第六話 牙を剥く蛇
「っ!?」
俺を見つけて微笑む紫乃の顔は、まるで待ち合わせに来た恋人を見るかのような笑顔だった。
「起きたら答也さんがいなかったので何処に行ったのかなって探してたんですけど……こんな所にいたんですね」
世間話かと思う程、紫乃の声色は軽かった。
「あっ、今日は月が綺麗ですね――ってそういう意味じゃないですよ! まぁ……そういう意味で捉えてくれても大丈夫ですけど……」
何かよく分からない事を一人でごにょごにょと言いながらはしゃいでいる。
こいつの中で俺たちの関係はどういうものになっているのだろう。まるで閉じ込められている被害者と加害者には見えない。
「っ――!」
付き合ってられるか、と俺はもう一度振り返ってガラス障子に手をかける。
(靴はもう無理だ! 無くても多分なんとかなる!)
しかし――。
ガタッ、ガタガタッ――!
ガラス障子は開かない。
「なっ!?」
よく見ると玄関の引き戸に付いているものと同じような後付けの鍵が戸をロックしていた。
差し込む月明かりしか光が無かったので気が付かなかった。
「どうしたんですか? そんなに慌てて……?」
紫乃が戸惑いの表情を浮かべて聞いてくる。
「どうしたって……帰るんだよ!」
何を言ってるんだと、つい荒い口調で返してしまう。
「え……?」
鳩が豆鉄砲を喰らったような顔で俺を見る紫乃。
どうやら本気で俺が一緒に暮らすと思っていたようだ。
「こんな所に住む訳ないだろ! 俺は帰るからな!」
強い口調で己の意思を告げる。
「だって……エッチの時、私と一緒に暮らすって……」
「はぁ!? 言ってねえよ!」
実際は記憶が曖昧で情事の時のことは覚えてないのだが。
「っ……」
俺の言葉を聞いて紫乃の目から光が消える。
「……」
そして、ふいっと身を翻すとそのまま何も言わずにダイニングの中に入って行った。
「なんだ……?」
ダイニングのその向こう、キッチンからカチャカチャと音が聞こえる。
今のうちにガラスを割って逃げるべきか、等と考えていると一分もかからずに紫乃が戻ってきた。
「?」
表情はさっきと変わらず無表情のまま。
しかしその手にはさっきまでは持っていなかった布、ハンカチ?を持っている。
「な、なんだ? どうした?」
無表情でこちらへ迫ってくる紫乃に只ならない何かを感じながら後退りをする。
「恋人、だって……」
紫乃がポツリと呟いて距離を詰めてくる。
「えぇ……」
俺はセックスの最中にいったい何を言ったんだ……まさか『愛してるよ、ハニー』とでも言ったのか?
「俺が何を言ったかは覚えてないが……何を言ってたとしてもそれは毒のせいで……」
ずり……ずり……。
「そもそも……お前も知ってる通り、俺は亜人が苦手で……」
相手を刺激しないように……は出来てるか分からないが、何とかこの場を凌ごうと言い訳をする。
「そうですか……じゃあまた思い出させてあげます」
俺は気付けば廊下のちょうど真ん中くらいまで退がっており、目の前の紫乃との距離も手が届くほどになっていた。
「っ――!」
とりあえず逃げなければ、と思って後方に向かって走り出す――が。
ぐいっ――。
「うぉっ!?」
振り返ったところで腕を掴まれて思わず転びそうになる。
ぎゅっ――。
そしてそのまま俺の背中に紫乃が抱き着いてくる。
「はぁ……っ」
耳に熱い吐息がかかり、背中にはぎゅうっと押しつぶされた胸が紫乃の体温を俺に伝える。
「もう一度すれば……思い出しますか?」
艶かしい紫乃の囁き声が耳から脳に入ってくる。
「い、いや……それは――んんっ!?」
拒絶の言葉を言おうとしたところで口元に湿った布を押し付けられた。
「んんっ!? んーっ!」
何か分からないがまずいと思いジタバタと抵抗するが紫乃の拘束はまるで解ける気配がない。
(こいつッ……めちゃくちゃ力が強い!)
さっき頭の中で、『捕まっても女相手だから大丈夫か』なんて一瞬でも考えていたのがどれほど甘かったのかを思い知った。
(亜人ってこんなに力が強いのか!?)
そんなことを今更後悔したところで意味など無く、俺の体にも異変が起きる。
「んっ!?」
頭がぼーっとして、心臓がバクバクと激しく暴れ出す。
そして、その心臓から送られた血液が下半身に集まり……。
(これ……あの毒か!?)
鼻から入った甘い香りは俺の理性を溶かして抵抗する意思をドンドンと痺れさせていく。
「んっ……!」
抵抗するどころか、逆に俺がこの女を抑えつけて押し倒してやりたいという感情がムクムクと膨らんでいく。
「良い香りだと思いませんか、これ……直接嗅いでないのに私も少しクラクラしちゃいます」
たっぷり数十秒、布に染み込ませた液体を嗅がせた紫乃はゆっくりと俺を解放した。
「っ……!」
そして俺は当然――。
バッ――!
「きゃっ!」
ギシっという音を鳴らして、月の光だけが明かりとなっている薄暗い廊下に紫乃を押し倒した。
「……ッ!」
今の俺はさぞ血走った眼をしている事だろう。
「ふふっ……ここからどうするんですか?」
白々しく分かり切ったことを聞いてくる目の前の女――。
「このっ……!」
今日初めて会った女、俺が苦手な亜人の女と――。
「っ……来てください……♡」
静寂に包まれた月明かりの中、頭の中に散らばっていた考えは……理性と共に夜の中に溶けていった。