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《 第三章 》綺麗ごと、隠しごと、本当のこと(2)

 学校を出ると割とすぐに気分を持ち直すことができた。時也がいきなりわたしの手を掴んで「双葉の手、冷たい」と言って、そのまま手を繋いでくれていたからだ。けれども頭の中は相変わらずごにゃごにゃしている。気持ち悪いのはあのふたりなのかわたしなのか、それとも両方なのか。ごにゃごにゃしすぎて、そんなことを思う理由がわからない。この気持ち悪さは嫌悪感だと思っていたけれど、どうやらそれとは少し違うような気もする。

 学校を挟んで、自分たちの通学路を逆に歩くと、大きな通りの交差する角っこに古いスーパーがある。近くにチェーン店の安いスーパがあるけれど、そこそこには人が入っているらしい。理由は、あまり見かけない製造元の商品や生産量が少なくて手に入りづらい商品がたくさんあるからだ。商品が並べられたり積まれたり詰め込まれたりと狭苦しく、買い物かごですれ違うのが精一杯。そのため、カートは置かれていない。お菓子の品揃えも選ぶのが大変なほど沢山ある。あまり見かけないものを発掘するために、わたしと時也は時々このスーパーへ出かける。

「今日はどんなの食べたい気分?」

 先の方に見えてきた『とんとん』というスーパーの看板をぼんやりと見つめていたわたしに時也が聞いた。

「とことん甘いやつ。甘ーいチョコでコーティングされてるみたいなのがいいかなあ」

「了解、了解ー。とにかく甘そうなやつね」

 そして、輸入菓子にしようとふたりで決めた。いつもわたしたちは目的を決めてから買いに行く。そうでないと延々と決まらない。初めて行った時がそうだった。

 あの光景を見た後味はとても不味かったから、甘いチョコレートで満たしたい。口直しが必要だ。そうしたら、少しはごにゃごにゃしたものが鎮まるだろうか。

「なあ、双葉ー。なにがあったの? 俺が聴いても平気なこと?」

 唐突に時也がそう言った。

「大丈夫。だけど、誰にも言わないなら」

「任せろ、言わない」

「じゃあ、あとで話すね」

「お菓子のお供になるような話?」

「そうでもない。けど、お菓子でもないと話す気になれない」

 そうして時也が「そっかあ」と悩ましげな声を出した。

 スーパーへ着くとお菓子売り場へ直行する。相談しながら悩みに悩んで購入したものは、ウエハースにものすごく甘そうなチョコレートがコーティングされた輸入菓子。たぶんベルギー産。名前はさっぱり読めない。他にもいくつかしょっぱいやつと甘いやつ。飲み物も買った。わたしたちはわたしの部屋でゆっくりと話をすることにしたから、お菓子ひとつではきっと足りない。お母さんが喜ぶ顔が想像できるけれど、わたしは深刻だ。

 時也が居てくれてよかった。なんでも話せて、なんでも聴いてくれて、いつも素敵な言葉をくれる。そばに居てくれて、本当によかった。



 家に着いて、玄関で時也が「おじゃましまーす!」と元気な声で言った。リビングから飛び出してきたお母さんは上機嫌だ。

 「時也くん、もっと遊びにいらっしゃいな」とハイテンションで言うから、時也が困ったように笑った。そのあと、「そうさせていただきます」と言った声は照れくさそうだった。お母さんが「お夕飯、食べていかない?」と誘うと、時也の顔はぱっと輝いた。嬉しそうに勢いよく「はい!」と答えた時也は、お母さんの料理を絶賛している。

 お母さんの視線が、わたしたちが提げている買い物袋を捉えた。

「お茶もおやつも出す必要ないじゃないのお」

 悔しそうにお母さんは言ったから、時也もわたしも苦笑いを浮かべた。

「わたし、着替えるから。時也、少し待ってて」

 そう言うと、わたしは慌てて靴を脱ぎ玄関から部屋へ向かった、制服からお気に入りの部屋着へ着替える。正兄から去年のクリスマスプレゼントにもらった可愛いジャージ。ところどころにリボンやレースが施されている。

 時也を迎えに玄関へ戻ると、時也はお母さんと話し込んでいた。というよりも、お母さんが一方的に話しているに近い。

 と、わたしは階段の最後の段、廊下の角っこで立ち止まった。正兄とわたしの話をしているようなのだ。

「正隆くんはね、双葉が可愛くて仕方ないから。あの子の理想を壊したくないのよ」

 お母さんの、そんな言葉が聴こえてきた。

 どういうことだろう。どういうことだろう。わたしの知っている正兄は偽りってことなのだろうか。ごにゃごにゃごにゃごにゃして、わたしはなかなか二人の前に出ていけなかった。暫くして話題が変わるまで、わたしは動けなかった。

 階段を上がりながら、時也が言った。

「随分、時間かかったね」

 わたしは「そうかなあ」と濁した。

 正兄の本当の姿、かあ。準備室のあれが本当の正兄なのならば、他にはどんな正兄がいるのだろう。わたしの知らない正兄、知るべきか知らないままでいるべきか。でも、わたしは少しだけ知ってしまった。

