8.知られざる邂逅(辺境伯視点)
エリーナの部屋を出て、私は茫然と廊下に立ち尽くしていた。掴んでいたはずの温かい手が、するりと指の間から零れ落ちていったような喪失感。彼女の、傷つき、困惑したような瞳が、脳裏に焼き付いて離れない。
(なぜだ……なぜ、君は私から離れていった……?)
突然の彼女の後退に、どうすればいいか分からなかった。つい先ほどまで、あんなにも柔らかな体で私の腕の中にいて、唇を重ねたというのに。あの瞬間、確かに心は通じ合ったと、私は信じて疑わなかった。
辺境での厳しい戦い以外、異性の心の機微など解する機会もなかった私だが、あの時の彼女の熱は、間違いなく私と同じ方向を向いていたはずだ。
それなのに、なぜ。なぜ急に、怯えたような顔をして、私から距離を取った? 私が怖がらせたのだろうか。王都の令嬢である彼女にとって、辺境伯である私の、あの剥き出しの感情表現は、あまりにも重すぎたのだろうか。
普段、感情を殺して生きている分、一度溢れ出すと制御が効かない。その不器用さが、彼女を傷つけてしまったのか。
(すまない、エリーナ……私は……)
後悔が波のように押し寄せる。私は、辺境を守ることはできても、たった一人の女性の心すら、どう扱えばいいか分からない愚か者だ。
彼女と初めて会った時のことを思い出す。辺境伯として叙爵され、辺境に赴任して数年が経った頃。一度、王都に短期間滞在する機会があった。
*
長年辺境の土にまみれていた私は、華やかな王都の空気にも、そこに暮らす人々にも、どうにも馴染めなかった。
仕事の用事を終え、不慣れな王都の街を歩いていると、道に迷ってしまったのだ。顔を伏せ、外套の風防を被り、とにかく目立たぬように、と地味な装いをしていたつもりだが、鍛え上げた体躯と、どこか荒っぽい雰囲気は隠せなかっただろう(今思い返せば、風防を被るのはやり過ぎだった。かえって怪しい風体だったかもしれない)。
王都の貴族や市民は、そんな私を避けるように通り過ぎていった。場違いな、少々薄汚れた私は、彼らにとって関わりたくない存在だったのだろう。
(あの時も……私は、場違いな異物だった……)
その時、ふと声をかけられたのだ。
「あの、何かお困りですか?」
振り返ると、そこに立っていたのは、まるで辺境の厳しい空気を一瞬で晴らすような、清らかな光を纏った少女だった。それが、アレクハイト公爵家の三女である、君──エリーナだった。
まだ十代後半だっただろうか。飾らない、しかし育ちの良さを感じさせる身なりで、そこに立つ私という存在を、品定めするような視線で見るでもなく、ただ純粋な心配の色を瞳に湛えていた。
見慣れぬ風体の私を前にしても、嫌悪の色は微塵も見せず、ただ困っている人間に対して、純粋な善意で声をかけてくれたのだ。
(ああ……なんて……)
息を呑んだ。王都の貴族社会の澱んだ空気の中で、これほど澱みのない、清らかな光を持つ人間がいるのかと、衝撃を受けた。彼女の澄んだ瞳に、私という存在はどのように映っていたのだろう。辺境の荒くれ者? それとも、ただ道に迷った人?
「道に……迷ってしまったようで」
そう答えると、彼女は嫌な顔一つせず、「どちらまで行きたいのですか?」と尋ね、丁寧に道を教えてくれた。そして、方角に迷わないようにと、近くの目印となる建物の場所まで、少しだけ案内してくれたのだ。
その間、彼女は私の、辺境で少し煤けた服や、硬い手に視線を向けることもなく、ただ真っ直ぐに、親切な言葉だけをくれた。
別れ際、「お気をつけて」と微笑んだ彼女の顔が、私の心に深く刻まれた。まるで、乾ききった大地に、一滴の清らかな水が落ちたかのような、そんな衝撃だった。
(あの瞬間に……私は、君に)
一目惚れ……というものだったのだろう。
辺境に戻ってからも、彼女の姿が、あの時の声が、脳裏から離れなかった。会うことなど二度とないだろう、王都の令嬢。叶わぬ恋だと、分かっていた。ただ、心の支えとして、彼女の清らかさを胸に秘めて、辺境の任に当たった。
そんなある日、アレクハイト公爵家から辺境伯家への婚姻の打診があったのだ。相手は、公爵家の三女。
(あのときの……!?)
