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後編

 もう危ない、会うなら今のうち、と言われても、達也は施設に顔を見に行く気が起きなかった。もうほとんど意識がないということだし、可愛がられてもいない自分が行って喜んでもらえるとも思えない。それとも、久しぶりに自分の声を聞けば、幼かったころのように、目を開けて微笑んでくれるだろうか。

 いや、フルートのうまい麻子叔母が枕元でフルートを吹いても何の反応もなかったということだ。自分ごときが行ったところで……


「私は行くよ」

 

 デザイナー・イラストレーターとして在学中から一定の収入を得ていた姉は、大学の卒業と同時に個展を開くことになっていて、その準備に奔走していた。

 当然断ると思っていた達也は、少し驚いた。


「いろいろあったけど、私が天からもらった才能のいくつかは、お祖母ちゃんからもらった宝物だと思っているから。そこは感謝してる」

 

 そうはっきりと言える姉が羨ましくもあったが、じゃあ僕も行く、と言えない達也は、自分の中の祖母に対するわだかまりがどうしても溶けないのを改めて感じていた。

 祖母は大学に通う姉にだけ、毎月二万円のお小遣いを渡していた。女の子は何かとおカネがかかるでしょうと言って。

 女の子は、ではない。もし自分が今の容姿で、さやかの妹に生まれていたら、なおのこと外見にこだわる祖母は自分を邪険にしただろうし、お小遣いももらえなかっただろうし、自分は姉をより憎んで育っただろう。いい遺伝子を全部、奪っていった姉を。

 たぶん男に生まれたぶん、まだましだったのだ。


 結局、姉は父と施設にお見舞いに行った。誰が行ってもいつ見ても目を閉じてるんだ、ただ呼吸しているだけ、と父は言っていたが、姉はやはり特別だった。

 姉が到着して

「おばあちゃん、来たよ。さやかだよ」と声をかけると祖母はぱちりと目を開けて、明らかに「意志をもって」姉の顔を見たという。

 震える手を布団から出すと、その手を姉が握り、黙って見つめ合って、1分としないうちにまた眠りに落ちたという話だった。

 自分にはできないことだ。

 やはり、行かなくてよかった。達也はそう自分に言い聞かせた。


「後ろめたさなんて感じなくていいわよ、私だって歓迎されないとわかって行かなかったんだから」と、母は達也の心を見透かしたように言ってくれた。


 祖母はそれから一週間後の明け方、誰の到着も待たずに一人息を引き取った。

 

 葬儀は、できるだけ小さいものにしてほしいと望んでいた祖母の意をくんで、「火葬葬」にした。

 祭壇も設けず、ただ会場の片隅に花束を載せた棺を置いて、親族十人足らずで顔の部分の窓を開けてもらい、別れの言葉を告げる。あとは火葬場に運ぶだけ。

 まっ白に冷たく閉じられた祖母の顔は、もうあの世で菩薩天にでも抱かれているかのように、穏やかに、どこか幸せそうにすら見えた。

「さよなら」

 達也の口からようやく出た言葉は、それだけだった。

 

 それぞれがそれぞれの役目を存分に果たしたと思っていたからだろうか、父も母も叔母も姉も、誰も泣いているものはいなかった。

 

 火葬が終わって白い骨となった祖母は、何かからりと自由になった人の魂の結晶のようだった。砕けた骨のところどころが、虹色に染まっていた。

 美しい、と達也は思った。

 生きていたときより、今の方が、ずっと美しい。

 あんなにおしゃべりだったのに、こんなにしんと静かになって。

 まっ白に焼かれたら、もう、何も言うことはできないんだな。

 何も言えなくなって初めて、人は美しくなる。

 それが、達也が祖母の死を通して得た、実感だった。


  一年後、一周忌の法要が五日市の菩提寺で行われることになった。

 

「今体の具合悪いし暑すぎるから」と姉は参加せず、麻子叔母は姑の具合が悪くて介護の手が離せず、結局、参加したのは母と父と達也の三人だけという寂しい法要だった。

 

 お堂の中でのお経が終わると、一人ずつ焼香し、花束を抱えて住職さんとともにお墓へ向かう。

 小高い山を抱えるようにしている菩提寺の裏山の中腹にあるお墓までは、古い石段が続いている。   

 九月に入ったばかりで、当日は朝から焼けつくような日差しが遠慮なく降り注いでいた。口を開くのさえおっくうになる難行苦行の階段は、なぜこんな場所に墓を建てた、と一番若い達也も一言いいたくなる道のりだった。

