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3.白い結婚のはずが……

 ゲオルグ辺境伯様に手を引かれるまま、私は城の奥へと案内された。あの結婚式が行われた部屋からさほど離れていない場所に位置する一室の前で、彼は立ち止まった。


「ここが君、エリーナの部屋だ」


 彼の声は、先ほど結婚式で私の名を呼んだ時のように、甘く響いた。部屋の扉には、辺境伯家の紋章と共に、私のためだろうか、控えめながらも美しい装飾が施されている。


「ありがとうございます……ゲオルグ辺境伯様」


 頭を下げると、彼は私の手を引く力を緩め、そのまま指先で私の頬にそっと触れた。


「何か不便があれば、オスカーに遠慮なく言うといい」


「あ、はい。お心遣い、感謝いたします」


 またしても、予想外の優しさだ。白い結婚の相手に、これほどの気遣いを見せるだろうか? 父は「無骨な御仁だ」と言っていたのに。混乱しながらも、私は彼の気遣いに応じた。


「御部屋の準備は整っております」


 オスカー執事殿が背後から声をかけた。


 彼は頷き、私の手からそっと手を離した。そして、私の瞳を真っ直ぐに見つめる。その翠色の瞳に宿る熱は、先ほどよりも増しているように感じられた。


「長い旅の疲れもあるだろう。今夜はゆっくり休むといい。明日の朝食は、共にとりたい」


「……はい。かしこまりました」


「何かあれば、私を呼べ。……遠慮はいらない」


 そう言って、彼は私の肩を優しく叩き、オスカー執事殿を伴って部屋の前から立ち去った。その背中が見えなくなってからも、彼の声と、肩に残った手の温もりだけが、まるで幻のように私の感覚に残っていた。


(何が……どうなってるの……?)


 部屋に通され、案内してくれた使用人が下がった後も、私の混乱は深まるばかりだった。


 通された部屋は、王都の私の自室よりも広く、辺境にあるとは思えないほど贅沢で、温かみのある調度品が揃えられている。形だけの妻に、これほどの部屋を用意するだろうか?


 そして、ゲオルグ辺境伯様。噂とは全く違う、予想外に魅力的な容姿。そして何より、私に向けられたあの甘く、優しい声。まるで、長年待ち望んだ妻を迎えたかのような、深い安堵と愛情を感じさせる声色。


(白い結婚の……はずなのに……)


 父との約束、自分自身の決意。情を求めない。期待しない。ただ、辺境伯夫人の役割を果たすだけ。そう決めて、この辺境の地にやってきたのに。彼は、最初の瞬間から、その全ての前提を覆してきている。



 *



 城での生活が始まって、一夜が明けていた。硬すぎず柔らかすぎない寝台の感触に、長旅の疲れもあってか、結局、深い眠りについていたようだ。


 瞼を開けると、見知らぬ天井が目に入る。あぁ、もう王都ではないのだと、改めて辺境の地に来たことを実感する。


 昨日のことが、脳裏に蘇る。城への到着、簡潔な結婚式、そして何より……ゲオルグ辺境伯様。噂とは全く違う甘く、熱を帯びた声と視線、温かい手。


 昨夜は――言葉にできないもやもやとした思いが渦を巻き、長旅の疲れもあってか結局眠ってしまっていたようだ。


 起き上がり、窓の外を見る。険しい山並みが朝焼けに染まり、荘厳な美しさを見せている。


 ぼんやりと景色を眺めているうちに、昨夜の記憶が遅れて思い出された。


(昨夜……彼は……)


 思わず、心臓が鳴る。


 結婚式の後、彼は私を部屋まで送り届け、ゆっくり休むように、それから、明日朝食を共にしたいと言って、そのまま部屋の前から立ち去った。そして、それきり、彼がこの部屋を訪れることはなかった。


 そう、私は結婚初夜に、一人で夜を過ごしたのだ。


 白い結婚。情は求めない。夫婦としての関係は持たない。


 それが、父と辺境伯家で交わされた約束だった。そして、私自身も覚悟していたことだ。だから、彼が私の部屋に訪れなかったことは、約束通りなのだ。


(……なのに)


 なのに、どうして私は動揺しているのだろう。


 彼は、私に全く興味がない、無骨で冷たい人物だと聞いていた。女性に興味がないと。だから、初夜などあろうはずがない、と疑いもしなかった。それが、父と交わした「白い結婚」の契約の、最も現実的な側面だと理解していた。


 だが、昨日の彼は、全く違った。 あんなにも優しく、甘く、私に触れ、私を見つめ、愛しむような声で名を呼んだ。まるで、本当の夫婦のように。長年待ち望んだ妻を迎えたかのように。


(あれほど……まるで本当の夫婦のように接しておきながら……)


 それなのに、夜は来なかった。約束通り、白い結婚を履行した。


(どういう……ことなの……?)


