《 第二章 》ごにゃごにゃしたもの(2)
夕食の団欒、いつもうちはお話をしながらゆっくりと味わう。今日のわたしは学校での出来事をあまり話さなかった。聴き役に徹しながら、時也が買ってきてくれた新発売のお菓子のことだけはついつい熱弁してしまった。目が輝いてるとみんなが笑う。正兄が、今回の中間テストはどれも平均点が高くてと嬉しそうに話した。お父さんの同僚にはへんてこな人がいて、その人の今日のへんてこ話を聴かせてくれた。お母さんは、思い出したように正兄に「あとで双葉の相談に乗ってあげて」と言った。「もちろん」と言った正兄が心配げな目を寄越したけれど、わたしは作り笑顔でやり過ごした。深刻だけれど、今は深刻にしたくなかったのだ。あまり重い気持ちで相談があるのとは言いたくない。
食事が終わり、一度部屋へ戻ったわたしは考えた。どんな風に話したら、正兄はがっかりしたり呆れたりしないだろう。今までそんなことは一度もなかった。今回は内容だけに不安が過ぎる。けれども、みんなが頑張ったねと言ってくれたみたいに、正兄にはそれを言われたくない。
机でもなく、部屋の真ん中にあるテーブルの周りでもなく、ベッドにごろんとなりながら考えていたけれど、埒があかないからわたしは勢いよく体を起こし、意を決して立ち上がった。
と、ドアがとんとんと叩かれて「双葉、いる?」と正兄の声がした。「うん!」と言った声は元気そのもので発せられた。
「開けていい?」
という正兄の声に「どうぞ」と返す。
ドアを開けた正兄は開口一番、笑いを堪えながら言った。
「部屋の真ん中でなに突っ立ってるの」
「ちょうど今、正兄のところに行こうとしたの!」
嬉しそうな顔を作ってわたしは言った。
正兄は入り慣れたわたしの部屋で、テーブルの前に座り込んだ。
「で? 相談ってテストのことかな?」
「え、なんでわかるの?」
「だってタイムリーじゃない」
わたしは机の上から答案用紙の束を手にした。正兄の斜向かいに座り、答案用紙を差し出した。正兄が真剣に目を通していく。ものすごくどきどきする。曇った顔はまだしていないけれど、真剣な面持ちがそんな風に変わっていったらと思うと気が気じゃない。
しばらくして、正兄が「うん」と言った。正兄相手にわたしはやたらと緊張していた。相手は正兄だというのに。
「頑張ったじゃない」
正兄はそう言った。結局、正兄までそう言った。落ち込むようなことを言われるのを恐れていたくせに、わかっていた。わかっていたわたしは、結果、落ち込んだ。
「納得いかなそうな顔してる」
そう指摘した正兄は微笑んでいた。頑張れなかったわたしは微笑めない。
お母さんの夕方の言葉は確かにそうだったから、そう思うしかなかった。けれども経緯と結果は別物だ。わたしは結果を残したいのだ。
「あのさ、双葉。挫折する時なんて誰にでもあるんだよ」
正兄はまるで美樹と同じようなことを言った。
「挫折して頑張って成功してはの繰り返し。それが人間」
挫折など知らないだろう正兄や美樹にそんなことを言われても、とわたしは思った。言葉が見つからない。駄々を捏ねる子供のような反論をしてしまいそうだ。
不満そうなわたしに、正兄が困った顔をした。それから正兄は言った。
「俺だって挫折ばっかり。でも、今の自分には納得してるかな」
「正兄が挫折? あり得ない」
思わず思ったことを口にしてしまった。まるで不服そうに。
きっと正兄は気を悪くしてしまっただろう。そう思ったのに、正兄は笑っていた。それから「王子様だって完璧じゃないんだよ」と言った。
「俺、いつまでも双葉の王子様でいたいから、俺の挫折話、教えてあげる」
「今までそんな話聞いたことない」
きっと、聞きたくないと聞こえただろうに、正兄は気にした風もなく話しだした。
「俺ね、双葉じゃないけれど、毎回テストの点が良かったわけじゃないんだよ。どちらかといえば、双葉よりもすごくない。普通も普通、そんなところ」
「……知らない」と言ったわたしは本当に知らない。正兄は完璧だと思っていた。