「お祖母ちゃん、怒っているかしら。結局戒名をつけることになって」と日傘の下で母がつぶやくと

「戒名なしで寺の墓地に入れると思う方が非常識なんだよ」と父はいつもの調子で言った。

 汗をふきふき、ようやく墓所にたどり着く。

 さて花を生け、お経をあげようという段になって、住職さんが言った。


「ありゃ。卒塔婆を忘れた」

「しまった、水を持ってくるのを忘れた」と父。

「……」暑さに弱い母は猛暑の中に立ち尽くし、ただ無言だった。

 参加した誰もがこの暑さでやるべきことを頭から蒸発させていたのだ。

 

 それきり誰も口を開かないので、

「僕が持ってくるよ」と達也が言うしかなかった。


 住職さんは恐縮しながら、達也に卒塔婆を置いてある場所を教えてくれた。

 専門用語が多くてわかりにくかったが、何とか頭に入れ、達也はひたすら石段を下りた。


 一人で本堂に入ると、読経を聞いていた時よりもひやりとした空気を感じる。本堂の天井から下がっている金色の天蓋てんがいの奥に、厨子に守られてご本尊が祀ってある。さっきは気にならなかったが、この煌びやかな天蓋の下でさっきまで住職が叩いていた巨大な木魚は、複雑な装飾で飾られた、奇怪な生き物のように見えた。ひとたび異様と思えば何もかもが異様に見えてくる。この伽藍のすべてが、よく考えれば異世界の模型なのかもしれない。

 本堂のさらに奥の位牌堂の入り口に、卒塔婆が立てかけてあると、住職は言っていた。

 あの、三方をずらりと位牌が囲む、細長い異様な空間。外の光が入らず、入り口の仏壇から漂う線香の香りが重苦しい、閉じられた世界。達也はあそこが苦手だった。まるで異界への入り口であるような、「死人の別名」が並んでいるさまが、生理的に嫌だったのだ。

 さっさと卒塔婆をつかんで本堂へ逃れよう。ありがたいことに、すぐ目に付く場所に卒塔婆はあった。が、それを手にしたとたん、達也の横を気配もなくするりと人影がすり抜け、そのまま位牌堂の中ほどにゆっくりと正座した。


 達也は凍り付いた。


 短い白髪のおかっぱ。青紫の手作りのワンピースに、レース地のスカーフ。


 ……お祖母ちゃん。


 その姿にははかなさも透明感もなく、肉のつまった人の体として普通にそこに存在していた。だが、見間違いの余地はない。どう見てもそれは、自分が長年見知っている父の母、八重子お祖母ちゃんその人だったのだ。

 次の瞬間、このわけのわからない真夏の怪異から逃げるように、達也は我知らず口にしていた。


「お経、いっしょに聞いていたの」

 

 それには答えず、向こうを向いたまま、「お祖母ちゃん」は答えた。


「暑いのに、あなたにこんな苦労かけてしまって、ごめんなさいね」

 

 達也は、普通に会話できることに驚きと安堵を感じ、普通に普通にと努めながら心を落ち着かせた。こういうこともある、この世にはあるのだ。目の前に立っている二本のろうそくに、ぽっと自然に火がともった。


「戒名つけちゃって申し訳ないって、お母さんが言ってたよ」

 声の震えはどうしようもなかった。


 背中を向けたまま、「祖母」は言った。


「生き方は選べても、死に方は選べないものね。

 どこでどうして死んだらいいか、どんな風に死んだらいいか。考えていたのは、あとあとみんなに後始末をお願いしないで済むことだけ。

 だからわたし、お寺のお墓に入るのはいやだったの」


「……そうだったんだね」


 達也は答えながら思った。自分が今話している相手は誰だ。幽霊か。幽霊って、こんな風に血の通った存在として目の前に現れて、普通に会話できるものなのか。ありえない。これは夢じゃないのか。


「死んでしまえば、暑いも寒いも苦しいもないけど、みんな暑い中であなたを待ってるわ。早く行ってあげて」


 それからふと斜めに振り向いて、言った。


「あなたはいい子よ。二人とも、いい子。お母さんはいい子育てをしたわ」


「お祖母ちゃん……」


「早く行ってあげて」


 さらりと白髪で横顔を隠して祖母は向こうを向いた。


 達也は卒塔婆をつかみ、そのまま位牌堂を出ようとした。今振り向いたら何が見えるのだろう。お祖母ちゃんはこちらを向いているのか。それとも、背後に立っているかもしれない。いや、そんな嫌な気配はしない。