 あの甘さは、演技? それとも、気まぐれ? 辺境伯様が女性に興味がないという噂は、本当だったのだろうか? だとしたら、昨日の態度は一体何だったのだ。


 それとも──彼は、あんな様子を見せたにも関わらず、それでも「白い結婚」の約束を、私の意向を尊重して、自ら律したということなのだろうか? あの、噂に聞くゲオルグ辺境伯様が、彼の本能や感情を抑え込んだということなのだろうか?


 どちらにしても、私の理解を超えていた。


 顔が熱くなるのを感じた。これは、恥ずかしさ? それとも、何か別の感情だろうか?



 身支度を整え、指定された食堂へ向かう。広い食堂には、既にゲオルグ辺境伯様が着席していた。


 私の姿を見ると、彼は席を立ち、私の元へと歩み寄ってきた。


「おはよう、エリーナ」


 まただ。あの甘く、優しい声。そして、その瞳は、まるで朝日を宿したかのように、私を映して輝いている。


「おはようございます、ゲオルグ辺境伯様」


 彼は私の手を取り、エスコートして席まで案内してくれた。その一連の動作が、あまりにも自然で、まるで毎朝繰り返されている日常のようだったため、かえって私の心はざわめいた。


 朝食が始まる。並べられた料理は、辺境の食材を活かした素朴ながらも味わい深いものだった。黙々と食事を進める彼の横顔を、私は盗み見る。


 王都で貴族たちが「ゲオルグ辺境伯様は寡黙な方だ」と話していたのを思い出す。朝食の間は特に会話はない。やはり、噂通りの寡黙さなのだろうか。


 ……と思っていた、その時。


「君の口に合っただろうか? 王都のように華美な食事が出せず心苦しいのだが……」


 突然、彼が尋ねてきた。そして、その声は、朝の挨拶の時と同じ甘さを含むとともに、どこか不安げな色もあった。


「はい、とても、美味しいです」


 再び顔が熱くなる。寡黙なはずなのに、突然話しかけてくる。しかも、料理の好みを尋ねるなんて、夫婦らしい、他愛のない会話だ。白い結婚では、必要最低限の事務的な会話しかしないはずなのに。


「それはなによりだ。この辺りではよく採れる。他にも、君が気に入るものがあればいいのだが」


 そう言って、彼は僅かに口元を緩めた。王都の貴族が見せるような見た目だけを繕った笑みとは違う、心の底から嬉しそうに見える微笑みだった。


(どうして、こんなに優しくするの……?)


 朝食を終え、部屋へ戻る途中も、彼は私の隣を歩き、他愛のない話を続けた。辺境の気候について、城から見える景色について。その声色は常に優しく、私の返答に耳を傾けてくれているのが分かった。


 まるで、本当に私のことを大切に思っているかのようだった。彼の隣を歩いていると、辺境伯としての威圧感は健在なのに、その内側にある温かさのようなものが伝わってきて、不思議と安心感を覚えた。


 部屋の前で別れる際、彼は改めて私の手を取った。彼の大きな、少し硬く節ばった手が、私の小さな手を優しく包み込む。戦場を経験した者の手だろうか、無骨さはあるはずなのに、不思議なほど温かく、私の緊張を溶かすようだった。


「午後は、城の中を案内させよう。長旅の疲れがなければ、だが」


「あ、はい……ありがとうございます」


 思わず、震える声が出た。見つめる熱い視線に、心臓が激しく脈打つ。


「では、後ほど」


 彼は私の手をそっと握りしめると、名残惜しむようにゆっくりと離し、肩を優しく叩いて部屋の前から立ち去った。肩に残った手の温もりだけが、まるで現実ではないかのように感じられた。


 部屋に戻り、一人になると、私は自分の顔が熱くなっていることに気づいた。


(どうして……)


 彼の、あの優しさ。甘い声。そして、私に向けられる、温度を持った視線。それは、私が知っていたゲオルグ辺境伯様の噂とも、父と約束した「白い結婚」とも、あまりにもかけ離れている。


(……まるで、本当の夫婦みたい……)


 それも、ただの夫婦ではない。甘やかされ、大切にされていることが、はっきりと伝わってくる。私が想定していた、無関心で無骨な夫ではない。


(毎日、こんな風に……?)


 朝食の時、部屋の前で。僅かな時間だったのに、彼は私に優しく語りかけ、触れ、気遣いを見せた。これが、これから毎日続くのだろうか。この、困惑するほど甘い態度は。


 情を求めない。期待しない。そう決めて、心を閉ざして辺境まで来たのに。彼の、予想外の、そして止めどないかのように見える甘さが、私の決意を早くも溶かし始めている予感がした。

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