1.白い結婚という契約
私の名前はエリーナ・アレクハイト。王都から遠く離れた、アレクハイト公爵家という古い血筋を持つ家庭に生まれた、三番目の娘である。
公爵家の娘としては、派手な美貌があるわけでもなく、突出した魔法の才能があるわけでもない。姉たちは皆、私より先に、家のために然るべき相手──血筋や地位において釣り合う、あるいはそれ以上の貴族の元へと嫁いでいった。
私は、姉たちの華やかな道筋からは外れた場所にいる、特に期待も問題も起こさない、扱いやすい存在だったと言えるだろう。
そんな、良くも悪くも「余り者」であった私に、ある日与えられた使命。それが、辺境伯家への輿入れだった。
辺境伯。その響きは、王国の最北、あるいは最東といった国境線で、常に魔物や異民族といった脅威に立ち向かう、力強く、そして常に死と隣り合わせの役割を担う者たちの総称だ。
私が嫁ぐアイゼン辺境伯家は、代々その過酷な任を背負ってきた、武門の筆頭とも言える名家。そして、その現当主であるゲオルグ・アイゼン辺境伯様は、齢四十に近く、二十歳を過ぎたばかりの私とは、優に一回り以上の年齢差があった。
辺境伯様に関する噂は、王都にも数多く届いていた。辺境の厳しい環境と常に接しているためか、無骨で寡黙。感情を表に出すことが一切なく、その翠色の瞳には、どれほど壮絶な戦いを経験しても、何一つ揺らぎが映ることはないという。
ただひたすらに、広大な領地とそこに暮らす民、そして王国の守りのために、自身の全てを捧げている。戦場では鬼と化し、敵対する者は容赦なく殲滅する冷酷さを持つ一方、自らの部下や領民に対しては厚い情を持つという話もあった。
だが、それはあくまで「身内に対して」であり、外の人間、特に王都の貴族とは積極的に関わろうとしないらしい。そして何より、女性には一切興味を示さない、という噂は、貴族の間で半ば定説となっていた。
(私が、辺境伯様の……妻になる……)
父である公爵がこの結婚を決めたのは、完全に政略のためだった。アイゼン辺境伯家が持つ、王国最強とも謳われる軍事力と、辺境の土地が持つ豊かな魔法資源との結びつきを、我がアレクハイト公爵家との盟約によって強固にしたい、と。
王国の貴族勢力図において、揺るぎない地位を築き、さらに影響力を拡大するための、これは重要な一手だったのだ。辺境伯家としても、王都で確固たる地位を築くアレクハイト公爵家との繋がりを持つことは、辺境の厳しい環境で生き抜く上で、政治的な後ろ盾として大きなメリットがあったのだろう。
そこで、この結婚において交わされたのが、「白い結婚」の約束だ。
辺境の守りは、常に人手と時間を必要とする。辺境伯様は多忙を極め、王都の貴族令嬢を妻として娶ったところで、共に過ごす時間などほとんど取れないだろう。
それに、辺境伯様は女性に興味がないという噂。無理に夫婦としての関係を持とうとしても、辺境伯様にご迷惑をおかけするだけだ。
アレクハイト公爵家としては、辺境伯様の職務の邪魔をせず、辺境伯夫人の地位に静かに納まってくれ、余計な波風を立てない娘が最適だった。
そして私自身もまた、そのような形だけの結婚であれば、心を深く傷つけられることもなく、ただ役割を果たすことだけに徹することができると考えたのだ。
情を求めなければ、失望することもない。愛を期待しなければ、裏切られることもない。
「辺境の地は厳しい。王都の暮らしとは何もかも違うだろう。アイゼン辺境伯殿は無骨な御仁だ。多くを期待してはならん。
お前に求められているのは、アイゼン辺境伯夫人として、辺境伯家の内を整えることと、社交において辺境伯家の顔となることだけだ」
父は私にそう言い含めた。その言葉の端々には、「夫婦としての情は求めるな」「子を成すことはこの結婚の目的ではない」という意図が明確に含まれていた。
期待するな、ではなく、期待しては「ならん」。
私にとって、これは最初から情を持つことを禁じられた、完全に契約のようなものなのだと理解した。
私もそれに同意した。それが、この結婚の条件であり、公爵家の娘として、そして何より、これ以上心をすり減らさないために、私自身が決めたことなのだから。
(白い結婚……辺境伯夫人の地位だけを得て、ただ静かに暮らす……)
私の胸にあったのは、未来に対する希望や喜びではなかった。それは、深い諦めにも似た静かな決意と、そして、これから始まるであろう、埋めようのない孤独に対する予感だった。
年の離れた、噂通りの無骨で冷たい人物と、ただ同じ屋根の下で、互いに干渉せず、感情を見せずに生きていく日々。
愛情も、温かさも、心の通い合いも、何も期待できない場所。それが、これから私の全てになる。
それでも、構わない。それが、私自身が決めた、あるいは、与えられた運命の中で選んだ、一番波風の立たない生き方なのだから。
*
王都を発ち、辺境伯領への旅は、想像以上に長く、そして過酷だった。
馬車に揺られ、日がな一日ただ景色を眺めるだけの退屈さと、徐々に文明の気配が薄れていく心細さ。整備された街道は中央部に限られ、馬車はしばしば未舗装の道を大きく揺れた。
豊かな森や、穏やかな田園風景は遠い過去のものとなり、風景は徐々に荒々しくなり、切り立った岩肌や、どこか不穏な空気を纏う森が目につくようになる。
人里もまばらになり、小さな宿場町に泊まるたび、王都の華やかさとはかけ離れた、辺境独特の厳しさと、そこに生きる人々の逞しさを肌で感じた。
王国の中央から離れていくにつれて、物理的な距離だけでなく、文化や人々の気質、そして辺境伯様の領地へと近づいているという緊張感が、私の心をじわじわと締め付けていくのを感じた。
私の新しい住まいとなるアイゼン辺境伯家の居城は、領の中でも特に奥まった、王国の防衛線における最重要拠点、要衝の地に築かれていると聞く。
難攻不落の堅牢な城であり、辺境伯様の力の象徴だと。実際にどれほどの規模なのか、どのような場所なのか、具体的な情報は王都にはほとんど届いていなかった。知っているのは、ただ鉄壁であるということだけだ。
(辺境の地に、私のこれからの生活がある……白い結婚という名の、ただの契約生活が……)
心の準備はできている……はずだ。期待も、希望もない。だから、これ以上傷つくこともないはずだ。
私は辺境伯夫人の役割を粛々と果たし、誰にも迷惑をかけず、ただ静かに生きていくだけだ。
孤独だろうと、構わない。それが、私がアレクハイト公爵家の娘として、そして私自身のために、この結婚で選んだ道なのだから。