4 霧崎’ (1)
「リョウ、ごめんなさいして」
母親の後ろに隠れた少年は、頬を膨らませたままそっぽを向いている。
「大丈夫ですよ、うちの子も悪かったし、コウタももう痛くないって」
「いえ、でも……。ほら、リョウ、お母さんと一緒に謝ろう?」
やがてリョウはしぶしぶ母の後ろから出てきて、涙の跡が残るほっぺたに絆創膏が貼られている少年、コウタの前に進み出た。
「ごめんね」
全然謝る気はないけど、とりあえずといった態度で、ぶっきらぼうに形式ばった言葉を言って、右手を差し出す。
「いいよ」
全然許すつもりはないけど、とりあえずといった態度で、こちらもぶっきらぼうに言って、右手を掴んだ。
「仲直りできたね!」
二人の母親はなんとかことが収まったことに安堵し、息子を褒めた。
「リョウ、来年は一年生になるんだから、手を出す前に言葉で話し合うようにしないとね」
帰り道の車の中で母は言った。
「だってコウタがいけないんだよ。ミサキちゃんをいじめていたんだ。人をいじめるようなやつは、ぶたれて当然でしょ?」
「ミサキちゃんを守ろうとしたのは立派だよ。でも、人をぶつのは痛いからやめて。コウタくんだけじゃなくて、お母さんの心も痛いの」
「お母さんの心が?どうして?」
「想像してしまうの。リョウが人をぶったら、リョウのことをみんなが怖がるでしょう。ミサキちゃんは無事かもしれないけど、リョウはいつか周りから友達がいなくなって一人になってしまう。ひとりぼっちは寂しいでしょ?」
「寂しくないよ。俺は一人でだって生きていけるもん」
「本当?でもね、ひとりって寂しいものなのよ」
リョウは車窓を眺め、ひとりぼっちになることを想像してみようとした。幼稚園でひとりも自分と遊んでくれる人がいなくて、先生にも相手にされない。あ、お母さんもお父さんもいない。急に胸がつまるような気がしてリョウは泣きだしそうになった。
「お母さん、お母さんはいなくならないよね?俺、もう人をぶたないし、いい子になるから」
母は優しく笑った。
「いなくならないよ。お母さんはずっとリョウのそばにいるから」
家に着くと、父が夕食を作って待っていた。夕食を三人で囲む。
「明日からの連休は家族みんなでキャンプに行こう。リョウももうすぐ一年生だし、キャンプの七つ道具を買ってやろう」
「本当?やったぁ!」
次の日、朝早くに車にキャンプ用品を詰め込み、山際のキャンプ場へ向けて出発した。川の源流である沢には綺麗な水場があり、釣りや川遊びが楽しめる。少し天気が悪い予報だったが、標高の高いところなら晴れているとの見込みだった。
キャンプはおおむね予定通り進んだ。テントを立て、バーベキューをしたところまではよかったが、急激に天気が崩れ、激しい雨と雷に、一家はテントを畳み、車に退散した。
「少し雨宿りしてたらすぐ止むよね。今日は焚火と花火があるんだから」
リョウはこの後の予定がなくなってしまわないかと焦って、わざと無邪気に言った。
「いや、天気予報のアプリでは深夜まで止まない予報だ。川も水嵩が増えてこのままだと危険だろう。今日はもう家に帰ろう」
リョウは食い下がろうとしたが、ごうごうと車の天井に雨が打ち付ける音を聞いていると、言い出せず、唇を噛んだ。自然という大きなものの前で、自分はあまりに無力だった。母は優しくリョウの頭を撫で、またキャンプに来ることを約束した。車は山を下り、川沿いの道を通って家へと向かった。
普段ならまだ日の沈まない時間帯だが、あたりはすっかり暗く、リョウはただ窓ガラスの向こう側で斜めに流れ落ちていく雨の流れを眺めていた。
ふいに、車体が大きく揺れて、リョウの額は窓にぶつかった。あたりが一瞬真っ白になった気がした。悲鳴と、何か大きなものがぶつかり合ってぐしゃりとつぶれるような不快な音が、耳の奥でした。続いて映像が頭の中に浮かんだ。血が滴り落ちる細くて白い母の千切れた手、上半身がまるごとつぶれて赤い染みになった父。ぞっとするような鉄と雨の臭い。
しかしそれはすぐに元通りになった。何も変わらない車内。
「ふう、危なかった。向かいからの車が大きくはみ出してくるなんて」
「怖かったわ、気を付けて」
両親はさっきと同じように車に乗っていた。リョウは家に着くまで鳥肌の立った腕を何度もさすり続けた。
「リョウ、今日は叔父さんが来るんだから早く帰ってくるのよ」