「ちょうどいいから、いろいろ話してあげる。実はさ、大学受験、失敗してるんだ。滑り止めに受けた学校も難関校だったから、双葉は気付かなかったのだと思う。行きたい学科には行けたよ。好きなこと勉強して楽しかったから、院に行って研究者の道を進みたかったんだけどさ、受けた院、全部落ちた。やっぱり大学でもそんな良い成績取れていなかったんだよね。就職活動には遅すぎて、教免取ってたから教師になった。それだけ。たまたまさ、うちの学校に空きがあったからラッキーだったよ。流石に落ち込んだ、初めはさ。教師になっても、最初は上手くなんていかなかったし。俺、それほど出来た人間じゃないんだわ。神童なんて呼ぼれてこっち来たけど、上手くいっていたのなんて、中ニくらいまでかな。差ができはじめて、上には行けなくなった。どんなに努力しても」
今に満足していると言った正兄の口調は、その時期を挫折なんて思っていないように感じた。
わたしは完璧になりたい。不完全は嫌だ。無駄に一喜一憂するのが嫌いだ。
正兄が完璧じゃなかったことを知ったわたしはがっかりとした。
「ごめん。双葉が目指す王子様でなくて」
正兄がわたしの内心を読んだように言った。
それでもわたしはもう完璧を目指すことをやめられそうにない。正兄は永遠にわたしの王子様だ、きっと。じゃあ、これからはなにを目指して完璧な自分を作り上げていけばいいのか。わからない。
それからというもの、日常までがぐにゃぐにゃしはじめた。なにに頼れば自分を保てるのか、わからなくなってしまった。目指しつづけてきたものは、そう簡単には手放せない。憂鬱な日々が続いている。わたしはどんどん沈み込んでいった。
癖で、目は相変わらず正兄を追ってしまう。正兄との日々は変わらないのに、わたしのがっかりとした気持ちは立ち直れない。いつもと違う目で正兄を見つめるわたしを、美樹はひどく心配してくれるけれどもと、なにがあったのかは聞かないから、少しだけ楽にいることはできる。
みんなの輪の中にいる時のわたしは作った明るさで相変わらずみんなとはしゃぐ。けれどもそれは、とても疲労を齎す。
ある時、正兄を見ていたら、美樹がこれまでは違う目でわたしを見ていることに気づいた。とても優しげな目を寄越している。それからというもの、美樹はいつもそんな目をわたしに寄越すようになった。
頭の中は整理が付かず、相変わらずごにゃごにゃだ。そうして気も沈んでいる。どうして美樹はいきなりそんな目でわたしを見るようになったのか、不思議で疑問で、けれども考える余地をわたしは持てない。もやもやして、なんだか落ち着かない。
「正隆さんとなにかあった? それともあいつ?」
美樹は絶対に時也の名前を呼ばない。ここまで毛嫌いする理由はなんだろう。とにかく、美樹はわたしと時也が付き合うことが不服のようだ。付き合いはじめた頃からずっと。だから、その辺はもう当たり前になっていて、気にしても仕方ないのだと思っている。疑問ではあるけれど。
「どちらでもないよ」
わたしがそう答えると、美樹は揶揄うように言った。
「お菓子食べ過ぎて、太っちゃった?」
思わずわたしは渋い顔をしたら、美樹は安心したように笑った。それから言った。
「うん、まだ大丈夫ね」
美樹は仰々しい励まし方をすることはない。この言葉も、とても自然なもので、わたしは嬉しくなった。けれども、わたしの中にあるごにゃごにゃは落ち着かない。
「美樹、大好きだよ」
そんな言葉が口から飛び出したら、「わたしも」と美樹は柔らかく言った。
「理由、言えなくてごめんなさい。でも、言いたくないことなの、誰にも」
「そういう悩みもみんな抱えながら過ごしてると思う」
「親友に隠しごとされるの、嫌じゃない?」
「そんなことないよ。双葉だから、むしろ双葉らしくていいと思う」
そんなことを美樹は言った。話したとして、美樹までがっかりしたら遣る瀬無い。だから言えない。
「ただ、ひとつだけ。正隆さんも心配しているわ」
あの時、わたしは、それでも正兄はわたしの憧れの王子様だよと言えなかった。きっと普段のわたしなら言っていた。正兄が気にするのは当然かもしれない。今まで通りに正兄と過ごしているから、全然気付かなかった。
わたしは自己嫌悪を覚えて、さらに落ち込みはじめた。一ヵ月経っても変わらない。更に更にわたしの気落ち具合は悪化していった。
時也はいつも通り、元気満々だ。きっと沈んでいるわたしに気付いているけれど、いつも通りの明るさで接してくれる。だからわたしは、時也といる時だけは自然な明るさを保つことができて、いつものように笑っていられた。
