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3 事故

 遠慮がちにドアがノックされる。「どうぞ」と鯨田は返事し、持っていたマグカップのコーヒーをぐいと飲み干した。テレビを消す。

「こんばんは。鯨田博士、初めまして。築山と申します」

 部屋に入って来た青年は、リュックサックを体の前に抱きしめるように抱え、地味なシャツにチノパン、くたびれたスニーカーといういで立ちの、地味な男だった。築山は、おびただしい書類やファイルが積み重ねられ、複雑なコンピュータがちかちか光りながらうなりを上げている、鯨田の研究室を緊張した面持ちで見まわした。目だけをきょろきょろと落ち着きなく動かしている。

「こちらへ。それと、私のことは鯨田で構わない」

 鯨田は自分の横にあった椅子から、その上に積み重ねてあったファイルを退かし、築山に座るように促した。

「コーヒーを淹れても?」

「あ、ありがとうございます」

 鯨田は空になった自分のマグカップに新しいコーヒーを淹れた。

「さて、一介の脳科学研究者に、いったい何の話があるのかな」

 鯨田はコーヒーを一口すすると口を開いた。コーヒーを出してもらえると一瞬期待してすぐに裏切られた築山は、自分の唾で喉を湿らすと、ちらりとテレビに目をやってから話し出した。

「鯨田さんは今朝のニュースを見ましたか?死刑囚の移送中に移送車が事故に遭ったというニュースです」

「ああ、見たよ。連続殺人犯の霧崎死刑囚が事故で重体とのことだね。私はその裁判に顔を出した」

 移送車の事故は世間を大いに騒がせ、テレビでは常にその話題で持ちきりだった。大量の生命維持装置につながれた痛々しい姿の霧崎の写真が大きく取り上げられていた。このまま霧崎が死ねば死刑と同じだから、病院での救命措置は即刻中止した方がいいという意見、命をつなぎ、重症の地獄の苦しみを少しでも長く味わわせることが、被害者のためになるという意見、法的に死刑が決まったのだから、病院や道路上ではなく、法に見守られる場所、つまりちゃんとした処刑場で彼を殺すことが重要だという意見など、世論が割れていた。

「鯨田さんは、霧崎をどうするのがいいと思いますか?」

 鯨田は顎を指でなぞる。

「今、私たち国民は、彼の命をどうともすることができるという状況だ。法的な拘束に加えて、今や物理的にも自由な体を失って、もう抵抗できない彼の命を生かすも殺すも、実験台のモルモットにするみたいに、私たちの判断一つでできるわけだ。裁判では彼の倫理観が問われたけど、今は私たちの倫理観が問われている。今答えを出すのは難しいね」

「倫理について、僕には一つ考えがあるんです」

「私は倫理学や哲学が専門ではないんだが、それでも良ければ意見を聞かせてもらおう」

 築山はリュックの中から月刊の科学雑誌を取り出した。そこには伊尾という脳科学の研究者のインタビューが載せられていた。

「鯨田さんの研究所のトップ、伊尾さんは、たくさんの電極によって脳を操る技術について実現させていますよね。これって、脳の働きをデジタルな0と1にすっかり変換して、記録や参照できるってことですよね」

「そうだ。ここ、伊尾脳科学研究所ではそれができる。つまり君は、霧崎の頭の中がどうなっているのか知りたいということかな」

「そうだけど、少し違います。僕は裁判で傍聴席にいました。裁判中に鯨田さんがおっしゃっていた、脳をコピーして、彼自身の生体脳とコピーの電子脳、二つの脳を並べてシュミレーションするっていうのが、今ならできるんじゃないかと思うんです。ある意味これは死刑執行までの時間ができたってことです。このチャンスを逃すわけにはいきません。彼の残虐性が生まれつきの脳の構造のせいなのか?それとも生まれた環境によって捻じ曲げられたものだったのか?それがわかれば、今後の犯罪防止にもつながるでしょう」

 鯨田は、築山がいつかのニュースでインタビューされていた、霧崎と同じ児童養護施設出身者であることに気づいた。裁判に出るにあたって、事件に関することは一通り頭に入れさせられていた。

