夏りんごとタカハシくん
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あたしの職場はフリーアドレスだ。会社が出来た折から導入された――もう十年以上も前の話だ。当時としても画期的でもなんでもなかったのだけれど、ええかっこしいの社長の鶴の一声だったらしい。言ってみればその名残り――ウチはどの「島」で仕事をしようがまさに自由なのである。
とはいえ、なんというかその、「毎日居場所を変えて社員のあいだのコミュニケーションを活性化させよう」との意図はわかるのだけれど、フツウに考えて、毎日毎日違うヒトとテーブルをともにするとなると、それはそれで窮屈だし結構なストレスだ。仕事なんてデスクワークが少なくないのだから、はっきり言って、ぺちゃくちゃしゃべっている余裕なんかない。真剣な顔をして話し込んでいる奴がいるとするなら、そいつは相当な暇人か相当な意識高い系だろう。偉そうな文言を仲間内でのたまう自慰的行為に酔っているのだ。馬鹿かと。死ねと。そういう連中ほど決まって仕事ができない――経験則である。
多くの社員はまともだから、やがてフリーアドレスは名ばかりのものとなり、結局のところ、予約席のようなものが出来上がるに至った――という寸法である。経歴は立派なのかもしれないけれどちんちくりんにすぎない社長さんに言ってやりたい。フリーアドレスは無意味でしかなく理想論ですらないのですよ、と。ここはニッポンであり、欧米ではないことをきちんと意識してもらいたいものである。日本人の気質として、そこまで開放的ではない。
ITに携わるニンゲンは、ほんとうに頭でっかちが多い。
その印象は確かなものだ――と、あたしは考えている。
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その日、執務室の出入り口の脇にある社員証を認識するとピッと述べるやつ――タイムレコーダーの前に、茶色いかご――バスケットが置かれていた。朝、出社すると、もうあったのである。中に並んでいるのはりんごだった。まだまだ真夏の暑い盛りだということもあり、「あれれれれ? りんごって、今が旬なんだっけ?」みたいな素朴な疑問くらいは浮かんだ。かごにはクリップで名刺サイズのポップが留められていた。「ご自由にお持ちください!!」とあった。二つ並んだエクスクラメーションマークにそれなりの気合いを感じた。男性の字だ。右肩上がりの癖字。無意味に尖った筆跡だ。異様な悪筆とも言う。サイコパスかよと軽く思う。
いつもの席につき、ノートパソコンに火を入れ、立ち上がるまでの間、ハンドタオルで額の汗を拭き拭き、スタバで買ってきたコーヒー――ストローに口をつける。「ひぃぃ、あちぃぃぃ」と、あたしはつい漏らしてしまった。
「ね、暑いよねぇ」
そんなふうに言い、苦笑いを浮かべるように眉尻を下げたのは向かいの席の忍さんだ。春に二十七歳になった女性で、「最近、日に日に肌が潤いを失っていくのがわかるんだ」などと深いことをおっしゃるのだが、そのじつまだまだぴちぴちで――最近、同棲している男性とともに保護猫を迎えたのだという。名前は「トラちゃん」。「シンプル・イズ・ベスト!」と忍さんご自身はたいへんご満悦、たいへん気に入っているそうな。
「忍さん、忍さん」
「なんでしょうか、鈴木ちゃん」
そう。
あたしは鈴木ちゃん、まだ二十五、ぴちぴちっ。
「あのりんご、どういうことですか?」
「差し入れだろうね」
「忍さんが出社されたときには、もう?」
「うん、あった」
「誰の仕業なんでしょうか」
「鈴木ちゃん、仕業て」
「でしたら、誰の差し金なんでしょうか」
「鈴木ちゃん、差し金て」
ツッコミ上手の忍さんは、おかしそうにくすくす笑った。
「あたしはあの字に見覚えがありません」
「私はあるよ。あれは島村本部長の字」
「えっ」
驚いた。
島村本部長って、あの早稲田卒の?