報せとともに送られてきた肖像画を開いた私は思わず目を疑った。奇跡だと思った。
辺境伯である私と、公爵家の娘である君とでは、釣り合いが取れない。特に、後継ぎを急ぐ必要もないこの結婚が。だが、公爵家側の条件は「白い結婚」で構わない、というものだった。
辺境伯の職務を尊重し、多くを求めない妻。それは、辺境伯である私にとって、最も都合の良い条件だった。そして、相手が君であるならば、どんな条件でも飲むつもりだった。
結婚が決まった時は、天にも昇る気持ちだった。まさか、あの時の清らかな光を、自分の妻として迎えられる日が来るなんて。
辺境の城に君を迎えてからの日々は、全てが輝いて見えた。夢ではないかと、何度も頬をつねった。結婚の条件は「白い結婚」。君は夫婦としての情を求めていない。それは分かっていた。だから、どうすればいいか分からなかった。
長年感情を殺して生きてきた私は、愛情をどう表現すればいいのか、君をどう扱えば喜んでくれるのか、全く知識がなかった。
唯一できたのは、ただひたすらに、君を大切にすること。君が快適に過ごせるように気遣うこと。君の傍にいたいと願うこと。そして、溢れて止まないこの思いを、言葉にすることだけだった。
それは、君に聞かせると恥ずかしくなるような、陳腐な言葉ばかりだっただろう。過保護すぎると、君を困惑させたかもしれない。
だが、それしか、私にはできなかった。君に嫌われたくない一心で、でも、この溢れる思いを知ってほしいという願いもあって、不器用に愛情を注ぎ続けた。
だがまさか、君を傷つけてしまうなんて。
(エリーナ……)
部屋の扉が、重い音を立てて閉まる。中に残した彼女の、傷ついたような、怯えたような顔が、私の心を抉る。
掴みかけた温かさは、また遠ざかってしまった。私の、あの時からの片思いは、結局、彼女に届くことはなかったのか。
隣にあった彼女の温もりは、もうここにはない。一人、立ち尽くす。辺境を守る盾は、こんなにも容易く、たった一人の女性によって剥がされてしまうのか。
(すまない……エリーナ……)
後悔の言葉だけが、静かな廊下に虚しく響いた。
(このまま……終わるのか……?)
彼女を怖がらせてしまったという事実は辛い。自分の不器用さ、男女の機微に疎い鈍感さが招いた結果かもしれない。戦場では、心の不器用さなど感じたことはなかった。だが、まさか、愛する女性の前で、この不器用さが最も大きな障害となるとは。
(駄目だ……!)
頭の中で、警鐘が鳴る。立ち止まるな。後悔している暇はない。ここで諦めたら、あの時王都で彼女を見送った、何もできなかった自分に戻るだけだ。
そして、再び、遠くから彼女を思うだけの、叶わぬ恋に逆戻りだ。そんなのは、耐えられない。もう二度と、君を遠ざけたくない。
(不器用さを……言い訳にするな……っ!)
自分自身に、辺境伯としての、そして武人としての、最も厳しい声で言い聞かせる。戦場で恐怖に足がすくみそうになる部下を叱咤するように、震えそうになる体を叱咤する。
経験がない? 機微が分からない? そんなものは、努力で補うしかないだろう。辺境の地形が険しかろうと、敵の数が多かろうと、攻略する以外に道はない。彼女の心も、同じだ。
(エリーナ……)
彼女の、怯えたような、でも困惑の色の強かった瞳を思い出す。彼女は、私そのものを拒絶したのではないのかもしれない。ただ、あの状況に、私の感情表現に、戸惑っただけではないのか。そう信じたい。
そして、信じるならば、動くべきだ。ここで立ち尽くしている時間は無い。作ってしまった壁を、壊しに行くんだ。今すぐに。
一度部屋を出た扉を、再び見る。そこに、私の愛しい妻がいる。誤解を解かなければならない。私の全てを、伝えなければならない。そして、彼女の心の壁も、私が溶かしてみせる。
向かう先は、先ほど逃げるように出てきたばかりの、愛しい妻が待つ部屋だ。
迷いは消えた。あったのは、彼女ともう一度向き合い、全てを伝える、男としての、揺るぎない決意だけだった。




