第十話 拙い嘘
自分の力で鍵が手に入らないと分かった時点で、玄関を開けて車を何とかしてもらう様に紫乃を説得する必要がある。
その心構えがあったから彼女が抱き着いてきた時にも焦りはしなかった。
ここからだ――と。
「何で、そんなに帰りたいんですか…?」
落ち着いた口調で紫乃が聞いてくる。
「普通は帰りたいと思うだろ。初対面で毒を盛ってくる相手なら尚更だ」
俺も同じように落ち着いて冷静に返す。
「催淫毒のことは謝ります……男の人を見たのも久しぶりだったので、私も欲求が抑えられなくて……反省してます……」
語気が徐々に弱くなっていってるので本当に反省しているらしい。
「でも、一緒に暮らしたいと言ったのは本当です……答也さんの事は私が養うので……」
「…………」
おそらく……最初は男なら誰でも良かったんだろう。
警察の目も届かない、こんな山奥に男が一人で来て……しかもその男が亜人嫌いときた。そして初対面の時……あの俺の態度で罪悪感も薄れ、欲求解消に利用しようと催淫毒を使って自分を襲わせた。
しかし体を重ねた途端に今まで知らなかった人肌を知ってしまい、情が湧いて本気で俺のことを想う様になった――といった感じだろう。
「駄目……ですか?」
蚊の鳴くような声に何と返せば良いか迷い、黙ってしまう。
結局の所、紫乃は普通の女の子だったのだ。
いや、普通の同年代より幼いと言ってもいい。
青春時代を引きこもって過ごし、碌に異性と触れ合えなかった人生が……ここに来て爆発してしまった。
(俺は、このままこいつを置いて出て行ってもいいのだろうか……)
そんな紫乃を見て、罪悪感と責任感と同情がごちゃ混ぜになって心を乱す。
しかし――。
「あのっ、エッチな事は嫌だったら我慢します……た、偶にでいいので……へへっ」
(……笑い方結構気持ち悪いな)
綺麗な顔でオヤジみたいな性欲を覗かせてきた……。昨日の『ふふっ』は演技だったのだろうか。
(やっぱり普通に帰るか)
ひょんな事で我に返った俺。
「…………」
我に返った勢いでこのまま紫乃を説得しようと思い、思考を廻らせる。
(どうやら本気で俺に入れ込んでるらしいし……ちょっと心苦しいが同情を誘って上手く丸め込もう)
「あー、……分かった」
「え?」
何が分かったのかと紫乃も虚を突かれた返事をする。
「俺――ここで暮らすことにするよ」
「えっ!? 本当ですか!」
俺がそんなことを言うとは思っていなかったのだろう、紫乃が驚きと喜びの混じった声を上げて背中から離れる。
そんな紫乃の反応を見て畳みかける様に話を続ける。
「ああ、今の暮らしも仕事が大変だし……ここでお前が養ってくれるならそれも良いかもな……」
もちろん嘘、この場を乗り切るための方便に過ぎない。
「はい……! 生活の心配は本当にしなくて大丈夫で――」
「でも」
と、紫乃の言葉を遮ってさらに話を続ける。
「家で俺を心配して待ってる家族がいるんだ……その人たちに一言別れを言っておきたい」
「え……?」
きょとん、と俺の言葉に戸惑う紫乃。
(家族が心配してるって言えば流石に罪悪感を覚えるだろう……こいつも母親から手紙で心配されてたし)
「別れを済ませたらまたここに帰ってくるから……だから一旦家に帰ってもいいか? あ、あと車貸してくれ」
そう言ってリュックを持って立ち上がる。
紫乃も内心では『本当にそんな家族がいるの?』と考えはするだろう。だが本当の可能性がある以上、一方的に否定することは出来ない……俺に嫌われたくないなら尚更。
男に免疫が無い紫乃の恋心を上手く利用している気がして多少の罪悪感はあったが背に腹は代えられない。
「身辺の整理が終わったら【きっと】帰ってくる……だから、な?」
「…………」
紫乃は顔を俯かせて俺の言葉を黙って聞いていた。
(悪いな……お前の境遇には同情するが俺にも生活がある)
ほんの少し、寂しさの様な感情を覚えながら俺は立ち上がって紫乃に背を向ける――が。
ぐるり――。
体に何か大きいものが巻き付いてきた。
「え……?」
下を見ると紫掛かった色の鱗が燦然と輝いており、それが紫乃の蛇体だと気付いたと同時に――。
ぐいっ――!
