第十二話 揺れる感情と離れない過去
カチ、カチ――。
「ぅ……ん……」
アナログ時計の音だけが響く中、俺は目を覚ました。
この屋敷で寝起きの目を擦るのはこれで三回目だ。
(はぁっ、もうこんな時間……)
壁にかかっている時計を見ると午後二時を指していた。この屋敷に来てからほぼ一日経っており、居間にあるこの時計を見るのも二度目だ。
(って言っても、そのうちの半分くらいは寝てるな……)
そう――昨日この屋敷に来たのが確か午後三時から四時頃。そして現在の時刻が午後二時。およそ二十二、三時間をこの家で過ごしているが、その半分ほどが気絶して眠っていた時間だ。
そして残りの時間の内、さらに半分が紫乃を相手に発情している時間……。
あの毒を嗅がされると数時間は紫乃を犯してしまい、さらにその疲労で数時間は眠ってしまう。
(使い方を間違わなければ凄い薬になるんじゃないか……これ?)
性欲が減退して困ってる人には奇跡の様な薬だろう。
先程の情事に関しても凄まじい効き目だった。
俺だけじゃなく紫乃までも催淫毒を嗅いでしまったという事もあって、一回目や二回目よりも長く激しい時間だった。だからこんなに長い時間寝てしまう羽目になったのだろう。
そしてまた紫乃が起きるまでに脱出方法を探す必要がある……のだが。
鍵がおそらく金庫の中にある以上、紫乃に頼んでその金庫を開けてもらわなければならない。
「はぁ……」
どうしたものかと、ため息を吐いた俺に――。
「また……ため息ですか?」
と、隣から声がかかった。
「っ――」
「ふふっ」
隣を見ると、横になったままの紫乃が柔らかい笑顔でこちらを見ている。
「起きてたのか……」
「はい……」
当然、紫乃が隣で寝ている事は分かっていた。二人とも気を失うまでヤり続けたのだから、いない方がおかしい。
しかし昨日の経験から、今回も目覚めるのはまだ先だと思い込んでいた。
(俺が寝すぎたのか……!)
「……?」
前の二回は紫乃が何度も絶頂して……気絶しようが、俺の興奮が治まるまでは何回でも叩き起こして一方的に犯し続けた。
その為、俺の何倍も紫乃の方が疲労が溜まっていたので目覚めが遅かったのだろう。
しかし今回は紫乃も催淫毒の効果で発情しており、受け止めるだけでは無く、自分が責められるのと同じくらい俺のことを責め立てた。
紫乃が何回イっても、俺が何回出してもお互いが満足しない……そんな状態が続いた。
更に昨日までの様な緊張感が俺自身に無かった……という事もある。
紫乃に対する警戒心や恐怖感が薄れていたので呑気に隣で長時間眠ってしまったのだろう。現にこの居間で紫乃に追いつかれた時も、さっき紫乃が起きていると気づいた時も、俺は大して焦りもしなかった。
(完全に油断しきってるな……俺)
だが紫乃が起きているなら丁度良い……どうにか説得してここから出してもらおうと口を開く。
「なぁ、さっき嘘吐いたのは俺が悪かったけど……このまま一緒に暮らせるとはお前も思ってないだろ?」
「……っ」
紫乃は黙って目を伏せる。
「……俺の気は変わらないからな」
俺の意思をもう一度しっかりと紫乃に伝える。
そう言い切ったはいいが、ここからどうやって説得しようかと考える俺に紫乃は――。
「もし……」
「……?」
途切れた言葉の先を黙って待っていると。
「もし私が亜人じゃなかったら……答也さんはここに残ってくれましたか?」
急に紫乃がそんなことを聞いてきた。
「え?」
質問が聞こえなかった訳では無く、戸惑いの感情からそう返してしまう。
亜人じゃ無ければ……亜人だから――。
昨日までの俺なら確かに大きな理由だった。
「……」
しかし……今日一日、亜人である紫乃と関わったことで俺の中の考えは変わり始めていた。
逆に言えば、たった一日で変わる程度のもの……。
「いや……そんなこと無い、亜人かどうかは関係ない」
自分に言い聞かせるように言った。
