ぐうサボ スピンオフ ― 爆光の信仰 ―
――その日、少年は神を見た。
燃え盛る炎から立ち上る黒煙のような、膨れ上がった厚い雲が低い唸りを上げている。雲が象徴しているのは、不吉さの前触れ。
その象徴は、この世のすべてを飲み込まんとしているかのようだ。禍々しさの詰まったそれは、大粒の水を吐き出し、どす黒い水たまりを作り出していく。汚れを洗い落とすどころか混ざることのない水と油は、ただひたすらにその地に蔓延る者たちの、汚れた感情を浮かび上がらせているにすぎない。
激しく叩きつけられる雨が、スラムと化した廃墟群からあらゆる音を奪っていく。この瞬間も、そこで行なわれている非道な行為には依然として無関心のまま。
――クソが。
戦う力も、術も何も持たない。物心ついたときにはすでに、こうして誰かの鬱憤を晴らすためだけの存在として認識されていた。ゆえに、名前すら持たされなかった。唯一、与えられたのは、“異端者”というステータスだけだ。
男の足が少年の腹にめり込んだ。
息が詰まるような衝撃とともに口から唾を吐き出しながら、少年の背が崩れた廃墟の壁に思い切り叩きつけられる。呼吸をしようにも口に入る雨粒が、まるで少年の気管を塞ぐようにそれを阻んだ。激しくむせ返り、拭っても拭いきれない口元には、わずかばかりの赤が滲む。
背中を壁に打ち付けたときに、コンクリートから飛び出した鉄筋が身体のどこにも突き刺さらなかったのは、果たして幸運と呼べるのか。いっそのこと、このまま死んでしまったほうが楽になれるのではないか。そんな思いに支配されかけ、少年は片方の口の端を吊り上げた。
――狂ってやがる。
それは人をいたぶって楽しむ男たちのことか。それを身に受けて反抗心を抱く自分のことか。あるいはその両方か。
痛い思いや苦しい思いをして自ら命を絶とうとはけして思わない。だが、他者から受けるこの痛みを毎日味わうくらいなら、いっそのこと殺してくれよ、と思わないでもない。いや、逆にぶっ壊してやりたくなる。何もかも、すべてを。こいつらがしているように、自分も。仕返してやりたい。
身体を動かすたびに全身の骨という骨が軋み、悲鳴を上げる。その痛みは信仰を拒んだ神から下された天罰なのかもしれない。だとすれば、そんな神など、滅び去ってしまえばいい。
物理的な痛みも精神的な痛みも、彼にとっては怒りのエネルギーにしか変換されない。熱く燃え滾る肉体は、雨に冷やされて白い湯気が立ち上るほど。信仰を強制し、理不尽な暴力を振るってくる狂信者どもに抗う精神は、まだ死に瀕してはいない。
今度は頬を拳で殴りつけられた。
痛みに漏れる呻き声も、何かを叫びながら暴行を加える男たちの声も、すべて雨の音にかき消され、聞こえない。
時折、轟音とともに走る稲光が瞼の裏に焼き付き、視界を白く染め上げる。相変わらず、誰一人として少年に味方する者は現れず、彼が倒れることを許さないかのように、複数の男たちが代わる代わる、暴行を加えていく。
――憎い。憎い憎い憎い憎い。弱者として生まれてきたことも。なんの力も持たされず、ただひたすら痛めつけられることも。この世の理不尽、すべてが憎たらしい。
錆びた鉄のにおいが口の中に広がり、不快感が増す。熱い液体が流れ落ちる感触はあるものの、それも、冷たい雨のせいですべてが台無しだ。願わくは、爆発しそうなほど膨れ上がったこの熱い感情が、冷たい雨で萎んでしまわないことを。できることならば、この思いをすべて爆発させてやりたい。
覚束ない足取りで、右に左に揺れる身体を二本の足で踏ん張り、少年は踏みとどまってそれでも立っていた。彼の顔から笑みは消えない。それが気に入らなかったのか、男たちからの蹴りや拳は絶えず次から次へと飛んでくる。
殴り、蹴られてフラフラとよろめく様は、それはさながら、人形の舞踏のようだった。地に横たわることが許されない、終わりの来ない集団暴行に、少年の意識も朦朧とし始める。
――本当に終わらないのか。
否。終わらないならば、終わらせてやればいい。そうだろう?
こんなにも反抗心を燃やしているのに、戦う力がないからと諦めるのか?