「君は霧崎と友人関係だったよね。今後の犯罪防止、と君は言ったけど、今回の事件に関してはこのシュミレーションはあまり力を持たない。実験の結果、彼の残虐な性質が周囲からの問題だったと証明できたとしても、彼がやったことは20人もの人の人生の破壊だ。到底許されるものではないから、死刑は覆らないだろう。それでもやるのかい?」

「僕は霧崎の優しい面も知っています。20人を殺した罪は償わないといけないけど、全部が全部彼のせいだったなんて思えないんです。彼だっていい人になれたんだってことを、確かめたい。これから先、ナイフを取ろうとする少年に、そうさせないために周りのサポートは意味があるんだと証明することで、彼の生き様はきっと意味があるものになる。そう思うんです」

「……いいだろう。私としても脳のコピーという実験には非常に興味があった。しかし、頭蓋骨を開けて電極を差し込むという、実験に危険が伴う新技術なだけあって、うまい被検体が見つからなかったんだ。死刑が確定している犯罪者ほど適任はいない。この実験は犯罪学の分野のみならず、脳科学の分野にも大きく役立つものになるだろう」

 鯨田はデスクの上のファイルの山から白い紙とペンを引っ張り出した。

「まず、病院にいる彼の脳みそがどれだけ無事に残っているかが重要だ。破損していたら実験はそもそもできない。とりあえず今は、脳みそが綺麗に残っているという前提を置いて計画していこう。まずは生体脳をスキャンして、そのデータをコピーして電子脳を作る。その際に、電子脳からは彼の犯罪に関する記憶はすっかり消しておく必要がある。どこまでの記憶からやり直せば彼はいい人になれただろうか?彼の性格が環境によって捻じ曲がったという仮説の検証なんだから、捻じ曲がる原因と考えられるイベントの直前までリセットするのがいいだろう」

「じゃあおそらく、叔父に引き取られるときですかね。12歳の時でした」

「彼は7歳で両親を失い、それから12歳までは君と同じ児童養護施設にいたんだよね。施設にいるときの彼はどうだった?」

「それ以前の彼を知らないので何とも言えませんが、最初は施設の子になじんでいませんでした。よく考えれば、いつも死の雰囲気といいますか、どんよりとした絶望感のようなオーラをまとっていたように思います。やっぱり、リセットは7歳の時の事故の前にしましょう。あの事故さえなければ彼の人格は変わらなかったと思います」

「虐待や家庭環境といった防げたかもしれない人災じゃなく、事故という事実をなかったことにしてしまうのか。もしそれで仮説が成立したら、事故に遭った子供はみんな犯罪者に成長するというような結論に至ってしまわないか?今ひとりぼっちで暮らしている孤児に非難の目が向くかもしれない」

「そうはなりませんよ。交通事故だって偶然じゃない。安全標識がいくつかあれば防げたかもしれない人災です。事故に遭わず、平和に暮らしていたなら彼はまともに育ったかもしれない。それさえ証明できればいいんです。仮説の成立への考察は、事故撤廃への取り組み、両親を失った子供のケアの重要性に向くでしょう」

「なるほど。では電子脳は両親がいる設定の7歳の彼のところからシュミレーションをスタートすることにする。それと、彼が事件を川沿いの道路にしたもう一つの要因、彼が16歳の時に起きた、施設で出会った少女の交通事故死もなかったことにしよう。彼には川沿いの道での事故になんら関係のない人生を仮想空間にて送らせる。一方、生体脳の方だが、こちらも仮想空間に彼の記憶を再現することで覗き見て、どのような人生を送って来たのか分析するにとどめよう」

「仮想空間に僕たちが入り込んで彼と会話することはできますか?」

「こちらの世界と同じ時間が流れている場合の、生体脳の方で彼と会話することはできるが、それ以外で彼と話すのはやめておいた方がいいだろう。シュミレーションにノイズが混じる。もっとも、生体脳の現在時刻を生きる彼は、死刑宣告を受けた記憶があるのだから、落ち着いた精神状態できちんとした話ができる可能性は低いね。裁判での記憶を全て雲で覆い隠すようにロックしてから会話に臨むのがいいかもしれない」

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