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5 霧崎' (2)

 叔父は大柄な男だった。土木系の中小企業の社長をやっていて、家に来るたびにリョウには、子供の小遣いとしては少し多いくらいの金を、面倒くさそうにひょいと渡してきた。母の歳の離れた兄で、母のことは大事に思っているが、父のことはあまりよく思っていないようだった。母がいない父の前では露骨に機嫌が悪くなって煙草を吸った。その態度は、相手がリョウの時も同じだった。不用意になついた素振りを見せると、殴られたことすらあった。幼少期から今まで、リョウはこの叔父が家に来た時はできるだけ母と離れないようにし、にこにこと笑顔を作って、余計なことを言わないように心がけていた。

「リョウは18になったんだっけか?」

「いいえ、兄さん、リョウはまだ16です。高校一年生ですよ」

「そうか。高校を出たら働くのか?」

「いえ、大学に行かせます。リョウは成績もいいですから」

 叔父はリョウを品定めするかのように見た。リョウはスポーツもやっていたが、父親譲りで筋肉が付きづらい体質なせいか、背はそこそこ高かったが、線が細く華奢だった。父は叔父が家に来る日は決まって近くのホテルに泊まった。

「俺の金でな」

 ふん、と叔父は鼻を鳴らし、嫌味っぽく言った。

「ありがとうございます」

 リョウは殊勝に頭を下げた。インターホンが鳴り、母は席を外した。ダイニングで気まずい沈黙が流れる。テーブルに置いてあったリョウのスマホに、交際相手であるカレンからの着信があった。

「お前、彼女がいるのか」

 答えたくなくて、リョウはあとでメッセージを送ろうと思いながら黙って着信を切った。

「セックスするときはちゃんとゴムするんだぞ。そうじゃないとお前みたいな望まれない子ができる」

「望まれない?」

 かっと頭に血が上るのを感じながら、努めて冷静にリョウは聞き返した。

「そうだ。お前の母さんはお前の父さんに無理やり孕まされた。結婚しなくちゃならなくなったのもそのせいだ。俺は半分あのクズ男でできているお前が大嫌いだ。いつか同じことをしでかすに違いない」

「お母さんはお父さんをちゃんと愛しています。俺のことも」

「さあどうだか」

 その時、頭の中に声が聞こえた。

『やれ。やっちまえ』

 またこの声だ、とリョウは思った。こめかみを押さえる。視界が白に埋め尽くされる。数年前から頭の中で誰かの声がしていた。耳の病気か、はたまたストレスか何かからくる精神異常かもしれないと病院で検査をしたが異常はなかった。

『これは夢なんだ。夢なんだから何してもいいはずだろ』

 声はさらにリョウを煽った。声はいつも、リョウがいら立った時や怒っている時に現れた。怒りを暴力的に焚きつけてくる悪魔が、頭の中に住み着いたかのようだった。この声に煽られると、邪悪な妄想が頭を駆け巡った。例えばこの叔父の大きな腹にナイフを刺してみたらどうなるだろう。ずぶりと鶏むね肉に包丁を入れた時のような感覚がするのだろうか。まな板の上で、食材と同じように叔父の体を切り刻んだら、叔父をいけ好かない人格を持った一個人ではなく、もっと抽象的な何か、いわゆる芸術のようなものに昇華できるのではないか?それを眺めたらきっと、高尚な美術品を眺めるような陶酔した気持ちが訪れるに違いない……。

「うるさい」

 理性をかき集め、声に抗うようにつぶやくと、世界が元通りになった。目の前には、顔を真っ赤にした叔父がいた。

「お前、今何て言った?」

 頬を殴り飛ばされて、リョウは床に転がった。口の中に鉄の味が広がる。物音を聞きつけて母が玄関先から駆けつけてくる。

「兄さん!やめてください!」

「こいつ、出資者である俺に対して舐めた口をききやがった!」

 母が間に入って必死に止める。

「ごめんなさい」

 義務的な言葉を発する。この呪文にあまり効果が無いことは、長年の経験でわかってはいたものの、今のところこれ以外に叔父の怒りが過ぎ去るのをやり過ごすための、間をつなぐセリフを知らなかった。

「出ていけ!出ていけ、汚らわしいクソガキが!」

 リョウはテーブルのスマホを掴むと、振り返らずに家を飛び出した。


 家を飛び出してからも、声はまだ聞こえていた。今までに経験したことのないほどしっかりと長時間、リョウに訴えかけるような声が聞こえていた。

『なあ、さっきはなぜ殴らなかった?お前の金の面倒を見てくれてはいるが、それを差し引いたって叔父は殴られてしかるべきだ。だいたい、お前のお父さんもお母さんも働いているんだし、叔父の援助なんて本当は受けなくてもいいはずだろ?あいつは何か理由を付けて妹の家族に介入したいだけなんだ。支配欲だけのゴミくずだよ。ゴミくずに一方的に殴られたままなのか?そんなの不平等だ。あいつさえ消えればお前は幸せに生きられるんだ。幸せになる方法なんて、ずっと前からわかってるだろう?』