それは違う。いつだって誰かの標的にされるたび、やり返してやりたいと思ってきた。やり返して返り討ちに遭うのが目に見えているからか。それが怖いからか。
――ふざけるな。
失うものなど自分の命一つしかない。今さらそんなもの失ったって、怖くなどない。今死ぬか、もう少しあとで死ぬか、自分に残された未来はたったそれだけの違いだ。それなら、やりたいことをやりたいようにやって死んでやる。
繰り出された男の拳を手のひらで受け止め、その男の顔面に拳を叩きつける。よろめいた男が驚愕に目を見開いたあと、怒りの形相に変えて少年に猛攻を加え出す。殴られ、蹴られ、少年はフラフラとした足取りで、ついに地面に膝をついてしまった。
激しい稲光が走り、一瞬の静寂と昏い闇が訪れる。瞬間、響き渡る轟音。足元さえも振動させるその音は、降りしきる雨でさえ消せない。晴れることのない男たちの心境を思えば、この昏い空と同じ、だ。不安に駆られ、誰かを痛めつけて常に自分の優位を感じていなければ、圧し潰されてしまうのだろう。可哀相なやつらだ。
――だが、ざまぁみろ、だ。
忌々しさを吐き出すように、少年がさらに口の端を上げ、ニヤリ、と笑みを零せば、すぐさま頬に拳が飛んでくる。癪に障ったのなら、狙い通りだ。
何が、我らが神ジェイランカだ。金と暴力と権力に溺れた、弱者に対して偉ぶるだけの下衆な魔王が神のはずがない。そんなやつに媚びへつらっても奪われていく一方だからだ。
死んだって信仰なんてしてやらねぇ。信仰で飯が食えるのなら、いくらでも祈ってやる。弱者からさんざん奪っておいて、信仰を強制する神など、くそくらえだ。そして、そんな奴らを信仰し、他者にそれを強制してくるやつらもだ。
男たちが焦り、弱者から食い物を強奪しているのは、そのジェイランカという魔王が突然に行方をくらましてしまったせいらしい。弱者から奪い取った金を納め、わずかばかりの食糧を手にしていたやつらも、その庇護がなくなった今、心の安寧のためだけにこうして暴力行為に手を染めているというわけだ。殴って腹が膨れるはずもないのに、馬鹿なのだろうか。
地面に膝を折って尻餅をつくと、どす黒い水たまりの中に倒れ込みそうになる。意識の消失が近い。下ろした視線の先には、男の二本の足が目に映る。即座にグッ、と髪の毛を掴まれて頭を持ち上げさせられた。腫れぼったい目を開けば、歯を食いしばる男の怒り顔が見え、刹那、顔面に衝撃が走る。意識を半分飛ばし、真後ろに倒れ込みながら、思ったほど痛くねぇなという感想を抱く。
油の混じる汚い雨水に顔をつけ、息をするだけでもやっとの状態で少年はゆっくりと目を開けた。今、自分を殴りつけた男が大きなスコップを手に持ち、それを真上に振りかぶるところだった。
――ああ、あれで頭を殴られたら死ぬだろうな。首だったら斬り落とされるか?
それもいいか。もうこの世界に未練はない。いや、最初から期待はしていない。夢も希望もなかった。これでようやく終われる――。
目をゆっくりと閉じ、その瞬間を待つ。しかし、いくら待っても衝撃はやってこず、雨音と鳴り響く雷の音が聞こえるだけだ。
少年は再び目を開けると、そこには知らない背中があった。スコップを振り上げた男の腕を掴んだまま、こちらを振り返った彼は、この昏い世界に生きる者にはない、まったく濁りのない瞳を持っていた。見る者すべてを射竦めるかのような、碧。昏い世界には眩いほどの銀色の髪。
口元には鳥の嘴を模したマスクをつけている。雨が降っているにもかかわらず、少しも濡れていないシャツと赤い腰マントはどこから吹いているのか、風に煽られていた。後ろ腰にはアサルトライフルと長剣を交差させて携帯しており、およそこの辺りでは見かけない人間だった。
――誰、だ?
声に出したつもりはない。声に出していたとしても雨音で聞こえなかったはずだ。だが、嘴マスクのせいでよくわからなかったが、少年には彼が笑って見せたように感じた。それは、もう大丈夫、と言ってくれているような、なぜだか温かな光を感じた。
彼はおもむろに目の前の男に顔を向けると、スコップを振り下ろそうとしていた男の腕を掴んだその手を軽く引っ張ると、男の腕を肩から引き千切る。
驚きに目を瞠る少年。雨音に消されつつも、微かに聞こえる男の悲鳴。鮮血の噴き上がる肩口を押さえ、その場でのたうち回る男に、彼はスコップを握ったままの腕を――男に返した。スコップの剣先でその喉元を突き刺すように。男の首が転がり落ちると、スコップを握っていた腕も一緒にどさりと落ち、首を失った男の身体がその場に頽れる。残ったのは男の死体と、どす黒い水たまりに混じる赤。
その異様な光景に誰もが唖然とし、動きを止めた。彼は転がった生首のほうへ歩いていくと、その髪の毛を掴んで首を持ち上げる。その瞬間、掴まれた男の首がケタケタと笑い出した。声は聞こえなかったが、目と口の動きでわかる。その目と口、切り口である首からは大量に血が流れており、恐怖よりも彼の為した異様さに、少年は興奮さえ覚える。
――狂ってる!