「じゃあどうして……」
じゃあどうして、と聞かれればそれは――。
「お前が亜人だから、じゃなくて……お前が――」
息を吸い……。
「初対面の人間を監禁して毒を盛った挙句に同棲を迫るような女だから嫌なんだ」
「うっ……!」
紛れもない事実を言われて紫乃が胸を押さえる。
「だから……鍵を渡してくれ」
そう言って立ち上がった。
「本当に……帰るんですか?」
「ああ、気が向いたらまた来てやるから……ほら、鍵」
寝ている紫乃に手を突き出して金庫の鍵をよこせと催促する。
「…………嫌です」
しかし紫乃はふいっと反対の方を向いてしまった。
「はぁ……」
そんな簡単に渡す訳がないとは思っていたが、やはりその通りだった。
「答也さんは……」
「ん?」
背中を向けた紫乃が何かを言い始める。
「答也さんはどうして亜人が嫌いになったんですか?」
そんな事を聞かれて思わず黙ってしまう。
「それは……」
その質問に答えようかどうか迷ったが――鍵が無ければまた別の出口を探すしかない。
そして紫乃が起きている以上、逃げながら探索するのは多分無理だろう。
なので少し話に付き合ってやることにした。
「昔、学生時代に彼女がいてさ」
「うっ……」
俺に彼女がいたと聞いて勝手にショックを受ける紫乃。
(こいつまだ彼女面してるのか……)
そんな紫乃を無視して話を続ける。
「俺の方が惚れ込んでたんだけど、その彼女が亜人症に罹って……」
そこで言いよどむ。
「亜人になったから……別れたんですか?」
紫乃が寝転んだままこちらを向き、悲しそうな顔で俺を見る。
「いや、亜人になっても少しは続いたんだけど……亜人の種類が、虫だったから……顔に出てたらしくて」
「そう……ですか」
紫乃は俺を責めたりはしなかった。
責めるどころか同情している様にすら見えた。
「年上だった彼女が卒業して、そのまま……連絡取れなくなって……」
思い出したくない事を思い出して言葉尻が萎んでいく。
「あの……」
「?」
途中で紫乃が話を遮ってきたのでそちらを見る。
「【彼女】って言うのやめてください……」
「…………」
(こいつ独占欲強すぎないか?)
少し呆れながらも話を続ける。
「それ以来、亜人に苦手意識が付いた……ってだけの理由だ」
改めて自分勝手な理由だと思った。
結局の所、亜人症に罹って姿が変わってしまった彼女を自分が傷つけたというだけの話なのに。
「――この家にも」
俺の話を聞き終わった紫乃が交代で話し出す。
「虫の亜人になってしまった人がいるんですけど……彼女も似たような事があったって聞いたことがあります……詳しくは知らないんですけど……」
「そうか……」
今や亜人症は誰にでも起こり得る、そう珍しい事じゃないだろう。
おそらくこんな話は世界中に散らばっている。
「…………」
話が終わると気まずい沈黙が流れる。
「…………」
紫乃も横になったまま黙っていた。
「ん?」
(そういえば……なんでこいつずっと寝たままなんだ?)
思い返せば、俺と話している時もずっと横になったままだった。
「…………」
「どうしたんですか……?」
じっと見つめる俺に困惑する紫乃。
「お前、なんで起きないんだ?」
もう直接聞いてしまおうと思い、そう言い放った。
すると紫乃は――。
「え……っ」
ギクッ――っという反応を見せてあからさまに硬直した。
(なんだ、その反応……?)
まるで何かを隠しているような反応を見て訝しむ。
考えてみれば紫乃が俺よりも先に起きていたなら、寝ているうちに縛るなりなんなり出来ただろう。そういった事をせず、ただ黙って待っていたのは……。
「……立てないのか?」
「うっ……!」
紫乃がまた同じような反応をした。
「もしかして……さっきので腰が抜けたのか?」
「うぅ……」
どうやら正解らしい。
(なら今までの会話も……まさかとは思うが時間稼ぎだったのか?)
