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《 第二章 》ごにゃごにゃしたもの(1)

 正兄は社会科の先生だ。担当は歴史、わたしはこの科目がとにかく苦手だ。うちのクラスの担当が正兄でなくてよかったと思うくらい。

 毎日、正兄はわたしの復習に付き合ってくれる。歴史の授業があった日はそれに徹底してくれる。正兄も、わたしが歴史を得意としないことを知っている。だから、苦手でも少しは気が楽だ。最後に豆テストを正兄は作ってくれるのだけれど、そこでは全問正解ができてしまう。それなのにテストとなると全くだめだ。正兄はわたしの報告に、「大丈夫、そのうち実になるからさ」と励ましてくれる。だからどうにか頑張れる。

 二学期の中間テストが終わり、答案用紙の返却の時がきた。

 名前を呼ばれ、緊張気味に取りに行くと、先生が苦い顔をしていた。「まあ、そんなこともある。気にするなよ」と言いながら受け取った答案用紙を手に、わたしの手はがくがく震えてしまった。きっと顔色も悪くなっていただろう。

 ついに、平均点以下を取ってしまった。いくら不得意とはいえ、今までは平均点をゆうに超えていたのに。

 上の下という成績を維持しているわたしがいつも思うのが、もしかしたら歴史が得意になればもう少し上になれるかもしれないということだった。平均点以下、既に返ってきているものはいつも通り、順位が落ちるのは目に見えている。

 席に戻ると、泣きたいほどを通り越して、わたしは消沈した。努力が実を結ぶこともないのかもしれないと実感した。

 どうしたらいいだろうか。頭に浮かぶのは正兄。この答案用紙を見せるのは怖い。怖いけれども、一番の相談相手に相談するのが適当なのはわかっている。正兄はどんな顔をするだろうか。がっかりするだろうか。けれども、そんなことを気にしている場合でもない。母はがっかりするかもしれない。教育熱心でもなければ過度な期待を押し付けることもないけれど、いつもわたしの頑張りに喜んでくれる。

 休み時間、わたしの席にやってきた美樹が心配そうにわたしの頭を撫でた。俯いたままで、わたしは「平均点以下だった、歴史」とまるで暗い声でいった。

 悲しくて美樹の顔を見上げられないけれど、きっと驚いたり呆れたり、そんな顔をしていると思う。

「わたしは双葉の努力を知っているよ」

 美樹ははそう言ったけれど、わたしは泣きそうな声で「でもだめだった」としか言えなかった。

「努力してもだめだったら、もっと努力。双葉の常套句」

 そんな風に言ってくれても、わたしは気分を変えられない。最悪、なんて最悪。

「そんな時もあるのよ。寧ろ、無い方がおかしいのだと思う」

 優しいけれども少し寂しそうな口調で美樹はそう言ったけれども、成績が常に上位の美樹はぶれることなく成績を維持している。美樹が羨ましい。なんでもすんなりと熟す美樹みたいになれればいいのにといつも思う。

 最後に返却された数学の点数は平均点ぴったりだった。歴史は好きなのに苦手、数学は好きだし得意。それなのに取った点はたったの平均点。こんなことも初めてで、わたしは更に沈み込んでしまった。成績は確実にがたりと下がる。



 放課後、時也と時々待ち合わせする場所で、わたしは膝に顔を埋めて時也を待った。いつもなら迎えに行ったり迎えに来たり。どうして今日に限って、なんて思った。時也の方が先に着いていることを期待していたけれど、わたしの方が先だった。時也の方が先に来ていたならば、笑顔で「お待たせ!」と言えたような気がする。でも、わたしの方が先だった。わたしの顔を見た時也はどんな顔をするだろう。どんな言葉をくれるだろう。笑ってくれるだろうか。健気に励ましてくれたならば、更に沈み込む自信がある。

 やって来た時也はにこにこしていたから、わたしは少しだけ救われた気がした。そうして時也はわたしの前に「ジャーン!」と言いながらお菓子を見せた。それは少し前から楽しみだなあとわたしが言いつづけていたぷにぷにフォンデュというもので、お餅みたいな生地にとろとろのチョコレートが包まれている。といっても新発売なのでまだ食べたことはない。

