4.降り注ぐ……
城での生活が始まって数日。私の日常は、自分が王都で思い描いていた結婚生活とは、かけ離れたものになっていた。ゲオルグ辺境伯様は、あの初対面の時から変わらず、私に甘く、そして驚くほど丁寧に接し続けた。
朝食は必ず二人で共にとった。彼は、忙しい領地の政務や軍務があるはずなのに、朝食の間は他の誰かを呼ぶこともなく、ただ私との時間を過ごした。
食の好みや、辺境での暮らしで不便はないか、体調はどうか、など、私に関する質問が多く、私の言葉一つ一つに真剣に耳を傾けてくれた。そして、食事が終わる頃には、決まって囁くのだ。
「今朝も、君と食事ができて嬉しい」
「エリーナの顔を見ていると、一日の始まりが輝くようだ」
王都で無骨で寡黙と噂されていた人物とは思えない、真っ直ぐで、聞いているこちらが恥ずかしくなるような言葉ばかりだった。そのたびに顔が熱くなり、俯いてしまう私を見て、彼は満足そうに、あるいは困ったような、それでいて愛おしむような、複雑な笑みを浮かべた。
日中は、それぞれの執務や用事があるため、基本的には別々に過ごした。私は辺境伯夫人の役割として、城内の使用人を取り仕切るオスカー執事殿から、城の運営や慣習について教わった。
使用人たちは皆、私に恭しく接してくれたが、ゲオルグ辺境伯様の話題になると、尊敬の中に小さな畏怖の色が混じるのが分かった。
彼らにとって、ゲオルグ辺境伯様はやはり厳格で、少し近づきがたい主君なのだ。だからこそ、彼が私にだけ見せるあの甘い態度は、使用人たちの間でも小さな驚きをもって見られているようだった。
(オスカー執事殿だけは、全てを見通しているかのような穏やかな微笑みを浮かべていることが多かったけれど……)
午後の時間や夕食、あるいは寝る前に、彼は必ず私の元を訪れた。短い時間であっても、私の傍で過ごそうとする。そして、その時間もまた、甘い言葉に満ちていた。
城内を案内してもらった日のこと。辺境の城は広く、階段も多かった。不慣れな私が僅かにつまずいた瞬間、彼が素早く腕を伸ばし、私の体を支えた。
「大丈夫か、エリーナ。気をつけて歩くんだ」
その声色は、少し厳しいものだった。しかし、私を支える腕の力強さと、瞳に宿る真剣な心配の色は、明らかに行き過ぎた気遣いだった。私はもう大人だし、少しよろめいただけなのに、まるで子供を心配するかのようだったから。
「は、はい。ありがとうございます、ゲオルグ辺境伯様」
気恥ずかしくて答える私から、彼はすぐに腕を離したが、それからというもの、私が階段や少し足場の悪い場所を通る際には、必ず私の傍について歩き、危なくないかを確認するようになった。時には、私の手を取ろうとすることもあった。私のほんの些細な動き一つにも、彼の視線が注がれているのを感じた。
夕食の際も続いた。私の皿に、私が好きそうな料理を取り分けてくれる。私が少しでも食が進まない様子を見せると、「口に合わないか?」「どこか具合が悪いのか?」と、すぐに心配の声をかけてくる。
体調が悪いといえば、すぐに城付きの医者を使わせようとする。それはまるで、私が今にも倒れてしまうのではないかと案じているかのようだった。
私の混乱は深まるばかりだった。これは、夫婦としての情を求めない、形だけの結婚のはず。彼は忙しく、私にかまっている暇などないはず。
それなのに、どうしてここまで私に時間をかけ、甘く、過保護に接するのだろう。それは、彼の持つ辺境伯としての守りの本能が、私という身内に向けられているということなのだろうか?
私は、彼の「身内」足り得るのだろうか……?
ある夜、自室で書物を読んでいると、扉をノックする音がした。ゲオルグ辺境伯様だった。夜分に、それも私の部屋を訪ねてくるなんて珍しい。
「夜分に済まない」
部屋に入ってきた彼はそう言ったが、その手には湯気が立つカップが二つ乗った盆を持っていた。
「君の部屋の明かりがまだついていた。眠れないのかと思ってな。……これを飲むと、よく眠れる」
「あ、ありがとうございます……ゲオルグ辺境伯様」
私は戸惑いながらも、彼が入れてくれたカップを受け取った。湯気から、蜂蜜とハーブの甘く優しい香りが漂う。彼は自分のカップを口に運んだ。
私も向かい側のソファに座り、湯気を眺める。沈黙が流れるが、それは王都で感じていたような冷たい沈黙ではない。傍らに彼がいるだけで、部屋全体が温かい空気で満たされるような、不思議な感覚だった。
彼は、私が飲み物を口にする様子を、じっと見つめていた。その視線は、私を案じる色と、そして何か別の、私がまだ理解できない熱を含んでいるようだった。
「辺境の冬は厳しい」
彼が静かに言った。
「体が冷えやすいと聞く。厚着をするんだぞ。……王都にいた頃から、そうだったのだろう」
(私のこと……そんなに細かく……?)
私が体を冷やして体調を崩しやすいということを、彼が把握していることに驚く。そして、それは王都にいた頃からだろう、と私の過去にまで推測が及んでいることに、彼の気遣い、あるいは監視のようなものが、私が思うよりずっと広範囲に及んでいるのかと、改めて戸惑いを覚えた。
「はい……気をつけます」
返事をすると、彼は満足そうに頷き、私が飲み物を終えるのを待ってから立ち上がった。
「では、邪魔をしたな。ゆっくり休むといい」
そう言って、彼は部屋を出ていった。夜分にわざわざ飲み物を持って訪問し、私の様子を気遣い、体質についてまで把握している。普通、形式だけの結婚の相手に、このような行動をとるだろうか?
それからも彼からの気遣いは、昼夜を問わず、そして私が意識しないところ(侍女からの報告などがあったのかもしれない)でも、私に降り注いでいる。
それは、まるで辺境の空から毎日雪が降り積もるように、止めどないかのように見えた。彼の持つ守りの本能が、私という存在に向けて、予想外の形で発揮されているのだろうか。
戸惑い、困惑し、顔が熱くなる日々。しかし、彼の偽りのないように見える甘さ、その声の温かさ、私を案じる視線に触れ続けるうちに、私の心は、白い結婚のために築き上げた壁の向こう側で、少しずつ、確かに揺らぎ始めていた。
まるで我が子を案じるような感情。それでも、嫌な気持ちではない。むしろ、ずっと心の片隅で欲しかった温かさに触れているかのような、安堵にも似た感覚さえあった。
彼の過保護さは、私の自由を制限するものではなく、私という存在を大切にしていることの表れのように感じられるのだ。
私は彼の止めどない感情に、どこまで流されていくのだろうか。