7.予期せぬ後退
訓練場から城へ戻り、温かい部屋でゲオルグ辺境伯様と二人きりになった時も、まだあの口づけの余韻は続いていた。傍らに立つ彼を見上げるたび、訓練場で交わした唇の感触が蘇り、顔が熱くなった。
彼も、どこか落ち着かない様子で、私の顔を見つめたり、窓の外に視線を向けたり、手持ち無沙汰に自身の手に触れたりしている。あのゲオルグ辺境伯様が、こんなにも動揺している姿を見るのは初めてだった。それほど、あの瞬間が、彼にとっても特別だったのだろう。そう思いたい。
(ゲオルグ辺境伯様の……愛情……)
だが――高揚感が落ち着き始めるにつれて、冷静な思考が戻ってきた。そして、その冷静さが、私の中に根深く横たわるものと向き合わせる。
彼の、あの熱。深すぎるほどの愛情。それは、私が今まで知らなかった種類のものだ。
公爵家で、三番目の娘として生まれ、特に期待されることもなく、問題も起こさないように生きてきた。
父や母の忙しさの中で、子として愛されるということを、私はあまり知らずに育った。姉たちの陰に隠れ、自分という存在には、さほど価値がないのではないか、と感じてしまう瞬間が、正直なかったわけではない。
そんな、愛情の欠けた土壌に育った私にとって、彼のあの惜しみない、あまりに大きな愛情は、まるで地中に暮らす土竜に、突然降り注いだ光のように眩しすぎた。
私の小さな両手では、受け止めきれないのではないか。その大きさが、私の器の小ささを突きつけてくるかのようだった。
これは、夢なのではないか。あまりに都合が良すぎる、すぐに覚めてしまう幻なのではないか。幸福であればあるほど、その反動で、もしこれが偽りだった時に、どれほど深く傷ついてしまうだろうと怖くなった。あの温かさを失う恐怖が、私の中に生まれた温かい感情そのものを凍り付かせそうになる。
(私は……怖ろしい…………)
急に、全身が硬くなるのを感じた。彼のこの感情が怖いのではない。彼の愛情が、私には分不相応に感じられて、私自身が、その重さに耐えられなくなりそうだと、怖くなったのだ。
この温かさに囚われて、地に足がつかないような状態になるのが怖かったのかもしれない。
私の体が強張るのを感じた彼が、隣で動きを止めた。彼は、心配そうに私の顔を覗き込む。その瞳には、つい先ほどまでの情熱に加えて、新たな感情──深い困惑と、微かな不安の色が浮かんでいた。先ほどの、喜びや安堵の色は消えている。
「エリーナ? どうした? 体調が悪いのか?」
私の変化に気づき、動揺しているのが伝わってくる。彼は、私が少しでも不調を示すと大騒ぎするほど過保護だ。私の突然の強張りや、顔色の変化に、すぐに体調の異変を疑ったのだろう。
(違うんです……でも、言えない……)
言いたい。この怖さは、あなたが原因ではないのだと。私が、私自身に自信が持てず、彼の愛情を受け止める資格があるのかと、勝手に怯えているだけなのだと。
彼を不安にさせたくない。せっかく、心を通わせられたかもしれない、この貴重な瞬間を、私の内なる問題で台無しにしてしまう。
けれど、言葉が出てこない。喉が張り付いたように、何も声にならない。過去の経験から染み付いた、自分の感情を表に出すことへの戸惑いと、彼の愛情の大きさに圧倒された恐怖が、私の口を塞いでしまう。代わりに、私の体は、勝手に動き始めていた。
彼の傍から、そっと距離を取る。彼の戸惑う視線から逃れるように、一歩、また一歩と、後ずさる。顔が熱い。体中が震えている。彼のあの熱が怖かったわけではない。彼の愛情が、私には分不相応で、私自身が、その重さに潰されてしまいそうだと感じて、怖くなったのだ。
「あ……あの……ゲオルグ辺境伯様……わ、わたしは……少し……」
「エリーナ……?」
言葉を探そうとするが、適切な言葉が見つからない。情けないほど小さく、震える声だけが辺りに響く。
彼は、私が離れていく様子を、茫然と見つめている。まるで、目の前で、掴んでいたはずの温かいものが、突然冷たくなって、手から零れ落ちていくのを見ているかのように。
彼の、いつもは揺るぎないはずの表情が、明確におろおろと動揺しているのが分かった。私から距離を取られたこと、私の突然の態度の変化が、彼にとって全く予想外だったのだろう。
彼の大きな手が、宙を彷徨い、どうすればいいか分からない様子を見せている。いつも冷静で、完璧な彼が、私を前にして、困り果てている。
それは、彼が辺境伯として、あるいは武人として見せる姿からは想像もできないほど、脆く、人間的な姿だった。
(ちがうのです……あなたに恐怖しているわけではないのです……ただ、私自身が……)
伝えたい。誤解しないでほしい。あなたの愛情が嬉しくないわけではない。むしろ、嬉しすぎて、その大きさに自分が潰されてしまいそうで、怖くなったのだと。私の問題なのだと。
けれど、言葉は続かない。
彼の、深く困惑し、傷ついたような瞳から逃れるように、私はさらに一歩、後ずさる。二人の間に、再び、物理的な距離が生まれる。
それは、急速に、以前のような、遠く隔てられた心の距離へと戻っていくように感じられた。
彼は、もう何も言わなかった。ただ、その場で立ち尽くし、私を見つめている。
その視線には、先ほどの情熱は消え失せ、深い悲しみと、理解できない状況への戸惑いだけが宿っていた。まるで、ようやく手に入れたと思った全てが、泡のように消えてしまったかのようだった。
「その……すまなかった……」
「あ……」
彼はそれだけ告げて、静かに部屋を出ていってしまった。
温かい部屋の空気も、辺境の冷たい空気に変わってしまったかのようだ。彼と私の間にできた、この僅かな物理的な距離が、再び、氷のように冷たい、大きな隔たりとなってしまったかのようだった。
(私は……なんてことを……)
彼の優しさ、甘さ、そしてあの口づけ。それによって、私の心は父性から男性へと決定的に向きを変えたのに。
その直後、自分自身の内なる問題からくる恐怖と混乱によって、私は彼の愛情を、そして彼自身を、突き放してしまったのだ。
彼の、傷ついたような、困惑しきった表情が、私の目に焼き付く。
呆然と立ち竦んだ愚かな私は、瞳から流れ落ちるものを止めることができなかった。