 わたしはぽかんとしてしまった。あ、日常だ。そんな当たり前のことを漠然と思った。

「ごめん! コンビニ寄ってから来たんだー」

 ぷにぷにフォンデュを前に、わたしはどうやら目をきらきらさせることができた。

「やったー! さすが時也! 大好き!」

 時也と居るといつでも楽しい気分になれる。妙に安心して、なんだか気を張る必要もなくて、わいわいにこにこしていられる。普段わたしは背伸びするのが好きだけど、そんな気が全く起きなくなる。

「暗い顔してたのに、現金だなあ、双葉は」

 時也は笑顔で言った。

「なにがあったか聞かないほうがいい?」

 パッケージを開きながら、時也が何気ない口調でそう言うから、わたしは首を振った。

「テスト、散々だった。最低記録……」

 きっと時也なら、そんなことかあと笑う気がしたけれど、そうではなかった。

「きっと双葉ほどではないけど、俺も俺なりに努力してやっと真ん中」

「うん」

「うん、て。ばかにしてるだろー!」

 と言って、時也がけらけら笑った。

「そんなことないもん!」

 むきになってそう返したわたしは、今だけなら元気に居ることができる気がした。

 口開けてと言われたから口を開けたら、ちいちゃな大福が口の中に放り込まれた。なんとも言えないぷにぷに感がくせになりそう、と思いながら噛んでみたらとろーとチョコレートが染み出してきた。じわじわ甘さが身に染みる。

「頰緩んでる」

 可笑しそうに時也が言った。

「双葉ぁ、俺はいつだってテスト返ってくる度にがーん! てなってるよ?」

「そうなの?」

「そうだよー。俺なりに努力してはいるんだからさあ」

 ぷにぷにフォンデュが美味しくて、わたしは柔らかい気分になってきた。

「まあ、無理に笑えとは言わないけれどさあ」

 優しげな時也の口調は特別に気を遣ったものではないことをわたしは知っていた。時也という人はそんなのんびりとした明るい素敵な人なのだ。

 美樹は時也のことを、平々凡々な奴と馬鹿にするけれど、わたしにはとてもかっこよく見える。容姿もなにもかも平凡で特に大人っぱいわけでもなく、どちらかといえば子供っぽい。でも、いつも元気で明るい、気取らなければ背伸びもしない等身大。だからわたしには時也がとってもかっこよく見える。

「落ち込んだり笑ったりするのは人間の特権!」

 時也は時々、はっとするような言葉をくれる。わたしは嬉しくなって微笑んだ。

 けれども家まで送ってもらっている間に、やっぱり気分は段々と沈んでいってしまった。

「今日が天気良くてよかった」

 時也が家に着く直前にそんなことを言った。

 わたしが首を傾げたら、「天気悪いと落ち込みは倍の倍くらいになるじゃん?」と言った。

 時也らしいなと思った。そうかもしれない。いい天気の下で食べたお菓子は気分と裏腹にとても美味しかった。頰が緩むほどに。

 時也はあまり背の高い方ではないけれど、わたしよりはだいぶ大きい。家の前で、「さっき抱きしめておけばよかったなあ」と悔しそうに言うと、少しだけ屈んでわたしと目を合わせた。