確かに昨日まで処女だった女がするには、さっきのは激し過ぎた。
絶頂しようが腰を止めずに何度も中に射精し、前の穴だけでは飽き足らず後ろの穴まで散々使ったのだ。いくら亜人が只人より体が丈夫とは言え、慣れない快楽はまた別問題だろう。
「そもそも……何で答也さんは動けるんですか……?」
紫乃が訝しげに、恨めしそうに、呆れも含んでそう聞いてくる。
「何でって……強いて言うなら、経験の差とかじゃないか?」
学生時代は猿の様に毎日盛りまくっており、当時から絶倫じゃないかと彼女に言われていた。
盛りまくっていた――と言っても経験人数は彼女一人だが。
「うっ……! うぅぅっ……!」
俺の言葉を聞いてまた勝手に脳を破壊されている紫乃。
「私は……っ、答也さんが初めてなのにぃ……っ!」
そんな呪詛を吐きながら紫乃がずりずりと畳を這いずって近寄ってくる。
動けないなら今のうちに行くしかないと中の物を急いで詰めてからリュックを背負う。
「じゃあな、俺は行く」
紫乃の目を見てきっぱりとそう告げる。
「っ……待ってください……もう、ちょっとだけ……!」
泣きそうな顔で俺を止めようとする紫乃。
だが体に上手く力が入らないらしく、伸ばした手は俺に届かない。
「遭難してるところを助けてくれたのは本当に感謝してる」
そう言って俺は居間から出ると屋敷の奥に向かって走る。
「あっ……! 答也さん――」
紫乃が俺の名前を呼ぶが振り返らずに進む。あの様子ならもうしばらくは歩けないだろう。
今の内に出口を探さなければと思い、とりあえず奥へと行く。
「玄関と反対方向に行けば……裏口とかがあるはず」
流石に玄関以外に出入り口が無いのは考え辛い。
居間から漏れる光を頼りにして暗くてよく見えない廊下を歩いていく。
「流石に全部の扉を開けている時間は無いな……」
紫乃の様子を見た感じ小一時間くらいは猶予がありそうだが、だからと言って部屋を一つずつ調べていてはすぐに追いつかれるだろう。
俺がこっちの方向に来たことはバレているし、亜人の回復能力は只人よりも早いらしい。
何だったら今この瞬間に追いかけてくる可能性だってある。
「闇雲に調べるんじゃなくて出口っぽい扉を探していかないと」
そう決めて足を進めると曲がり角を見つけた。
暗くてよく見えないが、ここは昨日通った覚えがある。
「右――は確か風呂があった方だから、左だな……」
ここに来てすぐ、まず初めに通されたのが風呂だった。
その時に歩いた記憶を頼りに、行ったことの無い方向へと足を向ける。
屋敷の奥へ向かうと決めたので左に曲がって数メートル進むと、その先には――。
「ぅ、わ……広っ……!」
ロビーのような、さっきの居間ほど……か、それ以上はある大きさの空間が広がっていた。
「この屋敷、マジでどれだけ広――っ!」
そう言いかけて止めたのは視界にあるものが映ったからである。
「っ……!」
ダッ――!
俺はその目的地に向かって走り出す。
大きな足音が響くが、もうそんな事を気にしている場合ではない。
「はぁっ……はぁっ……!」
広大な空間を抜けて、その先にあった廊下をさらに奥へ進むと……。
「っ――この扉……!」
見つけたのは出口らしき扉……。
なぜその扉が出口だと思ったのかと言うと――。
「光だ……!」
屋敷の奥からはほとんど差していなかった光。
それがこの扉の窓から差していたのだ。
「っ……」
日の光――というには少し物足りない明るさだが、この扉の先に部屋以外の行き先があるのは間違いない。
(まぁ、ただ単に電気が点いてるだけの部屋という可能性もあるが……)
しかし、他の部屋は基本的に電気が消えていた事に加え、この扉が一番奥にある事を考えると裏口はここを置いて他にないと思った。
「行けば……分かるよな」
だが、明かりがある――という事はこの向こうに人がいる可能性もあるのだ。
「それでも、行くしかない……!」
紫乃が追いかけて来る前に行かなければ……自分をそう奮い立たせて扉を開いた。
「っ……!」
ガラッ――!
「っ…………?」
勢い良く開いた扉の先は――外では無く、またしても屋内だった。
まだ奥があるのか……と、よく見てみると左右に道が伸びる丁字路だった。
「また……廊下?」
そう呟きながら廊下へ出ると、何の気なしに扉を振り返ってみる。
そこには――。
「え……?」
俺が今通った扉には【紫乃】と書いた札がかかっていた。
(これ……【しの】って読むんだよな? ならこの札はあいつの名前……?)
