1 新技術
「それでは伊尾先生、新技術について詳しく教えていただけますか」
「はい。このヘッドギアをご覧ください。脳に直接、細かくて大量の電極をつないで電気刺激を与える器具です」
伊尾はインタビュアーとの間に置かれた、物々しい機械を指示した。記者のカメラはそれをアップにした。
「電極を直接?」
「そうです。およそ1億個の電極をつなぎます。一般的な脳で、電気信号を出して情報をやり取りしあう神経細胞、ニューロンは100億個あるので、その全てに接続できているわけじゃありませんが、脳の要所要所に働きかけることができれば十分です」
「それでも1億個は途方もない数に思えます」
「つなぐときは接続用に開発された別のマシンを利用しますから、僕ら研究者がピンセットで一本一本ここにはこれを、あっちにはそれを、みたいに刺していくわけじゃないですよ」
二人は少し笑う。伊尾はリラックスした様子で一人掛けソファーの背もたれに体を預けた。
「では、このヘッドギアで脳に電気刺激を送ることで、どんなことができるのか教えてください」
「あなたはヴォルケミア症候群についてご存じですか?だんだん記憶を思い出せなくなっていき、やがて歩き方や呼吸の仕方も忘れていく難病です。世界で0.001%の人しか確認されていないので有名な病気ではありません。高齢者がなる認知症に最初は症状が似ていますが、若い人がなる傾向が強い。記憶がもし、人生の場面ごとにまとめられた本の集まりみたいなものだと仮定したら、その本が本棚から脈絡もなく消えてしまうような症状です。記憶という本棚がところどころ歯抜けみたいに無くなっていって、最初は忘れたことすら思い出せないので気付かないのですが、致命的な本、たとえば、歩き方をまとめていた本がふと消えた瞬間、もうその患者は立てなくなるんです」
「伊尾先生は長らくその病気について研究していますよね」
「はい。いろいろなアプローチで研究した結果、この病気は、本がふっと消えているのではなく、その本の前に厚い雲のようなものが覆ってしまって、本棚から取り出すことができなくなっていただけだということがわかりました。この雲は一度生まれてしまうと取り除くことが非常に難しい。でも、本自体が消えたわけじゃない。引っ張り出せないだけで記憶は存在し、適切な刺激を与えれば脳はまた活発に動くことができるのです」
「ヴォルケミア症候群の人にとってはとてつもない朗報ですね。しかし先生、あんなに大きくて重そうなギアを着けていたら、歩く方法を思い出せたとしても、実際立ちあがってバランスよく手足を動かせるでしょうか?」
「よい質問です。正直、私の今の技術力では、患者は、集中治療室よりも大量の機械につながれて目を覚ますことしかできません。そこで私は仮想空間を使うことにしました」
「バーチャルな世界ってことですか?VRとかメタバースとかで、アバターとなって電脳空間で交流するみたいな」
「それです。患者は仮想空間で自由に手足を動かし、深呼吸をし、やりたかったこと全てを叶えることができるのです。仮想空間はこの世界とほぼ同じに設計されていますし、別の人がログインすれば、仮想空間上ではありますが、かつてのように話をすることもできるでしょう」
「実際は大量の機械につながれたままなのに、さまざまな体験ができるなんて、まるで夢を見ているようですね」
「夢と仕組みは同じですよ。ただ、それが自分の脳で発生した電気信号によるものか、機械によって発生した電気信号なのかという違いだけです。何か物を見て、それを物だと感じることも、音というものを感じることも、指の感触も、すべて脳の信号なんだから。全部0と1に翻訳できます。僕らがいるこのインタビュールームも、実は夢の中かもしれません」
「とても夢とは思えませんけどね」
「そうでしょう。夢の中にいる人はそれが夢と気付くことはできません。だから僕たちは今感じているものを純粋に現実として生きています。同様に、仮想空間のみで生きていくヴォルケミアの患者にとっては、仮想空間こそが夢ではない現実なのです」
「患者にとっては現実でも、研究者の方はその人の現実を外から観測できるわけですよね。場合によっては操作したりとか。患者が純粋に現実だと信じている空間にですよ。それって、何か倫理的な問題はないのでしょうか」
「僕の作る仮想空間は、AIによるシュミレーションですべての出来事が起こります。妥当だと思える範囲で、確率で動くように設定されています。例えば、その人の人生で一度も鳥に糞を落とされないように、僕らが無理やり設定することも技術的には可能ですが、そういうことはしません。その人の上には鳥の糞が落ちてくることもあるし、落ちてこないかもしれない。僕らの世界と全く同じです。それと、研究やメンテナンスの観点で観測は確かにしますが、将来的には基本的に同じ仮想空間にログインした時の接触のみを可能にしたいと考えています。これも僕らの世界と同じですね」