そのまま勢いよく後ろに引き倒される。
「うぉっ――!?」
バサバサッ――!
持っていたリュックの口を閉め忘れていたらしく、中身が周りに散乱する。
そして後ろに引っ張られた俺は地面に倒されることも無く、背中から紫乃の胸へ抱き留められる。
ぎゅぅぅぅぅぅっ――!
昨日とは比べものにならないくらい強い力で紫乃が抱き着いてくる。
「ぐっ……! あ、あのっ……ちょっと……し、紫乃っ……さん?」
背中に当たる胸の感触が相変わらず柔らかい……とか、初めて名前呼んだな……とか、そんな事を思う余裕が無いくらい体に回された腕と蛇体の力が強い。やはり単純な力の強さでは手も足も出ないと再認識する。
そしてなぜ突然こんなに強い力で抱き着いてきたのかと混乱しながらも紫乃の言葉を待つ。
(なんだ? 『やっぱり行かないで』とでも言われるのか?)
すると耳元で紫乃の口が開き――。
「家に待っている家族がいるんですか……?」
と、そんなことを聞いてきた。
「え? あ、あぁ……今も心配してると思う。お前も一緒に住む家族が大事だって言ってたし……だったら分かるだろ?」
諭すように語りかけて放してもらおうとする。
「昨日私が言った話、覚えてくれてるんですね」
背中越しなので紫乃の顔は見えないが、耳元で話す声は落ち着いて聞こえる。
「あ、あぁ。もちろ――」
「自分が言った事は覚えて無いんですか?」
「え?」
自分が言った事とは何だろうか。
今しがた紫乃には『もちろん』と言いかけたが、実際は昨日の会話の内容はほとんど覚えていない。なにせ理性が無くなる様な毒を飲まされて気を失うまで腰を振っていたのだ……その前に話した内容などまるで頭に無い。
(自分の事なんて話してなかった気がするが……俺なにか言ったっけ?)
必死に昨日の会話を思い出そうとしていると……。
「一人暮らしで……」
「ぁっ……!」
その一言で自分が言ったことを思い出した。
「奥さんはいなくって……」
「い、いや……それは……っ」
ぎゅうっ――っと、抱き着く力がより強くなる。
「両親とは何年も会ってないって……」
「ぐっ……」
「昨日言ってましたよね……?」
何か言い訳をしなければと必死で脳を回転させるが何も思いつかない。
「嘘、吐いたんですか……?」
(とにかく、言い包めるのが無理なら――どうにかこの拘束を解かないと……!)
さっきとは打って変わって冷たくなった紫乃の声を耳元で聞きながらジタバタと暴れてみる。
しかし当然ビクともしない。
「本当は、答也さんが自分でここに残るって言ってくれるのが一番良かったんですけど……」
そう言って紫乃が腕を放して、後ろでゴソゴソと何かを取り出す。
「くっ……!」
腕が離れたと思い、もう一度もがいてみるが残った蛇体だけでも俺を拘束するには十分すぎた。
(まずいっ……! 絶対に【あれ】を使う気だ……!)
