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2.辺境の城と、最初の困惑

 長く、荒々しさを増していった旅路が終わりを告げた。


 王都の華やかな風景は遥か彼方に霞み、馬車が踏みしめるのは、岩肌が剥き出しになった山道と、緑が少なく荒涼とした大地だ。


 これが、ゲオルグ・アイゼン辺境伯様が治める領地──王国最北、危険な魔物や他国の間者が跋扈(ばっこ)する地であり、私のこれからの住まいとなる場所の現実だった。


 空気は冷たく澄んでおり、遠くに見える山並みは厳しく、容赦がない。王都で聞いていた辺境の厳しさ、辺境伯様の無骨さ、その全てが、この風景に凝縮されているように感じられた。


 やがて、険しい山道を抜けた先に、巨大な城の影が見えてきた。それは、遠くから見た時も圧倒されたが、近づくにつれてさらにその威容さを増していく。


 自然の地形を巧みに利用し、巨大な岩盤の上に築かれたその城は、まさに難攻不落の要塞というにふさわしい。装飾はほとんどなく、分厚い石壁が並ぶ姿は、外敵の侵入を断固拒否する辺境伯家の意思を体現しているようだった。


 私が想像していた「屋敷」というよりは、完全な「城砦」だ。冷たく、閉鎖的な雰囲気が辺り一帯を覆っている。


 馬車は、重厚な石造りの城門をくぐり抜け、石畳の敷かれた広い中庭へと進んでいった。ここもまた、華美な庭園はなく、訓練用と思われる空間や馬小屋、物資の運搬路などが整然と配置されている、機能性を追求した場所だった。


 しかし、埃一つなく掃き清められ、備品が整然と並べられている様子からは、辺境の厳しい環境下でも規律が保たれていることが伝わってくる。辺境伯様の統治がいかに行き届いているかを示しているようだった。


 御者が手綱を引く音が響き、馬車がぴたりと止まる。いよいよだ。私の「白い結婚」が、この場所で始まる。心を平静に保ち、感情を表に出さないよう、深く息を吐いた。


(白い結婚……期待してはならない……)


 旅の間、幾度となく心の中で繰り返した言葉をもう一度反芻し、深呼吸をする。感情の波を立てないように、心を平静に保たなければ。辺境伯夫人の役割を、ただ粛々と果たすのだから。


 馬車の扉が開けられ、御者の肩を借りて地上に降り立つ。辺境の冷たい空気が肌を刺す。長旅の疲れで足元が少しおぼつかない。しかし、辺境伯家の使用人と思われる数名が、恭しく出迎えてくれているのを見て、背筋を伸ばした。


 出迎えてくれたのは、数名の人物だった。筆頭らしき人物は、白髪交じりの壮年の男性。厳しさの中に温かさを宿したような瞳で、私を恭しく出迎えてくれた。


「ようこそお越しくださいました、奥方様。長旅、さぞお疲れでしたでしょう」


 落ち着いた、信頼できそうな声だった。アイゼン辺境伯家の執事を務めているのだろう。彼はオスカーと名乗った。後ろに控える使用人たちも、媚びるような態度は一切なく、実直で忠誠心を感じさせる者ばかりだった。


「ありがとうございます、執事殿。おかげさまで、無事到着いたしました」


 私も公爵令嬢として培った礼儀をもって応じる。声が震えていないか、表情が硬すぎていないか、内心でチェックしながら。


 辺境伯様がどのような人物であるかは、その仕える者たちの雰囲気を見れば分かると言われるが、この城の使用人たちは、辺境伯様が厳格でありながらも、それに見合うだけの尊敬を集めている人物であることを無言で語っているように思えた。


 彼らの主人である辺境伯様もまた、私にだけ冷たい態度をとる、というような人物ではないのかもしれない……そんな、微かな希望が胸の奥に芽生えかけた、その時だった。


 執事殿に案内され、私は城の中へと進んだ。質実剛健な造りの城内は、王都の城や貴族邸のような豪華さはないが、清潔で手入れが行き届いている。


 通された一室は、簡素ながらも神聖な雰囲気に満たされていた。祭壇が設けられ、司祭らしき人物が立っている。


(これは……)


 理解するのに、数瞬かかった。どうやら、結婚式は私の到着を待って、すぐにここで執り行われるらしい。白い結婚に相応しく、参列者はオスカー執事殿と数名の上級使用人のみ。父も姉たちもいない、静かで簡潔な儀式。私の心の準備と、辺境伯家側の合理性が表れた――私たちにぴったりの結婚式だった。


 司祭の前に進み出ると、厳かな声が響いた。


「誓いを──」


 儀式はあっという間に進んでいく。辺境伯はどこに? 私が探すまでもなく、司祭の横に、いつの間にか一人の人物が立っていた。


 ゲオルグ・アイゼン辺境伯様だ。


(っ……!)