「双葉は双葉」

 そう言いながら、わたしの頭をぽんぽんと優しく撫でてくれた。それから、家の門に向かってわたしの背中をとんと押した。

「無理はだめだけど、頑張ってみること。双葉の思うようにね」

 あははと照れ笑いを漏らしてから、「じゃあまた明日ねー」と時也は帰っていったから、私は気負うことなく家に入ることができた。

 わたしはわたし。時也の言葉を反芻しながら「ただいまー」と言ったわたしは、まだちゃんとその意味をわかってなんて、きっといなかった。



 家に入ると、ちょうど近くにいたのだろうお母さんが出迎えくれた。

「おかえり。時也くんに送ってもらったの?」

「うん」

「寄っていってくればよかったのにぃ」

 そう言ったお母さんは時也のことをとても買ってくれている。悔しそうだ。わたしは思わず苦笑いを浮かべた。そして、「また今度ね」と言った。

 その声が暗く聞こえたようだ。お母さんは「時也くんと喧嘩でもした?」とわたしに聞いた。時也と喧嘩なんて滅多にしない。片手いっぱいにもならない。

 「お母さん、ごめんね……」とわたしは言った。お母さんはなんのことだかわからなくて首を傾げた。

「ごめんと言われるなにかに思い当たることないけど?」

「テストの結果、いつも喜んでくれるから」

 そう言うと、お母さんはくすくす笑った。

「なーにそんなこと気にしてるのよ」

「だって……」

「わたしが嬉しいのは双葉の努力の形が見られること。点数なんてどうでもいいよ」

 お母さんはそんな風に言った。点数なんてと言ったが、今回のわたしはまるでその形を上手く作り出せなかった。

 甘えが出てしまった。ぽろっと涙を落としてしまった。

「わたし、努力を形に出来なかったの。きっと答案用紙見たら、お母さんがっかりするよ」

「点数なんてどうでもいいって言ったじゃない」

「でも、形として見えるものなんて点数くらいだよ」

 更に涙が落ちそうになって、わたしは制服の袖でごしっと目元を拭った。一度なってしまった涙声はひいてくれない。

「落ち込むほど、双葉にとってはひどいものだったのね」

 お母さんはそう言ったから、わたしはこくりと頷いた。

「それは双葉基準。あなた、成績良いのだから、羨んでる誰かだって人沢山いるわよ、きっと」

 落ち込むのは変だ、他の人に失礼だよと言うようにお母さんは言った。

「ほら、暗い顔する必要なーい。わたしなんて頭悪いけど気にしたことなんてなかったわ。だって馬鹿なんだもん」

 理屈の通っているのかどうかわからないお母さんの言葉に、思わずわたしは涙声でくすっと笑ってしまった。

「お母さん」

「はいはい」

「大好き!」

「はいはい、知ってるわよ。知ってるから、さっさと靴脱いでリビングね。甘いもの頂き物したのよ」

 お母さんは優しい。いつだって素敵な言葉をくれる。いつも自分のことを馬鹿だと言うけれど、そんなことないと言っても認めない。馬鹿な自分が好きなのと笑う。わたしは努力を惜しまない自分が好きだ。お母さんもわたしもおんなじ、こうありたい自分で居たいと日々を過ごす。いつか、わたしもお母さんみたいになれたらいいなと思う。脳裏に浮かんだのは時也で、うっかり微笑んでしまったら、お母さんが「ごちそうさまー」と言った。どうしてわかったのか不思議だ。

 わたしはあまり素敵な言葉を持っていないと思う。素敵な言葉をいっぱい持っているのは時也の方だ。時也といい、お母さんといい、まるで自然体ですっと自分の言葉を口にできることが、わたしは羨ましい。

 リビングで制服のまま、わたしはお母さんと美味しいロールケーキを味わっていた。美味しくて、頰が落ちそうだ。

 お母さんのおかげで、沈み込んでいた気分が少しだけ浮上した。だから、わたしは言えた。

「テストの答案用紙、見る?」

 「もちろん!」とお母さんは目を輝かせた。

 わたしは隣の椅子に置いていた鞄に手を伸ばした。取り出す瞬間、ぐっと紙を握りしめてしまいそうになったけれど、せっかくだから勇気を出した。わたしが答案用紙をまとめて差し出すと、お母さんは嬉しそうに手に取った。

 お母さんは答案用紙にじっくりと目を通したあと、にっこりと笑った。そうして言った。

「うんうん、努力の形が丸わかり!」

 結果としては残ってないはずなのに、お母さんはまたそう言った。

「でも点数……」

 わたしがそう呟くと、お母さんは語調強めに「だ、か、ら!」とわたしに答案用紙を突っ返した。それから、「ようく自分で見てみなさい」と優しく言った。

 何度も消し直した跡、空白の走り書き、胸が詰まりそうになった。わたしはわたしなりに頑張った。そう思うしかなかった。そうなのだから仕方なくて、やるせ無い。わたしが欲しいのは結果だ。正兄みたいになりたくても、まだまだ遠いと痛感した。だから、正兄が帰ってきたら、夕食のあとにきちん恐れずに相談しようと改めて思った。もっと近づく為に。

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