早稲田卒だけでLINEのグループ作っちゃうような、あのいけ好かない島村本部長?
「こないだ、彼、夏休みとってたでしょ? ながーいやつ」
「そうなんですか?」
「うん。インスタに画像アップしてた。古いお宿、アサムシ温泉」
「アサムシ温泉?」
「鈴木ちゃん、地理に興味は?」
「ないッス、先輩」
「本部長は地元が青森なんだな」
「ああ、それでりんごですか?」
「そういうことらしいよ」
あたしは島村本部長の仕事ぶりはおろか、性格すら存じ上げない。「やり手だ」との評判を聞くこともあれば、「あのおっさんは風呂敷を広げるばかりでたたみ方を知らない」なる陰口を耳にすることもある。ただ、多くの有名メーカーにコネがあるとかなんとか。
「りんご、この時期のは特に夏りんごっていうらしいよ」
「ほぉほぉ、夏りんご。で、それっておいしいんですか?」
「さあ」忍さんは両手を広げて、首を横に振った。「そのへんは、自分で確かめればいいんじゃない?」
「えー」なんだかあたしは乗り気がしない。「まずいものが送られてきたから押しつけてやろうという意図が見え隠れするのでは? だとすると、これって新手のパワハラなのでは?」
「鈴木ちゃんはネガティブなのね」
「かもしれません」
島村本部長が夏りんごを、言ってみればトップダウンでねじ込んできたということはわかった。良くも悪くも忠実さが売りの「運S部」の長は夏りんごを不問に付すだろう。農作物のお裾分けなどという古いタイプのやり取りについては皮肉に顔を歪めていることだろうけれど。気のいい、あるいは人がいいだけとされる「運S三課」の山田課長なんかはしっかり頬を緩めるかもしれない。
唐突に、一抹の不安。
夏りんご、誰にももらってもらえなかったら、不憫だな……。
十分、ニ十分と経過するうち、いよいよどんどん執務室には社員のみなさんが入ってきた。が、りんごはやはり見向きもしてもらえない。都会とはそういうものだ、東京とはそういうものだ、天王洲とはそういうものだ。
そのうち、知った顔が入ってきた。入社三年目。寝ぐせのついた頭に黒縁眼鏡のタカハシくんである。遠目にも、今日も汗びっしょりなのがわかる。満員電車に揺られてきたのだろう。あたしはそんな様を見るたびに「タカハシくんってなんて馬鹿な奴なのだろう」と思うことにしている。一時間でも三十分でも家を早く出れば、それほどラッシュに巻き込まれるなんてことはなく、案外、すっきりとした顔で出社できるものなのだ。よって甘えだな、甘え。正直言って、あたしはタカハシくんのことを軽んじている。
さて、タカハシくん、タカハシくんは、タイムレコーダーの前で立ち止まっている。明らかにりんごに興味を引かれている。あたしは訝しむように眉を寄せ、のち、席から腰を上げて近づき、「タカハシくん、時間時間。遅刻になっちゃうよ?」と教えてあげた。「あっ」と慌てたように、タカハシくんはレコーダーに首から下げている社員証をかざした、ピッ。
「遅延証明書の常習犯め。いっさい感心できないんだけど?」
「あうぅ、ごめんなさい……」
「冗談だってば。で?」
「あ、はい、りんご、これ、もらっちゃっていいんですか?」
「よいのでは? わざわざポップまで付いてるんだし」
「でも、誰ももらってませんよね?」
「そうだけど」
なんだ?
この冴えない青年は何を訴えようとしているんだ?