「答也さんが分かってくれないから……」
横目に紫乃が何かを取り出したのを見る。
「また、これ……使わせていただきます」
甘い匂いのする液体が染み込んだハンカチ――。
やはり、出てきたのは昨日から俺を苦しめている催淫毒だった。
「ちょ、ちょっと待っ――んんっ!」
何か会話をして思い留まらせようとしたが、問答無用で口元にハンカチが当てられた。
「んんっ! んっ、んーっ!」
息を止めて匂いを嗅がないようにと抵抗するが、そんなもの数十秒と持たない。
「すぅー……っ! ん……!」
すぐに体が酸素を求めて大きく息を吸ってしまう。
「はい……そのままたくさん吸ってください」
紫乃がハンカチを当てたまま耳元で囁いてくる。
「っ……!」
早くも俺の体は燃えるように熱くなっており、その囁き声を聞くだけで達してしまいそうになる。そして昨夜と同じように一分近く、俺に匂いを嗅がせると紫乃はゆっくりとハンカチを離した。
「どうですか、もう私が欲しくて仕方ないですよね……?」
後ろから抱き着いたまま俺にそう聞いてくる。
実際今すぐにでも押し倒してやりたいが、昨日と違って紫乃が未だに俺を拘束している為、そうすることが出来ない。
「っ……! こんな事してもっ、昨日と同じだっ……!」
そう、この毒は紫乃のキャパシティ以上に俺の性欲を高めてしまう。このままいけば昨日と同じように二人とも気を失うまで盛った後、負担の大きい紫乃の方が後に目覚める。
そうすれば結局、俺がまた逃げて……その繰り返した。
「何回お前を抱いたとしてもっ……俺の気は変わらないぞっ……!」
多分……。
しかしそんな俺の言葉を聞いた紫乃は――。
「はい、さっきのやりとりで答也さんの考えが変わらないのは分かりました」
静かな口調で話し始めた。
「だから……エッチは我慢してもらいます」
「は……?」
どういう事だ、と発情で茹った頭に疑問が浮かぶ。
そんな俺を紫乃はぎゅっと抱きしめ直して……。
「このまま一日でも二日でも、何日でも……答也さんが一緒に暮らすって言ってくれるまで抱き着いています」
「はぁっ!?」
まるで聖母の様な微笑みで悪魔みたいな事を言い出した。
(それって……まさか!?)
俺は今、毒の影響ですぐにでも目の前の女を押し倒したい衝動に駆られている。
しかし力で負けている以上、紫乃が自分から俺を離したりしない限りはそうすることが出来ない。
今こうして抱き着いている紫乃の胸の感触や体臭なども頭がおかしくなりそうなくらい興奮するというのに……。
「うふふっ」
それを何もできない状態で抑え続けると言っているのだ。
「ぐぅっ……! っ…‥!」
体に駆け巡る感覚がもどかしくて狂ってしまいそうだ。
おそらく――その場しのぎで『一緒に暮らす』と言ったところで、こいつはもう信じない……。俺の頭がおかしくなる寸前まで生殺しにさせた後、我慢させた以上の快楽を与えて依存させる……そんな魂胆だろう。
「大丈夫ですよ、ずっと一緒にいますから……」
そう言って体全体で俺に密着する紫乃。
(くそっ! どうにか……っ! 早くどうにかしないと頭がおかしくなりそうだっ!)
完全に毒が回り、半分以上獣になっている俺の頭が必死に解決策を探して周りを睨む。何か使えそうなものは無いかと部屋を見渡す。
「いっぱい興奮して……いっぱい溜め込んでください。最後に私が全部受け止めますから……♡」
炬燵……テレビ……金庫……箪笥……空のカップ……俺のリュック……、使えそうなものが何も無く、焦りだけが募っていく。
「ちゃんと皆にも紹介します……私の、恋人だって」
紫乃がもう一度ぎゅうっと俺を抱きしめる。
「っ……!」
さっきも感じた甘い匂いに頭がクラクラする。
だが――その匂いに何かが引っかかった。
(甘い、匂い……?)