「はあい、わかってるって」
リョウはランドセルを放り出すと子供用スマホを首から下げて家を飛び出した。近くの河川敷まで走る。今日はみんなでケイドロをして遊ぶ約束をしていた。リョウが到着すると、すでに同じ小学校で、近所に住む小学生が10人ほど集まっていた。一番年下の子が1年生で、リョウと同じ4年生が一番年上だった。
「最初の警察はリョウとユウキな。一年生だけはタイム使ってよし。タイムされたら10秒動いちゃダメだぜ」
コウタが上手くみんなを仕切って、ゲームが始まる。コウタにはカリスマ的リーダーシップがあり、いつもみんなの輪の中心にいた。怒りやすかったり少し乱暴なところがあり、気に入らないことがあると自分の頬の傷を見せびらかしてマウントを取るようなところもあったが、基本的に憎めないやつだった。何人か泥棒が捕まってからは、リョウは牢屋とした木の棒で書いた円の前で、タッチしにきた泥棒を捕まえるために待っている役に徹した。
「あーあ、捕まっちゃった」
華奢で、白いワンピースを着た少女が牢屋に入って来た。
「捕まっちゃうとヒマだよね」
リョウは言った。リョウはひそかにこの少女、カレンのことが気になっていた。カレンと二人きりで話せるタイミングが来て、心の中ではガッツポーズをしていた。カレンは牢屋の中にしゃがみこんだ。
「そうだね。リョウ君、おしゃべりしようよ」
「いいよ」
カレンからの願ってもない提案に、二つ返事をした。
「じゃあさ、リョウ君って、好きな人いるの?」
急に言われてリョウはどぎまぎした。女子では最近、この手の話が流行っているのだった。何と答えればいいか思案していると、カレンが続けた。
「いないの?じゃあ、好きな子のタイプは?」
これにも何と答えればよいかわからず、ただもごもごと口ごもっていることしかできなかった。
「カ、カレンの好きなタイプってどんなやつなんだよ?」
「私?私はね、頭いい人がタイプ。静かで勉強できそうな人」
「え、ハルトとか?」
リョウはクラスの中でいつも静かに本を読んでいる少年のことを思い浮かべた。
「違うよ。ただ、そういう人がいいってだけ。なんか優しそうじゃん?」
カレンは頬を赤らめて反論した。それをタイプだというのではなかろうか。何と言おうか迷っていると、川のそばで誰かが呼んでいるのが聞こえた。一年生の少女が何か見つけたようだった。
ケイドロは一時放り出して全員が少女のもとに行ってみると、カマキリが交尾しているところだった。二匹の生き物が合体しているところは、珍しく、全員が囲んでそれを見ていた。やがて、メスのカマキリがオスのカマキリの頭を食べ始めた。最初にそれを見つけた一年生の女の子は初めて見る残酷な現象に悲鳴を上げ、涙目で後ずさった。
リョウはとっさに二匹のカマキリを引きはがそうとした。しかし、メスの鎌はオスの首をしっかりとらえていたため、オスの首はあえなく千切れた。オスの首を放すようにと手に持ったメスを振ったら、メスも死に、くたりと動かなくなった。自分の手の中で生命の火が消えていく感覚をリョウは初めて味わった。ぞくりと、何か今までには感じたことのない奇妙な感じが一瞬体を突き抜けた。
「わ、死んじゃった」
取り巻く小学生たちは、石を投げたら川に沈んでしまったのを見た時と同じくらいのテンションで、すぐにカマキリに興味を無くし、離れていった。
「なんかもうケイドロ飽きたし、鬼ごっこしようぜ」
コウタがそう言って、みんながコウタの周りに集まった時、リョウの首から下げていたスマホのアラームが鳴った。
「あ、俺もう帰らないと。ばいばい!」
リョウはみんなに手を振って河川敷から出た。帰り道、リョウは先ほど味わったばかりの奇妙な感覚について考えていた。ふと、リョウは家までの帰り道の、ある民家の塀を蟻が列を作って歩いているのを発見した。きょろきょろとあたりを見渡し、誰もいないことを確認すると、リョウはそっと親指を蟻の列に近づけた。ぐっと力を込めて押しつぶす。指の下で蟻がつぶれて、こすりつけるように動かすと、それは黒く伸びた。
『目を覚ませ』
急に声がしてリョウは飛び上がった。周囲を確認したが、誰もいない。確かに背後から声をかけられたように思ったが、誰の声でもなかった。
きっと蟻をつぶしたからだ。リョウは急に怖くなって、ズボンに手をこすりつけて親指を拭くと、走って家まで戻った。