第三話 甘い香り
「ふぅ~っ」
風呂上りで湯気を体から立ち上らせながら俺は息を吐いた。
『まずはお風呂に入ってください。その間に温かいお茶を淹れるので』
屋敷に招かれて早々、そう言われた俺は風呂に入ることになった。そんな台詞を俺に言いながら、外に出て汚れた蛇体を拭く紫乃の姿からは目を逸らしてしまったが……。
本当は先に色々と聞きたいことはあったが、家主にそう言われては入らざるを得ない。泥だらけの格好で家の中をうろうろされるのは確かに誰でも嫌だろう。玄関から直通で風呂場、風呂場から直通でこの部屋へと案内された。
「でかい風呂だったなぁ」
案内された風呂はちょっとした宿のものかと思うくらい大きかった。服は風呂に入っている間に洗濯も乾燥も終わっていた。この屋敷には男物の衣服が無いらしく、風呂上りに着るものが無いとのことなので急いで洗ってくれたようだ。
ただ、何故かパンツだけが見当たらなかったので俺は今ノーパンでズボンを履いている。
「パンツだけ乾かないとかあるか……? まぁ聞けばいいか」
そう呟いた俺は座ったまま後ろに両手をついて天井を見る。壁にはカチカチと音を鳴らすアナログ時計がかかっており、時間は午後四時頃を指していた。
紫乃は現在キッチンで紅茶を淹れてくれており、俺はそれを炬燵に入って待っている。
「にしても、居間も広いな……」
俺が風呂上りに通された部屋は二十畳くらいはありそうな居間だった。畳張りの部屋でテレビや箪笥が壁際にあり、部屋の真ん中には炬燵がある。
「居間って言うより宴会場だな。こんなに広かったら逆に落ち着かない……」
畳に炬燵という日本人なら安心感を覚える組み合わせなのに、いまいち落ち着かない。
「はぁ……」
身じろぎしながら炬燵に深く入りなおし、布団を肩までかける。布団から微かに香る甘い匂い、その匂いが普段からこの炬燵を女性が使っているという証明になっていた。亜人嫌いの俺でもこの匂いには少しだけドキッとした感情を覚えてしまう。
「そういえばあの人、『泊まっていってください』とか言ってたな……」
俺としては帰り道を聞いて早く帰りたいのだが、返事をする前に風呂に押し込まれてしまった。
「戻ってきたらすぐに帰りますって言わないと……」
それにしても紅茶を淹れに行っただけにしては帰りが遅い。もしかして今、客室や布団の準備でもしているのだろうか。
「ありえる……」
この屋敷に入る前にも考えていたがこんな山奥に来客など普通は来ない。そのために客室は物置と化しており、とてもじゃないが人を寝泊まりさせられる状態じゃないので急いで準備をしている、そう考えればしっくりときた。
「今頃大慌てで客室の掃除でもしてるのかもな」
それなら紅茶を淹れに行った紫乃の戻りがやけに遅い理由にも説明がつく。
スーッ――。
そんな風に考えていたところで居間の障子が開き、おぼんに温かい紅茶を乗せた紫乃が入ってきた。
「すみませんっ、遅くなってしまって……!」
謝罪をしながら机に紅茶を置いて俺のはす向かい、角を挟んだ隣の位置に座――ろうとした紫乃が何かを思い出したようにもう一度立ち上がった。
「あ、仕舞っとかないと……」
そう言ってテレビの横にある金庫の様な物の扉を開き、何かを入れた。
ガチャッ――と金庫の扉が閉まり、今度こそ紫乃が座った。
ゆさっ――。
屈む動作で揺れる大きな胸につい目がいってしまう。
「……っ」
じろじろ見るわけにはいかないと紫乃がいる方向から目をそらして礼を言う。
「いえ、ありがとうございます……」
