《 第一章 》王子様に憧れるということ(2)
正兄に美樹や時也の話をすると、とても楽しそうにしてくれる。美樹は面識があるから「美樹ちゃんらしいね」と言う。時也は面識がない。楽しそうな子だね、仲良いんだねとくすくす笑い、いつもにこにこしながら聴いてくれる。
わたしは正兄にはなんでも話してきた。正兄もわたしにはなんでも話してくれる。物心ついた時にはもう正兄はうちに住んでいたから、本当の兄妹のように暮らしてきた。正兄はとことんわたしに甘い。とことん可愛がってくれる。そうして、学校であったことなどをいつも面白おかしく話してくれて、わたしは目をきらきらさせながらそれを聴く。学校の先生になってからは、いつも生き生きとした目で高等部の生徒たちの話を聴かせてくれるようになった。熱心な姿が垣間見えて、教師という仕事に誇りを持っているように見える。だからわたしも正兄のように教師になろうと思っている。
相談事はまず正兄に。けれども正兄に言えない悩み事だってある。正兄の口から聞きたくない言葉だってある。相談すれば大抵のことは良い方へ転がった。今の学校に入りたいとわたしが言い出した時も、自分のことなど後回しにしてわたしの勉強を毎日見てくれた。
聞きたくないこと。それはネガティブな言葉だ。
完璧である正兄は、わたしの暮らしや全てにおいて見本であり基本であり、そんな正兄の口からすそんな類の言葉を言われたら、きっと立ち直れない。
ある日、わたしは正兄に恋の相談をしようとした。正確には一応した。時也のことだ。十歳も離れていれば経験値が違う。今まで聴いた正兄の彼女は、いつも素敵な人だ。どの人も会ったことはないけれど。
いつも話している時也のことだから、照れくさくて、顔を真っ赤にして相談があるのと正兄の部屋を訪ねた。
恋の相談だとわかると、正兄は少しだけ淋しそうな顔をした。こんな風にだんだんと兄離れしていっちゃうのかなあという顔をした。真っ赤な顔のまんま、わたしが少しだけ笑ってしまったら、正兄は「笑い事じゃないんだよ」と戯けた。
「大丈夫! 正兄はずうっとわたしの王子様だよ!」
わたしがそう言うと、正兄は何故か真顔になった。
「そうだといいんだけどなあ……」
小さな声で正兄が呟いた。
わたしは俯いて「そうなんだけどなあ……」と呟いた。
そうしたら、正兄が突然笑い出してびっくりした。顔をあげたらさっきとは打って変わって嬉しそうにしている。そして言った。
「よろしく頼むよ? ほんと」
嬉しくて嬉しくて、わたしは「うん!」とはりきったような声を返した。
「で? 好きな人って時也君?」
まだ本題にも入っていないのに、正兄はそう言った。
「どうしてわかるの?」
そう尋ねながら、照れくさくて、わたしは少しもじもじしてしまった。
「双葉の話はわかりやすいからさ」
よく考えたら、わたしの話の中の登場人物は圧倒的に他の友達のことよりも美樹と時也の出番が多い。でも、好きな人の話というのはどうしてか聴いてほしくなる。
そのあと、正兄の一言で、わたしの恋の相談は相談するまでもなく終了した。
「きっと、うまくいく。以上」
「は?」
「え?」
「わたしまだなにも話してないよ?」
そう言うと、正兄は「これ以上は勘弁して」と言って逃げるように部屋を出て行った。正兄の部屋なのに。わたしは他人の部屋にぽつんと残されてしまった。時也だったらどんな風に告白したらいいかな、なんて相談をしたかったのに。
廊下に出ても正兄は居なくて、リビングでテレビを観ていたお母さんに尋ねたら、「お風呂行ったわよ」と言われた。
そんなお茶目なところもある正兄がわたしは大好きで、そして憧れの存在だ。正兄のようになりたい。頑張ればきっとなれると信じている。
好きな人の話というのは誰かに聴いてほしくなる。好きな人にはもっと聴いてほしくなる。どうやらわたしの話の内容は正兄のことでいっぱいらしい。と、気付いたのは時也と付き合いはじめてからだ。
年中うちに来る美樹は正兄とも仲がいいから、わたしたちの話題は正兄のことが多い。他の友達が聴きたいと言うから、みんなにわたしは正兄の話をする。時也にも、正兄の話ばかりしているらしい。少しだけは自覚がある。聴いてほしくてついつい話してしまう。時也が大好きだから、大好きな正兄のことを聴いてほしくなる。
「なーんかさ、俺より先生の方が双葉のことわかってるみたいで悔しいんだよなあ」
ある日、正兄の話を面白そうに聴いていた時也が、唐突に、拗ねているような口調で言った。
「彼女のお兄ちゃんに嫉妬?」
「従兄弟だろ」
「お兄ちゃんのようなものだよ」
深く考えることなくわたしは正兄を兄のようなものだと言った。こんな風に拗ねる時也を可愛い奴なんて思ったりした。
「まあ、いいんだけどさあ」
と言った時也はなんだかなあと納得のいかなそうな顔をしていた。
納得がいかなそうだから、わたしも納得がいかない。だから言った。
「わたしの好きな人は正兄じゃなくて時也なのになあ」
「知ってる。俺も双葉が大好き」
「だから拗ねたの?」
「悪いかよ」と言った時也はばつが悪そうだ。
「そういう時也も好き」
わたしがそう言うと、時也がじゃれつくようにわたしの頭をくしゃくしゃ撫でて、そうして抱きしめてくれた。わたしの手元には食べかけのポッキーがあった。拍子で落としてしまい、猛烈に抗議をしたら、けらけらと時也が笑った。
「じゃあさ。俺とお菓子どっちの方が好き?」
時也がそんなことを聞いてきた。そんなの決まっている。わたしはお菓子に目がないけれど、お菓子と時也は比べるものじゃない。だからわたしは「お菓子はお菓子、時也は時也!」と答えた。
正兄だって一緒だ。時也と比べる対象として間違っている。比べることなんてできない。正兄は正兄で、時也は時也。憧れの好きと恋愛の好きを比べても仕方ないとわたしは思う。
それからも、時也は度々、「わかってるんだけどさあ」と言いながら、わかっていなそうな感じで正兄に嫉妬する。どんなに説明しても納得がいかないようだ。どうしてだかわからない。わたしの説明が下手なのかもしれない。
美樹にその話をしたら、「わかるけどわかりたくない」と言ったから、わたしは首を傾げた。
「ねえ、双葉。あんたの好みはもっと大人っぽい人だと思ってた。本当にあんな子が好きなの?」
美樹の言い方はひどく冷たくて、けれども本当にわたしの好きな人は時也だから「そうだよ。おかしい?」と返した。おかしいならどうしておかしいのか知りたいけれど、たぶんわたしは知っている。わたしの好きな人が正兄だと信じ込んでいる美樹は、結局わたしが正兄以外の人を好きになることが許せないのだろう。
「ねえ、美樹。憧れると恋をするって別物だよ」
わたしは慎重にそう言った。
美樹は「わからない」と言った。それでその会話には終止符が打たれた。
わたしはおかしいのだろうか。そんなわけない。だってわたしは正兄を恋する目で見ることができない。何度試しても無理なものは無理だった。正兄になりたいくらいに正兄に憧れているわたしは、正兄のことをまるで王子様としか見られない。そういう対象にしか正兄は入らない。正兄は歳の離れた兄のようなものだから、ブラコンなのは認める。憧れと好きを区別しているわたしにとって、正兄への好きは家族愛でしかない。
区別してしまえるくらい、正兄は完璧だ。