「うるさい、うるさい、うるさい!」

 頭を大きく降り、ブロック塀を拳を殴る。関節から血が出る。

『これは現実じゃないんだ。お前の生き方を見るとむしゃくしゃする。お前は本来の霧崎リョウじゃない。早く目を覚ましてくれよ』

 すぐ後ろから声をかけられたかのように感じて、リョウは振り返った。視界が白くなり、目の前には自分と同じ背格好で、自分と同じ顔の青年が立っていた。全身にぞくりと鳥肌が立つ。

 スマホの着信音で我に返る。カレンからの着信だった。

「もしもし、カレン?どうかした?」

「あ、リョウ?今日、うちに来る約束だったけど遅いから心配になっちゃって。今日見る映画借りといたよ」

 カレンの声に心が安らいでいく。

「ごめん、今日は叔父さんが家に来てて。前にも言っただろ、ちょっと厄介な人なんだよ。今さっき家を出たところだから、すぐ行くよ。映画借りてくれてありがとう」

「そう。でもリョウ、なんか声が震えてるけど大丈夫?何かあった?」

「ううん、平気さ。それじゃ、家で待ってて」

 リョウは電話を切ると、切れた口の端と拳の傷をハンカチで丁寧に拭い、身なりを簡単に整えた。

 リョウは町のはずれの児童養護施設の裏口にたどり着いた。フェンスの破れたところが一か所あり、そこから敷地内に侵入する。孤児たちが寝泊まりする棟を超えると、院長とその家族が暮らす小ぢんまりとした家が姿を現した。スマホでメッセージを送ると、パジャマ姿のカレンが玄関を開けて部屋に招き入れた。

「リョウ、怪我してるじゃない。どうしたの?」

 カレンはすぐにリョウの傷に気が付いて、消毒液と絆創膏で手当てをした。

「大したことない。ただ、叔父さんと少し揉めて。でも心配しないで。大丈夫だから映画を見よう」

 リョウはカレンと寄り添いあって映画を見る時間が本当に幸せだった。その時間を叔父につけられた傷や、自分の頭の中の不気味な声のせいで、一時たりとも邪魔されたくなかった。カレンはまだ不安げな顔をしていたが、パソコン上で映画配信アプリを起動した。

 古いSF映画だった。ディストピアでカプセルに入った人間が、首筋につけられた電極によりバーチャルな夢世界を冒険する。その映画を見ている間にも、声の言っていた言葉が脳裏をちらついた。夢の中の人間はそれが夢だと気づくことができない。

 気付くとエンドロールが流れていた。

「なかなか面白かったね。アクションが最高だった」

 カレンはパソコンを片付け、リョウに体を預けるようにもたれかかってきた。それは、いつもの行為開始の合図だった。その唇にキスしたくなるのを抑えて、リョウはカレンの体を押し戻した。

「ごめん今日ゴムないから」

 スマホだけ掴んで飛び出してきたので、文字通り身一つだった。

「ちょっとくらい平気だよ」

「ダメだ。それならコンビニで買ってくる」

 リョウは断固とした態度で断った。

「じゃあ私も行く」

 カレンはためらいもせずそこでいい匂いのするパジャマを脱いで、私服に着替えた。

「あ、でも財布も家に置いてきたから……」

 カレンはそれを遮るように立ち上がると、リョウの手を掴んで立ち上がらせた。二人はカレンの家族を起こさないように忍び足で家を出て、夜道を歩いた。一番近いコンビニは川の橋を渡ったところにあったので、川沿いの道を歩いた。街灯もなく、昼間は慣れ親しんだ道なのに、夜はまるで違う道のようにおどろおどろしい雰囲気が漂っていた。時折土手の草むらから虫の声や、虫が飛びはねて草が揺れる音がして、そのたびに二人はびくりと体を震わせた。カレンがそのたびに照れくさそうに微笑みかけて、体を寄せてくれるので、リョウは虫に感謝していた。

 その時だった。一瞬の事だった。後方から急にまばゆいヘッドライトが二人を照らした。体が硬直した一瞬の後、トラックが猛スピードで走ってきていることがわかった。

「あ」

 カレンがリョウの腕を思い切り引っ張り、リョウは土手側にバランスを崩す。その変わりに、カレンの体は道路に大きくはみ出した。きょとんとしたようなカレンの顔がスローモーションで遠ざかっていく。直後、カレンの姿は真横にぶれ、リョウの顔には生温かいしぶきがかかった。鉄の臭いがした。

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