昨日も今日も、嗅がされる催淫毒は全て甘い匂いだった。
それはそうだ、どれも同じ毒なのだから。
そして、ここで飲まされた紅茶に入っていた催淫毒も同じものだったはずだ……あの時も甘い匂いがしていた。
(そうだ……あの紅茶も甘い香りがして……)
そう思い出した時――。
「そう……かっ!」
俺はこの状況を何とかひっくり返そうと【あるもの】を探す。
「……っ」
「どうしたんですか……急に?」
突然周りをキョロキョロと見渡し始めた俺を怪訝な顔で見つめる紫乃。
(あった……!)
そうして俺が見つけた探しものはすぐ隣に転がっていた。
(林檎……!)
そう、俺が探していたのは昨日キッチンに入った時に非常食にしようと持ち出した林檎だ。
昨日紅茶を飲んだ時にも甘い林檎の香りがしていた。
「ん……ぐっ!」
俺は力いっぱい身を捩って林檎の方へ倒れ込む。
「あっ、まだ駄目ですよ。もう少し我慢しましょう……♡」
紫乃は俺が性欲に耐え切れずに暴れていると思っている。
そんな浮かれた態度を横目に――。
「はっ……あぐっ!」
ガリッ――!
気持ちの良い音をたてて林檎を齧った。
「え? 答也さん……お腹空いたんですか?」
この状況で林檎を食べ始めた俺に困惑する紫乃。
「んぐ、んぐっ!」
そしてしゃりしゃりと林檎を咀嚼して……。
「ぅぐ……、んっ……!」
勢いよく距離を詰めて――驚く紫乃の唇を、唇で塞いだ。
「んんっ!」
突然キスをされて戸惑う紫乃に向かって俺は口の中の林檎を流し込む。
「んんっ!? ぁん、れっ……んぐっ!」
ごくんっ――。
「ぷぁっ!」
口の中の林檎を全て移し終わり、それを紫乃が飲み込んだのを確認すると俺は口を離した。
「と、答也さんっ……もしかして……っ!」
効果はすぐに出てきた。
「はぁっ……、はぁっ……!」
紫乃の顔が赤く染まり、息が荒くなる。
「んっ……!」
服の擦れる感触すら耐えられないといった様子で体を身じろぎさせる。
「どうやらっ……効いたみたいだな……っ!」
一回目に毒を飲まされた時に紫乃が言っていた『唾液と【あるもの】を混ぜると催淫毒になる』の【あるもの】とは林檎のことだったのだ。
紅茶を飲んだ時に香ってきた甘い匂い、そして二回目に毒を使われた時――あいつは一度キッチンに行ってから毒を嗅がせてきた。あれはキッチンにあった林檎の果汁と自分の唾液を混ぜて来たのだろう。
そしてその時に言っていた『直接嗅いでないのにクラクラする』という言葉は紫乃本人にも毒が効くという意味だと推測した。
(正直、こいつ自身に毒が効くかは賭けだったが……!)
「あっ……! 駄目っ……!」
自分の口内に溢れる唾液と林檎が化学反応を起こして強烈な催淫毒となり、その香りが口から鼻へ抜けていく。
「はぁっ……んっ……!」
紫乃が自分の毒に充てられて発情していく。俺はどうやら賭けに勝ったらしい。
だが……。
「っ……、俺、もっ……! 限界だっ……!」
俺の方もとうの昔に理性が限界だった。
俺も紫乃も同じように耐えきれない性欲に悶える。
「ぅ~~~っ、……っ!」
ガバッ――!
「うぉっ――!」
毒の効果に耐えられなくなった紫乃が俺を押し倒す。
「はぁっ、はぁっ……! もうっ、我慢できませんっ……!」
本来、只人の俺よりも亜人である紫乃の方が元の性欲が強い。
だから、俺よりも後に毒を嗅いだのにも関わらず限界が来た。
「んっ……!」
そして紫乃が乱暴に唇を重ね――それを合図にお互いの理性は完全に消え失せ、混じり合うように体が重なった。