死んだはずの男の首が嗤うなど、信じられることではない。だがその狂気を今、まさに自分のこの目に焼き付けている。その場にゆっくりと立ち上がる少年。彼の視線の先には、首だけになった笑う男の頭を振り回す彼の姿。笑う男の首から飛び散った血が雨と一緒に少年の顔にもかかるが、それを気にするような場面ではない。あり得ない光景に、少年の好奇心は止まらなくなる。あの首をどうするのか――答えは火を見るよりも明らかだ。
振り回した首を、彼はそのまま恐怖に顔を引き攣らせている男たちに向かって投げつけた。なぜだかはわからないが、あの首には恐怖を感じる。それは男たちも同じだったのだろう。自分たちに向かって飛んでくる首から逃げるようにして――慌てて背中を向けて駆け出すその姿を、少年は滑稽だと思った。
どうして逃げられようものか。あの首は、確実に男たちを破滅へと導く爆弾のようなものだ。根拠はなかったが、直感的にそう少年は確信していた。
直後、放物線を描いて飛んでいった男の生首に雷光が直撃し――視界を白く焼く閃光が破裂すると、男たちを巻き込んで辺りを一瞬で吹き飛ばしていた。
――神々しい。
光も、爆発も、彼の挙動のなにもかもがすべて。残酷なまでの狂気が、とても愛おしい。
これほどまでに感動に打ち震えたことが今までにあっただろうか。気に入らない魔王を神と崇め、信仰するように強制されてきた人生を歩んできた自分だからこそ、今なら男たちのその行動にも得心がいった。
――ああ、そういうことか。
自分の神を見つけるとはこういうことなのか。この神の凄さを、誰かにもわかって欲しい、そういう思いだったわけだ。だが、よく知りもしない神を崇めることなど、到底不可能だ。自分の神を見つける、これこそが信仰の第一歩だったのだと。
彼はゆっくりとこちらに歩いてくる。すると、雨と血に塗れた身体ごと、抱き締められた。初めて感じる人の温もりと鼓動に、少年の心が跳ね上がる。痛めつけられていた身体の傷が癒されていくような、重い身体が次第に軽くなる感覚は、とても心地よかった。そのまま彼の腕に身を預けようとしたところで、彼は右手を少年の左胸に手をかざし、耳元で囁く。その声はなぜか雨音にかき消されることなく、少年の脳に届いた。
「――――」
「……え?」
言われたことのない言葉。いや、そもそも――と、否定しようとして、相手が神ならば、それも可能にしてしまうのではないか。と、少年は考える。
まさかこれは、自分が神に選ばれたということか。
想いと考えが頭の中をグルグルとし始め、少年は混乱する。それを見て彼は苦笑したようだった。
「答えはいらないよ。もう聞かなくてもわかってるからね」
少年の身体をそっと放し、戸惑う彼の目を見て彼は続ける。
「あの人たち――多分もうそろそろ復活してくるからさ、気に入らなかったら爆発させていいよ。キミにはその力をあげたから」
「力を――」
そういえば、先ほど左胸に手をかざされたとき、何か不思議な力が身体中に宿るのを感じた。そこに手を当て、顔を下ろして見てみると――企鵝が魚を丸呑みする刻印が浮かび上がっており、自分の手に反応して刻印が淡く蒼い光を発した。
「僕の名前はリクティオ。リクトでいいよ。キミの名は?」
「……おれに名前はない。気づいたときから異端とか、異端野郎とかそんな感じで呼ばれてた」
「そっか。じゃあ僕が名前をつけてあげるよ。そうだね――ノヴァルクス。今日からキミはノヴァルクスだ」
――ノヴァルクス。
「ノヴァルクス……。それがおれの名前……」
「じゃあね、ノヴァルクス。また会おう」
その名を心の中で反芻しながら、去り行く彼の背中をノヴァルクスは見つめ続けた。どれだけ強く雨が降り注ごうが、まったく意に介さず――そもそも、彼には当たっていなかったのだから、気にしようがないのだろう。その背が遠く離れ、小さくなり、やがて消えてしまうまで。
空が泣き止み、雲が晴れて陽の光が顔を見せ始める。虹のかかる空は、今の少年の心の中をそのまま映し出しているかのようだった。ただ、爆散し、霧散していた男たちの身体が元通りになり、雨上がりの大地に起き出して来なければ。人の感動を台無しにする異端の異教徒どもには、制裁をくれてやらなければならない。
「――おれの名はノヴァルクス。リクティオ様を神と崇める、天鵝絨教の教主だ。異端の神を崇める異教徒どもに、光の制裁を!」
右手をかざし、叫べば、光の爆発によって男たちが吹き飛んだ。一人ずつ、確実に爆散させていく。
「光の制裁を! アハハハハッ!」
――ああ、素晴らしい。
爆散させても男たちはまた復活する。これぞ、神が与えたもうた、まさに神の慈愛。神の奇蹟だ!
リクティオ様。信者を集める仕事、このおれにお任せを――。
――その日、神を見た少年は、神の御使いとなった。
いかがでしたでしょうか。
本編未登場の、リクトとノヴァルクスとの邂逅の物語でした。
彼が今後どのようにして登場するのか、どうぞ本編のほうも引き続きお楽しみいただければと思います。
おもしろそうだと思っていただけた方は、ぜひ本編のほうもブックマークしてみてください。
感想もお気軽にいただけるとありがたいです。
今後ともぐうサボをよろしくお願いいたします。