「ぼくはいただきます」タカハシくんは照れ臭そうにえへへと右手で頭を掻き掻き、左手でそれなりに赤いりんごを持ち上げた。「やったー。りんご、大好きなんですよ」
「それはよかったね」
「はい。とてもよかったです」
「早速、食べるの?」
「えっと、食べません」
「そうなの? どうするの」
「えっと、えっと……」
まったく、「えっと」が多い人物である。
生来、煮え切らないニンゲンなのだろう、そんな節は、確かにある。
うふふ、うふふ。そんなふうに、タカハシくんは気味悪くにこにこしながら、りんごを一つ、大切そうに持ってゆく。どこに輸送したのかというと、自販機の隣に設置されている背の低い冷蔵庫の中だった。なるほど。しっかり冷やして食べようというわけか。それならなかなかおいしくいただけるかもしれない。なにせ暑い時期なのだから。
嬉しそうな表情を浮かべたまま、タカハシくんはいつもの「島」に向かう。「島」には、「人がいいだけのマネージャー」との評価が根強いまだ若い山田課長と、「まるで使えないデブ」との扱いに終始する四十五の先輩がいる。そんな環境に置かれているものだから、本人の能力うんぬんを問う前に、なんらかの不可抗力にタカハシくんが晒されやしないかと、あたしは密かに心配している。
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二日経って、たまたま残業していたあたしは、十八時になって社に戻ってきたタカハシくんを見かけた。全身でしんどい感を醸しだしていて、席に着き、ノートパソコンを広げると、彼はしょんぼりと肩を落としたのだった。泣きだしそうな顔をしている。三課は規模が小さいわりに顧客が多く、ビッグなアカウントも抱えている――某車屋さんだ。出先を示すホワイトボードにもその車屋さんが記されていた。でも……おかしいなとは思っていたのだ。今日に限って、定例会に出席するニンゲンがタカハシくんと営業さんの二人だけだったらしいから。
その事実から、だいたい、見当はついた。主担当である「まるで使えないデブ」と、その上司である「人がいいだけのマネージャー」が致命的なまでに先方からの信用を失ってしまったのだろう。だから、まだまだペーペーとは言えまだマシな――もっと言えば言ったら言った分だけ言うことを聞かせられる若者を窓口に据えさせようと考えたのだ。
あたしは書類の処理がちょっと得意なだけの事務のニンゲンだ。でも、エンジニアの、それに営業のみなさんがいかに苦労して顧客対応をこなしているのかは知っているつもりだし、だからこそ、「大きなお客様」に生贄のように差し出されたタカハシくんを不憫に思う気持ちくらいは抱いた。明らかに貧乏くじを引いていることから、余計にかわいそうに見えるのだ。
角度的にちょうどタカハシくんの顔が見えるので、それとなく観察する。メーラーが立ち上がったのだろう、サブジェクトを見ただけで真っ青になる様子が手に取るようにわかった。タカハシくん、ほんとうに気が小さいのだ、気が弱いのだ。うどん県という立派な土地に生まれようが、本人にそれほどの強いコシはないのだ。
タカハシくんは自販機のほうへとふらふら向かう。福利厚生はしっかりしているから、商品はタダだ。エメマンだってタダだ。得も言われぬ不安感に駆られ、あたしはタカハシくんのほうに向かって歩きだした。タカハシくんは「えっと、えっと」とつぶやきながら、小銭入れを探っていた。だから、金は取られねーっつの。
あたしはいよいよ近づき、「タカハシくん」と声をかけた。タカハシくんは両肩をびくっと跳ねさせた。生まれてはじめてニンゲンに出会ったような驚きっぷりで「す、鈴木さん」と口にした。
「あのさ、あたし、思うんだけど、タカハシくんが悪いわけじゃないよ」
「でも……」タカハシくんは前に首をもたげた。「でも、ぼくがもっとうまくやっていれば、お客さんだって怒らないわけで……」
あたしは呆れた。「ばっかじゃないの?」との声は大きくなった。
「ば、馬鹿?」