学校のいつもの場所でわいわい話をしていたら、時也が首を傾げた。
「なんか忘れてる、俺ら」
二人してうーんと悩みはじめた。思い出したのは同時だった。
「アイス! コンビニ!」
帰りに新発売の渦巻三色ソフトクリームの限定味を買いに行こうと約束していたのを、二人揃って忘れていた。季節外れのいちご味、チョコチップ、あとは抹茶。味が喧嘩しないのかなあなんて言いながら、帰り支度を始めた。
今日は秋にしては気温が低い。お互いに早めのコートを着てきている。寒い外にいるくせに、わたしたちは今コートを脱いでいた。コートを着ないで寄り添って、寒い中でこうしているとなんだかお互いがもっと近くていいねなんて言いながら笑い合ったりしていた。
慌ててコートに手を通し、鞄を背負ってコンビニに急いだ。急いだといっても、手を繋いで歩いているからそんなに早くはない。急げ急げと言いながら急いでいない。きゃっきゃとはしゃぎながら歩いた。
寒い日なのに残り二つになっていた目当ての三色ソフトクリームを購入し、いつものように縁石に腰を掛けてアイスの封を開いた。どきどきしながら一口食べて、「美味しいねえ」とふたり揃って嘆息した。この世で一番の至福の時を得たように。
「ねえ、時也。落ち込むことって良いことなのかな、悪いことなのかな」
もったいなくてアイスを少しずつ口へ運んでいたわたしは、ふとそんなことを聞いてみた。時也が変な顔をした。どうにもわたしは不思議なことを尋ねてしまったようだ。それから時也は困ったような声で「双葉らしい質問ではあるけどねえ」と言った。
「あのさあ」
「うん」
「落ち込んだままいるのなら良くないこと、次に進むために落ち込むなら悪くないこと、そう思う」
時也はとても大人だなとわたしに思わせた。悪いことか良いことか、二択でしか考えていなかったわたしに対して、時也の答えは、落ち込むことも良いことのひとつだと言っているように聞こえた。わたしにはよくわからなかった。違いはわかるけれど、わたしは善悪がはっきりとしている方が好きだし、わかりやすい。良いか悪いか、右か左か、上か下か、きっぱりと分かれているものを追いかけるのが好きだ。ずっとそうしてきた。真っ直ぐに真っ直ぐにまあるくまあるく。
「なあ、双葉。いくら寒くてもアイスは溶けると思うぞー?」
どうやらわたしはぼうとしていたようだ。じいっとアイスを見つめたまま。
「ま、気にしても仕方のないこともある!」
時也はそう言うと、くしゃりとわたしの頭を撫でながら豪快に笑った。釣られてわたしも「あははっ!」と笑った。
気にしなくて良いことなのかもしれない。真っ直ぐを突き通したいわたしが立ち止まるなんて馬鹿げていたのかもしれない。途端にわたしの憂いは晴れてしまった。この一ヶ月が無駄なことだったのかどうかはわからないけれど、時也が気付かせてくれたからきっと無駄じゃない。真っ直ぐが好きなわたしは真っ直ぐに落ちんだ。そういうことにした。
「ほんと、双葉って真っ直ぐだよなあ」
沁み沁みとした声で時也が言ったから、わたしは嬉しかった。笑顔のわたしに、時也が「そんな双葉が好き」と言った。それから時也は首を傾げてわたしを覗き込んだ。すると、時也の唇がわたしの唇に触れた。
唇から熱いものが顔に広がった。急に熱を出したように顔が火照った。
時也はよく頰にキスをしてくれる。わたしはそれが好きだ。あまりにもそれが気持ちよくくすぐったくて、頰のキス以上のことを求め合ったことがなかった。すなわち、わたしのファーストキスを時也がくれた。
顔を離した時也が真っ赤な顔のわたしに慌てている。「ええと……」と言葉にしづらそうに詰まらせた。
「柔らかい」
真っ赤な顔で率直な感想を言ったわたしに、時也はほっと胸を撫で下ろしたようだった。
「なんか、今したくなった」
「うん」
「俺のファーストキス、双葉でよかった」
「わたしのファーストキス、時也でよかった」
そんな言葉を交わしたあと、わたしは思わず「こんなに気持ちいいと思わなかった」と呟いていた。熱さは引いて、心地のよい火照りだけが残っていた。
そうしてわたしたちは、もう一回だけキスをした。