 思い切って振り向いてみた。


 そこには誰の姿もなく、ろうそくの炎も消えていた。


 達也は何も考えないようにして、本堂の外に出ると水場に行ってバケツに水を汲み、卒塔婆とバケツを抱えてのしのしと墓所への道を歩いた。

 お祖母ちゃんと話している間、位牌堂の中は今考えれば、異様な寒さだった。そして今も、寒気が全身を支配している。真夏の日差しも、ろくに感じない。そのことで、今経験したことがただの夢幻でないと信じるに十分なぐらいに。

 それにしても、お祖母ちゃんはもう「困った変人」ではなかった。

 あの遺骨を拾ったとき感じたように、この世を離れ白々と透き通って、ただ素直で優しい思いだけがそこにあった。

 死とはそのようにどんな人をも浄化させるのか。それにしても、どうして僕に会いに来たんだろう。どうしてもあのことを伝えたかったんだろうか、そんなに強い思いをもって。

 達也の中で八重子お祖母ちゃんという人の印象が、静かに変わりつつあった。

 自分も母も、それなりに愛されていたのだ。

 だがこの気持ちを、自分の経験を、共有してくれる人などいないだろう。だから僕は、このことを誰にも話すまい。自分は知ったし聞いた、人に話せば暑さのせいとどうせ馬鹿にされるだけ。だから、心にしまっておけばいいんだ。だけどそれが、果たしてできるだろうか。


 考えているうち、皆が待っている墓所についた。

 まず父が、「やあやあ、暑かっただろう。ほんとに達也がいてくれて助かったよ、ありがとうな」と言いながら水を受け取った。

「ほんとよ、あなたがいてくれなかったらどうにもこうにもできなかったわ、ご苦労様」と母。

 

 だが住職だけは、なぜか固い表情をしていた。

 

 卒塔婆を「大変なご苦労を掛けたね」と言いながら受け取りはしたものの、卒塔婆立てに立てかけると、

「お経をあげる前に、ちょっとよろしいかな」と真剣な口調で言う。

「はい?」と達也が言うと


「後ろを向きなさい」

 

 有無を言わせぬ迫力があった。達也は住職に背を向けた。

 けげんな表情の両親の前で、住職は数珠を手に何やらぶつぶつと口の中で唱えると、


「はっ!」

 大声を出して数珠ごと達也の背中を叩いた。


「な、何ですか? いきなり」と母が尋ねると、ゆっくりと母に向き直った。

「この暑さでボケてしまいましてな、卒塔婆を忘れるというとんでもないミスを犯してしまった。実はお経をあげているときから、不穏な空気の揺らぎを感じていましてな。まあ、暑気払いというか、邪気払いというか」

「でも、どうして達也を……」

「ああ、頼んでおいて申し訳ないが、位牌堂はあまり一人で入るところではないのですよ。

 油断していると、会わなくてもいいものに会ってしまう。だが、それがいかん存在だけというわけでもない。よい出会いの時もある。

 しかし達也君は若い。一応、清めておいた方がいいものは清めておこうと思いましてな。念のため」

「はあ……」

 父が間抜けな声を出した。


「身体はどうかね」住職は優しい口調で聞いてきた。

「さっきまで実は寒かったんだけれど、今は、暑いです」

 達也は正直に答えた。

 住職は笑った。

「ははは、まったくだ。今日は実に暑い。わたしが卒塔婆を忘れ、お父さんは水を忘れるほどだ。だが、あんたは何もかも忘れんでいい。覚えておいた方がいいこともある。さ、お父さんとお母さんと一緒に、お花を供えなされ。それから丁寧にお経をあげましょう。

 仏さんが何の心残りもなく、行くべきところへ行けるように」


 以後、達也は位牌堂で見たことを、誰にも語ったことはない。


「あのね、別に信じてもらわなくてもいいけど、私見たのよ。

 お経をあげる住職さんの向こう側の空の座布団にうつむいて座ってる、お祖母ちゃんの透き通った姿を」

 とひっそりと教えてくれた、母以外には。


                               

                               <了>

余計な情報かと思ったのですが一応。この小説は、実話をもとにしたフィクションです。フィクションがどこかは読んだ方にお任せします。

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