 その瞬間、私の心臓が大きく跳ね上がった。いよいよ、夫婦として対面する時だ。白い結婚の相手。私の、これからの夫。


 ゲオルグ・アイゼン辺境伯様は、司祭の横に、微動だにせず立っていた。辺境伯としての威厳と、武人としての揺るぎない存在感を纏い、堂々たる立ち姿。年齢を感じさせる落ち着きと、辺境の厳しさを乗り越えてきた強靭さは、噂通り、いや、噂以上かもしれない。


 白金の髪は、武人らしい短さで整えられているが、額にかかる数筋が、その顔立ちに柔らかな陰影を与えている。彼の瞳は、噂通り燃えるような翠色だ。


 辺境伯として全てを見通すかのような鋭さと、幾多の戦を指揮してきたであろう冷徹さを宿しているはずなのに、私を捉えたその眼差しには、冷たさや無関心の色は全くなかった。


 むしろ、深い光を湛え、じっと私の全てを見透かそうとするような……あるいは、何か大切なものを慈しむような、予想外の熱を宿しているように見えたのだ。


 高く通った鼻筋、きりりと結ばれた口元は、辺境伯としての厳格さを物語るが、その整った造形は思わず見入ってしまうほどだった。


 王都の貴公子たちのような軟弱さは皆無。辺境の地で培われたであろう、岩のように揺るぎない意志の強さと、歴戦の武人だけが持つ、成熟した大人の男性の魅力が全身から滲み出ている。


 噂の「無骨」という言葉だけでは語れない、予想外の、そして私の心を波立たせるほど強い魅力を持った人物だった。


(な……なんて……)


 息を呑む。噂話で聞いていた「無骨で冷たい辺境伯様」とは、受ける印象があまりにも違う。年齢差は確かにある。辺境伯としての威圧感も凄まじい。


 けれど、目の前に立つ彼は、私が心を閉ざし、役割に徹しようと決めた相手が持つであろう冷たさや無関心とは、まるで無縁に見えた。そこには、確かな人間的な温かさと、底知れない魅力が、厳しさの仮面の下に静かに息づいているように見えたのだ。


 司祭の言葉が進む。辺境伯様と私は、簡潔な誓いの言葉を交わした。形式的な言葉。心は込めないはずの言葉。


 儀式が終わり、司祭から夫婦として認められた後、辺境伯様が、静かに私の方へ向き直った。そして、その厳格な雰囲気からは想像もできないほど、優しく、甘い声で、私に語りかけたのだ。


「よく来たな、エリーナ」


 ──エリーナ。私の名前を、たったそれだけ。その声には、深い安堵と、待ち焦がれていたかのような切実さ、そして、隠しきれない温かい熱が混じっているように聞こえた。


(え……?)


 困惑する。なぜ、そんな声で? 白い結婚の相手に、このような声色を使うだろうか?


 辺境伯様は、私の困惑に気づいた様子もなく、あるいは気づかないふりをして、私の手を取った。彼の大きな、少し硬く節ばった手が、私の小さな手を優しく包み込む。戦場を経験した者の手だろうか、無骨さはあるはずなのに、不思議なほど温かく、私の緊張を溶かすようだった。


「長旅、疲れただろう。さあ、部屋へ案内しよう」


 彼はそう言いながら、私の手を引いた。そのエスコートは丁寧で、まるで長年連れ添った夫が妻を気遣うかのようだった。そして、私の手を引くその力加減は、私という存在を慈しむような、丁寧さを含んでいるように感じられた。


(どうなって……いるの……?)


 噂話も、父との約束も、私の心の準備も、全てが無意味になったかのような、目の前の現実。辺境伯様の優しく甘い声、予想外の熱を宿した眼差し、そして、私の手を離さない温かい手。


 辺境伯様に手を引かれるまま、私はただ茫然と城の奥へと歩き出す。傍らで、辺境伯様が静かに、しかし明らかに私を気遣う様子で何かを話しているのが聞こえる。辺境の厳しい空気とは裏腹の、あまりに温かい、そして私の理解を超えた歓迎。


 私の「白い結婚」は、始まったばかりだというのに、最初の瞬間から、期待していた軌道から大きく外れ、見たこともない方向へと転がり始めているようだった。

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