 テーブルの上に広げたお菓子を、わたしは暫くの間、黙々と口に運んでいた。ゆっくりとお菓子をつまむ時也の目は心配そうだ。

 甘さで胸が満たされた頃、わたしは口を開いた。

「あ、あのね! すごいもの見ちゃったの……」

 勢いよくそう言ったものの、最後の方はすぼんでしまった。時也の、首を傾げながら言った「すごいもの?」というあっけらかんさに、わたしはしっかり話す自信が失せてきた。

「美樹と正兄が……」

 と言った声はどうにか出したから、蚊の鳴くようにか細かった。時也は眉を顰めた。美樹と仲が悪いから、嫌気を覚えたのだとわたしは思った。

「あの噂、そういうことかあ」

「噂?」

「先生さ、小野川の贔屓がすごいって、一部で噂立ってるんだ」

 美樹が正兄に贔屓されていることよりも、正兄が誰かを贔屓しているということがわたしには衝撃だった。ちょっと言葉が見つからない。正兄は誰に対しても何に対しても平等を崩さない人だ。学校ではわたしのことも一生徒として扱う。

 きっとわたしの顔は困惑の色で塗りつぶされているのだろう。時也が「双葉?」と言った。わたしは答えることができなくて、お菓子に手を伸ばし、一つ食べて、また一つ食べた。すると時也が言った。

「俺さ、嫉妬とかしといてなんだけど、先生のこと好きなんだよねえ」

「え?」

「普通の男の人って感じがしてさ」

 わたしは耳を疑った。あんなに嫉妬していた正兄のことが好き? 正兄が普通の男の人? 時也の言葉は素直に飲み込めそうになければ、普通という点はまるで納得がいかない。けれどもわたしはもう知っている。正兄はとても普通の人だったと。

 お菓子を摘む手が早くなっていく。ぽんぽんと口に放り、ぱくぱく噛んではごくりと飲み込む。わたしは次の言葉が欲しくない。自分の言葉も時也の言葉も。時也が困っている。困らせるような態度であることはわかっている。

「双葉ぁ」

 時也の呼びかけに、はっとして顔を上げた。時也はいつもの、普通の顔で頰付けを突いてわたしを見ていた。

「喉詰まるよ」と言って、ペットボトルのお茶を渡してくれた。

 わたしはごくりと一口飲むと、ペットボトルをぎゅっと握りしめた。

 無造作に摘んでいたから、口の中はいろんなお菓子の味でごちゃごちゃだ。少しだけ口がすっきりした気はする。だから、口を開いてみた。

「正兄と美樹が、空き準備室でいやらしいことをしてるの見ちゃったの」

 時也の顔が真剣なものになった。そして「最低」と呟いた。「そうなの。最低」とわたしも呟いた。でも、きっとわたしも最低だ。覗き見ていたのだから。それから少しの間、沈黙が降りた。わたしは時也の顔を伺いづらくて俯いていた。自分がどんな顔をしているのかもわからないから、なんとなく顔を見られるのが嫌だ。頭の中も心の中もごにゃごにゃしだした。ちょっとお菓子を摘むどころではない。

 長い沈黙のあと、わたしは恐る恐る口を開いた。

「それでも……正兄は、普通、なの? 美樹も……」

 わたしの問いに、時也は考えあぐんでいるようだった。閉口してしまった。

「学校で、教師と生徒が、誰が来るかもわからないのに、ドア開けっぱなしで!」

 なんだかわたしの語調は強くなってきてしまった。自分が怒っているのか、だったら誰に怒っているのか、よくわからないごにゃごにゃがそうさせているのだと思いたい。正兄を軽蔑なんてしたくない。美樹を軽蔑なんてしたくない。それに恋愛は誰としようと勝手だって思う。けど、けど、けれど……。

 再びわたしはぐっと俯いた。なんだか涙が出そうだった。太腿の上でぐっと拳を握りしめた。言ってしまったのに、どうしていいかわからない。気が付けば、強く歯を噛み締めている。何が正解でどれが不正解なのか、事実も気持ちもごにゃごにゃ混ざってざわざわする。ひとつだけわかることは、わたしは真っ直ぐが好きだということ。曲がったことは嫌いだ。

 ……それなのに、今、ごにゃごにゃしているわたしは、ひどく曲がって捻くれている、のかもしれない。

 時也の「手、冷たい」という声が耳元で聴こえた。手には時也の手が重ねられている。わたしはそれまで、時也がとなりに来てくれていたことにまるで気付いていなかった。

「……よくわからないの」

 そう言ったわたしの声は震えてしまった。よくわからない、そう、なにがなんだかわからない。「うん」と時也が優しい声で言った。それからわたしは「自分が気持ち悪いの」と言った。

「どうして?」

「目が離せなかった」

「うん」

「汚らわしいって思うのに……」

 時也がそっとわたしの手を引いた。そして抱きしめてくれた。わたしは堪えていたものが抑えられなくなり、時也の肩を濡らしてしまった。それから時也が頰にキスをしてくれた。わたしたちはもう直接的なキスを知ってしまったのに、気持ちがいいものだと知ってしまったのに、時也は頰にキスをして、わたしは無性に安堵を覚えた。

 自分たちもいつか、ああいうことをするのだと思う。けれどもちゃんと場所は選ぶ。時也もわたしも確実にそういう質だ。だからわたしは、正兄と美樹を、自分たちとは違うと区別することで落ち着かせるしかなかった。

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