何より紫乃の方を見ていると蛇の体も視界に入ってしまい性欲と嫌悪感が同時に湧いて複雑な心中になってしまう。そんな気持ちを誤魔化す為に何かを言わなければと思い――。
「本当に助かりました。まさかこんな所に人が住んでるなんて……一人で住んでいるんですか?」
気を紛らわせようと気になっていたことを質問する。
「いいえ、ここには家族と一緒に住んでいます」
「家族、ですか……」
心の中で『そりゃあこんな所に一人で済む訳ないよな』という感情と『一家でこんな所に引っ越してきたのか?』という二つの感情が混ざり合って気の抜けた返事になってしまった。
「家族、といっても血のつながった間柄では無いんですが……それでも大事な家族です」
そう言って紫乃は微笑んだ。
「そう、ですか……」
その顔を見ると、俺はそれ以上深く聞くことができなかった。
「答也さんは家族……奥さん、とかいらっしゃるんですか?」
空気を変えようとしたのか紫乃がそんな話題を切り出す。
「えっ? いえいえ、男の寂しい一人暮らしです」
「へ、へー……そうなんですね」
何だか妙な反応をする紫乃。
「実家にいる親とも、もう何年も会ってません」
ははっと笑いながら軽い感じで言ってみる。
「なるほど……」
紫乃は俺の話をかみ砕くように聞いてから返事をした。
「……」
話題が終わってしまい、少し気まずい沈黙が流れる。そろそろ人里への帰り道でも聞こうかと考えていると……。
「あの――」
俺よりも先に紫乃の口が開いた。
「紅茶……飲んでくださいね、是非」
紫乃にそう勧められるが飲むにはまだ少し熱そうだ。
「あ、ありがとうございます……でも猫舌なので」
なので『もう少し冷めたら頂きます』という意味を込めて、そう返す。
「そうですか……」
俺の返事を聞いた紫乃はなぜか緊張した様子に見えた。
「……」
「……」
またしても沈黙が流れる。
一分……二分……。
三分。
そろそろ『もうお暇しますので帰りの道を教えてもらってもいいですか?』と聞く頃合いだろうか、と考えていると。
「さっき――」
「はい?」
「さっき、『こんな所に人が住んでるなんて』と言っていましたよね?」
「は、はい……」
沈黙を破ったのはまたしても紫乃の方だった。
「少し、その話をしてもいいですか?」
「ど、どうぞ……」
そんな事よりも帰り道を教えてくれ、なんて言える雰囲気ではなかった。それに実際、俺もこんな場所に人が住む建物がある理由を知りたかった。
「私が亜人症に罹ってこんな体になったのは八歳の頃でした」
「えっ?」
急に思ってもみなかった角度の話をされて戸惑う。
「くすっ」
そんな俺を見て紫乃は微笑みながら話を続ける。
「初めは足に鱗のようなものが出てきたんです。それからどんどん鱗が広がっていって、両足がくっついて……十歳になる頃には下半身が蛇になっていました」
そこで一旦言葉を区切り、紫乃は自分の紅茶を啜った。
「答也さんもどうぞ。冷めてしまうので」
「あっ、それじゃあ……いただきます」
紫乃に促されて俺も出された紅茶を飲む。
ズズッ――。
紅茶は丁度いい温度になっていた。
「どうですか?」
と、紫乃が質問してくる。
どうですか、と聞かれると……。
「美味しい……です」
と答えるしかない。
実際、嘘でもなんでも無く出された紅茶は味も香りも美味しいものだった。普段たいして紅茶を飲まないので茶葉の種類だとか具体的にこういうところが美味しいだとかは言えないが、単純に美味しいと思った。
(紅茶の香りに加えて……林檎?)
