せて支えるが、桐人はぐったりしていた。