紫乃という名前がどういう漢字を書くのかは問題ではない。
なぜ紫乃と書いてあるプレートがこんな所にあるのか――それが問題だった。
扉にかかったネームプレートはまるで自分の部屋を表すかのようで……。
(これじゃあ、この扉の向こうにある……今まで歩いていた屋敷全体が……)
そう、この扉の向こうにある屋敷全体が……紫乃の部屋のような――。
「い、いや……それは流石に無いだろ……」
自分で自分の考えを否定するが、そう考えれば辻褄が合う。
「…………」
なぜこの屋敷で紫乃以外の人間と出会わなかったのか。
他の住人に見つからない様に気を付けてはいたが、屋敷を歩き回っても、朝になっても、紫乃以外には捕まらなかった。
俺の考え通りだとすれば当然だ。
この屋敷には紫乃以外いなかったのだから……。
「……いや、一人いたな」
あの長い廊下で出会った足音の正体……あれは間違いなく他の住人だろう。
通路の真ん中を壁で区切った不気味な長い廊下……。
「もしかして……」
俺は自分の考えを確かめるために左側へと歩いた。
トン、トン――。
「俺の推測通りだとすると、こっちには――」
一本道の廊下を道なりに歩き――。
タンッ――。
目的の場所まで来て立ち止まる。
「そういうことか……」
歩いた先にはまた扉があった。
そしてその扉には……。
【碧依】
というネームプレートが掛かっていた。
これらの事を総合すると――。
「さっきの馬鹿でかい屋敷を一人ずつ使ってるってことか……!」
目の前にあるこの扉は紫乃の屋敷から見て左側にある。
「あの長い廊下も屋敷の左側にあったから……」
という事は、あの時の足音はこの【碧依】という住人のものだ。
「じゃあ……さっきの扉は外に出る為のものじゃ無くて……他の住人の屋敷に行き来するための扉……?」
外へ出る裏口だと思って俺が開いた扉は、より奥へと進むための扉だった。
おそらく……互いの屋敷へと行き来するこの廊下を囲む様に、それぞれの屋敷が建っているのだろう。
「くそっ……! どうする……?」
俺はここからどうすれば外に出られるかを考える。
このまま此処にいるのは不味い……紫乃が追ってきてしまう上に他の住人が出てくるかもしれないのだ。
かと言って紫乃の屋敷に戻っても鍵が無ければどのみち出られない。
なら――。
「他の屋敷に……行くしかない」
他の住人の屋敷へ行って、その屋敷の玄関から外へ出る……これしか無いだろう。
だがそうなると別の問題が出てくる。
(他の住人に見つかったらどうなる? 紫乃と違って大人しく帰してくれるのか? それとも紫乃と同じように欲求を抑えられなくなっているのか……?)
他の住人がまともな人間である可能性ももちろんある――が。
「楽観的に考えるのはやめた方がいいな……」
紫乃が言っていたことを思い返す。
(この屋敷は社会に馴染めなかった亜人みんなで建てた――そんな感じに言っていた)
他の住人も紫乃と同じような精神状態であると思っておいた方がいいだろう。
「なら……やっぱり見つからない様に出口を探さないとな」
そう決めたなら、早く別の屋敷の玄関から外に出なければ――と、目の前の扉に手をかける……が。
「……この扉でいいのか?」
進むのはこの屋敷で良いのか、と手が止まった。
この先にあるのは紫乃の屋敷で聞いたあの足音……正体不明のあいつがいる屋敷だ。
他の屋敷の方が安全かどうかは分からないが、この先には間違いなくあいつがいる。
「別の扉も見てみるか……」
そう思って他の扉も見るだけ見てみようと一旦来た道を戻る。
紫乃が追って来ることを考れば、いつまでもこの通路にいるべきでは無いのは分かっている。だが先へ進む不安や躊躇いからそういった行動をとってしまう。
来た道を戻ると【紫乃】と書かれたプレートが掛かっている扉が右手に見えてきた。
(向こうも見ておくか)
そのままその扉を通り過ぎ、さっきとは逆方向へ歩く。
すると左側の壁に一つ、右側の壁に一つ、扉が見えてくる。
「左の扉はなんだ?」
さっき俺が頭の中で思い描いた間取りだと、この廊下は【口】の様な形になっており、その周りを囲う様にそれぞれの屋敷があるはずだ。
なので、左側にある扉の先は【口】の内側にあたるのだが……。
「ちょっと覗いてみるか……」
足音を殺して扉へと近づき……。
「……っ」
スッ――。
音を鳴らさないようにゆっくりと扉を開いて中を覗いてみる……と。
「――ッ」
扉の向こうはやはり外ではなく屋内だった。
それは想定内だったのだが、俺が警戒心を尖らせたのは――。
(電気が……!)
電気が点いている――ということは【誰か】がここにいるという事……。
(こっちに行くのは止めておこう……)
中にいる人物に見つかるかもしれない。
それに俺が予想した通りの間取りだとすれば、この先は外に通じていない。
俺は静かに扉を閉めた。
「じゃあ――あの扉にするか……」
今開いた扉の反対側にある扉……。
位置的に言えば紫乃の屋敷の右側という事になる。
「…………」
紫乃の屋敷は鍵がかかっていて出られない。
碧依と書いてあった扉の先には足音のあいつがいる……。
住人がいる事が分かりきっている屋敷より、少しでも留守の可能性がある扉を開けた方がいい――。
「すぅ、はぁ……」
そう考えた俺は小さく深呼吸をして――扉に手をかける。
「――よしっ……!」
だが入る前にネームプレートを確認しておこうと顔を上げた、ところで――。
「え?」
扉に掛かっている名前が目に入り……固まってしまった。
【歌墨】
扉の札にはそう書いてあった。
「そんな――そんな、わけ……無い、よな……?」
その名前は……。
俺が学生時代、恋人だった人の名前――。
歌墨さんと同じ名前だった。
一先ず、これで第一章終わりとなります。
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