「だって、そうじゃん。きみの先輩と課長が悪いんじゃん。部長だって悪いじゃん。本部長なんかもっと悪いじゃん。相手は車屋さんだよ? 名うての巨大メーカーなんだよ? 先方の温度がめちゃくちゃ上がってるのは誰の目にも明らかなのに、だったらまずは一気に火消しをしようっていうのがあたりまえの話なんじゃないの? 言われたら対応するっていう受け身が一番最悪じゃん。それくらい、素人目にだってわかるよ。営業さんだって泣いてるんでしょ?」
「それは……」タカハシくんはあらためて俯いた。
「会議室、取ってあげる。話、聞いたげる」
「そ、そんなのよくないです。だって鈴木さんは――」
「なに? ただの事務だからって蔑むの? 舐めてくれちゃうの?」
言いたいことを容赦なく、人の目も気にすることなく言ってやっているのに、タカハシくんはまだ煮え切らない。
「もはや決定事項でーす。りんごを持ってついてきてくださーい」
「えっ、りんご?」
あたしは振り返り、呆れた。
「ちょっと、自分で冷蔵庫に入れたじゃない。忘れちゃったの?」
「……あっ」
「もう一度言おう。話を聞いてあげるくらいならできるから」
するとタカハシくんは目にじわりと涙を浮かべ――。
きっとそれを認めたくないから、慌てて顔を左右に振ってそれを振り払って――。
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webで予約した小さな会議室。
真っ白な四角いテーブルを挟んで向き合いながら。
「元はどういう話なの?」
「車屋さんですか?」
「それ以外、ないっしょ」
「運用の人たち、常駐してるチームなんですけど、その、それなりに偉い人が営業中に居眠りしちゃったらしくって……」
「はあ?! それで相手はおこだっていうの!?」
「そうですけど……そんなにおかしなことでしょうか?」
ばっかじゃないの!!
あたしはまた、そんなふうに大きな声を出してしまった。
「やっぱりタカハシくん、何も悪くないじゃんっ」
「そうかもしれませんけど」タカハシくんはふいに穏やかな表情を浮かべた。「でも、会社対会社のことなんだから、それも当然のことだと思うんです」
「タカハシくんは役立たずじゃん。だってまだ入社して二年目なんだから」
「それでも」今度はタカハシくん、強い目をしてみせた。「ぼくはやろうって決めたんです。この経験は絶対に財産になる。ずっと社会人として生きていくわけだから、生きていかなきゃいけないわけだから、がんばってみようと思うんです」
ぅぐっ。
不覚にも、気圧されてしまった。
タカハシくん、案外ちゃっかり頼もしいではないか。
「ほんとうに? そう思ってる? 途中で潰れちゃったりしない?」
「しません」タカハシくん、すっきりした顔をしている。「ホント、がんばろうって決めたんです」
「だったら、もう何も、あたしに言えることなんてないけど……」
「気にかけていただいて、ありがとうございます。元気、出ました」
ああ、そうか。気づいた、気づかされたよ。そうかそうか。あんたの弱っちいところとがんばろうとするところ、そのへん、あたしは好きなんだ。好きで好きでしょうがないんだ。とはいえ、その気持ちが恋愛感情にまで発展するかはわからんけれど。
二人のあいだに置かれているりんご、夏りんご。あたしは右手を伸ばして、むんずと赤いそれを掴んだ。ひんやりだ。ホント、よく冷えている。しゃくっとかじった。思いの外、甘くて、つい頬が緩んだ。
元はタカハシくんのだ。
だから、タカハシくんに手渡してやった。
頬を赤く染め、俯いてから、あたしが食べた部分は当然避けて、タカハシくんも歯を立てた。
おいしいです。
そう言って微笑むあたり、ほんとうにりんごが好きなのだろう。
「飲みに行こうよ、タカハシくん。断っちゃう?」
「だいじょうぶです。今あるのは明日までの宿題です。明日できることは、明日やります」
「へぇ。賢いじゃん」
それでいいんだと思うよ?
と、あたしは少々、先輩風を吹かせてみた。
うまくできなくて、歯がゆいのだろう。
どうあれ、現状が苦しいのだろう。
でも、だいじょうぶ。
がんばるって言えるニンゲンは、きっと――ううん、絶対にがんばれる。
ぽろぽろ泣きながら、しゃくしゃくりんごをかじるタカハシくん――。