林檎を使った紅茶があるのか、市販の紅茶にすりおろした林檎でも入れたのか、どっちかは分からないが好きな香りだった。
「それは良かったです。嬉しい……」
紫乃はそう言って微笑んだ。
微笑んだ、というより嗤った。
「……?」
何か違和感のようなものを感じながらも紅茶をもう一口啜ってから机に置き、話の続きを聞く姿勢をとる。紫乃もそんな俺の仕草を見て話しの続きを始めた。
「下半身が蛇になってからは学校にも生き辛くなってしまって……家にこもりがちになりました。そのまま結局進学もしなかったんですが、趣味で書いていた小説が上手くいって、生活は何とか……」
「そう、なんですか……その収入でこのお屋敷を買った……ということですか?」
亜人症に罹った話がなぜこんな場所で暮らしている理由になるんだろうと思い、少しせっかちな聞き方をしてしまった。
一旦紅茶で喉を潤して相手の答えを待つ。
「いえ、このお屋敷は私の友達――さっき言った家族のものです」
紫乃がやんわりと訂正する。
「元々は私の小説のファンだった子なんですが、リアルで会っていく間に気が合って……『一緒に住もう』って言ってくれて」
思い出を噛みしめるように紫乃が笑みを浮かべる。
「へぇ~、一緒に暮らすくらい気が合う友達ができるって良いですね。でも何でこんな山の中に?」
一緒に暮らすならもっと都会でシェアハウスでもすればいいのに、とか思いながら疑問を口にする。その友人が偶々この屋敷を持っていたにしろ、『ならここで暮らそう!』とはならないだろう。
そのくらい立地が悪い。
「私も彼女も同じ悩みがあったので、ここなら都合が良いかなと……」
「同じ悩み?」
わざわざこんな所で暮らす悩みってなんだろうと思い、つい不躾に聞き返してしまった。
「はい、私たちが仲良くなったのも事情や悩みが一緒だったことが理由で……」
紫乃は特に気にした様子も無く俺の質問に答えた。
「なるほど……」
話を遮らないように相槌を打ち、また紅茶を飲む。
だが――。
「私たち、亜人を理由に周りから避けられてきたので」
その言葉を聞いて下を向いたまま固まってしまった。
「人に会うたびに嫌な顔をされるので……なら他人がいない場所でひっそりと暮らそう、と」
その理由に納得すると同時に少しいたたまれない気持ちにもなった。
「土地……というより山を持っている子がいたので、みんなでお金を出し合って誰も来ない山奥にこのお屋敷を建てたんです」
(みんな……? 二人だけじゃないのか?)
と思ったが確かにこの大きさの屋敷に二人は大きすぎるだろう。二人どころか十人以上で暮らしたってお釣りがくる。
それくらいこの屋敷は巨大だった。
「えっと……」
いつまでも黙っているのはバツが悪いと考え、その場しのぎにもならない中身の無い言葉を口から漏らす。
「っ……」
しかし言葉が続かない。紫乃がこの話を始めたのは多分、亜人に対する嫌悪感を俺があからさまに表に出したからだろう。言外に責められていると思うと返す言葉が見つからなかった。
俺だって自分の態度が良くないという事は分かっている。それでも苦手なものは苦手なのだ。
「す……」
しかし助けてもらった立場でそんなことが言えるはずも無い。
「すみませんでした……」
時間をかけて絞り出した割には中身の無い一言だった。
そんな俺の情けない謝罪を聞いた紫乃は――。
「え? えっと、どうしたんですか……?」
本当に何のことか分からないといった声色だった。
「え?」
(俺を責めるために今の話をしたんじゃないのか?)
「私……何か謝られる様な事をされましたか?」
俺の失礼な態度は気付いているだろうに、そんなことを言う紫乃。
「あ、いや……! 何でもないです!」
墓穴を掘った、と思い慌てて取り繕う。
「あはは……今の話を聞いてちょっと勘違いしちゃいました」
下手な愛想笑いで乗り切り、カップに残った紅茶をぐいっと飲み干した。
ゴクッ――。
何はともあれ俺の亜人嫌いに怒っている訳じゃなくて良かった。そう思って俺が安心していると。
「勘違い、というと……もしかして答也さんが亜人嫌いなことですか?」
「え?」
今度こそ、息が止まるような事を言われた。
「初めて会った時から分かっていました。私を見る目に不快感のようなものが混じっていたので」
「えっと……っ」
唐突に自分の心の内を言い当てられて困惑する。
「でも私は気にしていないので大丈夫です。そういう感情を持たれるのはもう慣れているので」
気にしていない……本当に?
紫乃の声色は本当に怒っていないように感じた。怒りよりも諦めや寂しさ……そういった類のものに聞こえる。
「すみません、昔からちょっと――ちょっとだけ苦手で……ははっ」
別に『ちょっとだけ』なら相手も傷つかないと思っている訳でも無いが、そんな言い訳をしてしまう。
そんなみっともない言い訳をしたからか、何だか顔も熱くなってきた。
「大丈夫ですか? 何だか顔が赤いですけど……」
そう言う紫乃の顔も心なしか赤くなっている気がする。
しかしその赤さは怒りによるものでは無く、まるで発情のような――。
「はい……っ、大丈夫、です」
そして俺の方も気のせいなのか、まるで発情しているかの様に呼吸が少し荒くなってきた。
「それで、さっきの話の続きなんですけど……」
そんな俺の様子に気づいているであろう紫乃が話を続ける。
「みんなでこのお屋敷に引っ越して他の誰にも関わらずに暮らす、までは良いんですが……一つだけ誤算があって」
「誤算…?」
「亜人になった人は欲求が強くなるって知っていますか?」
そう――俺が亜人を苦手な理由として【欲の増大】というものがある。
亜人症のデメリットとして、亜人になった人間は只人の頃よりも食欲や睡眠欲、性欲などの欲望――主に性欲が増大してしまう傾向にある。只人の時はお淑やかだった女性社員が亜人になった途端に会社の男性社員全員に体の関係を迫る、といった話も聞いたことがある。
もちろん亜人全員がそうなる訳では無いし、その人物が元からそういう人間だった、というだけかもしれない。
しかし今の時代、学校や会社の無断欠勤の六割、窃盗や食い逃げの七割、性犯罪の八割近くが亜人によるものであるという統計も出ている。そういった理由も加えて俺は亜人が苦手なのだ。
そしてこの女も――。
「亜人になってから……子供が欲しい、子孫を残したいという欲求が増すばかりなんです」
そう言ってこちらににじり寄ってくる紫乃の顔は頬が赤く染まり、獲物を前にした肉食動物そのものだった。先ほどまで俺に見せていた清楚な姿は見る影もない。
「でもこんな所に男の人は来ないですし、何より私たちは忌避される見た目なのでそういう事はもう諦めていたんですが……」
ぴとっ――。
隣まで来た紫乃の手が俺の頬に触れる。
「はぁっ……♡」
恍惚に染まった溜め息が紫乃の唇から漏れる。吊られて俺の呼吸も荒くなってしまい、スッと息を吸って心を落ち着ける。
「っ……!」
というよりさっきから何か体がおかしい。心臓がドクドクと激しく脈打って、頭がボーっとして――下半身が熱い。
「そんな時に答也さんが来てくれたんです」
喜びに満ちた声で紫乃が言う。
「このチャンスを逃がしたら……もう一生男の人と結ばれることは無いと思って……、それに……私たちのことをそんな目で見る人になら罪悪感もありませんから」
罪悪感は無い……そう言った紫乃だったが、俺にはそうは見えなかった。発情した顔に隠れて……本人でも気づかないくらい小さな躊躇いのようなものが見えた気がした。
「ですので、私の体液から作った毒を飲んで頂きました」
「っ!?」
飲んだってまさか――あの紅茶か!?
「私の亜人としての体質でして……唾液とあるものを混ぜると催淫毒――一言で言ってしまうと媚薬になります」
「くっ……!」
「体に害は無いので安心してください。これから毎日飲んでもらうことになると思うので……」
「毎日……?」
思いがけない台詞を言われて咄嗟に聞き返す。
「はい、今日からここが答也さんのお家です。他の皆も体を持て余していたので……喜んでくれると思います」
「なっ、ふざけるな……っ!」
毒に抗おうと気を奮い立たせる――が、体は俺の意思に反してどんどんと熱くなっていく。
「答也さんは私が養いますから、何も心配しなくて大丈夫です……ただ私たちを受け止めてくれれば……」
密着した紫乃が俺の耳元で囁く。
「ここ……辛いですよね? 我慢しなくても大丈夫ですから……」
さっきまで嫌悪感のあった紫乃の体も今となっては目が離せないものになっている。
「くそっ…‥!」
目の前にあるこの女体は俺の欲をぶつける為のものなんじゃないか、なんて考えが頭と体を支配する。それでも何とか理性を総動員し、どうにかこの場を切り抜けようと頭を巡らせている俺に――。
「んっ……」
俺の理性を溶かすように唇が重ねられた。