《 第一章 》王子様に憧れるということ(1)
従兄の正兄はわたしの通う学校の先生をしている。優しくて爽やかでかっこよくて、うちの学校の人気者。今も廊下で女子たちに囲まれている。わたしは正兄のそんな姿を見つめるのが好きだ。正兄は、わたしの憧れ。
憧れの人と同じになる方法が知りたくて、ついつい目で追ってしまう。そこには他意など存在しないのに、みんなは勘違いをしている。わたしは正兄が好きなわけではない。わたしが好きなのは高校一年生の半ばから付き合っている時也。
みんなは先生のことが好きなんでしょうと言うけれど、わたしはずっと時也に片想いをしていたし、告白したのもわたしから。別にみんなの勘違いを正すためではない。
ただ、好きな人といつも一緒に居ることができたら、とっても楽しくて嬉しい時間が待っていると期待したからだ。中学の時から仲は好かったけれど、友情よりももっともっと近くに居たくなった。考えてみると、お気楽なわたしはフラれた時のことをまるで考えていなかった。きっとひどく落ち込んだだろう。友情も壊れてしまったかもしれない。
思い切ったわたしの告白に時也はとても喜んでくれて、「俺も双葉が好き!」と言った。嬉しすぎて、へなへなと体から力が抜けてしまいそうだった。時也はまるでこうなることがわかっていたみたいに大きく笑った。その笑い声が妙に安心感を誘った。時也と居るといつだって楽しくて、そうして安心する。好きって、そういうことなんだといつも思う。
憧れの王子様である正兄はそういう好きとは全然違う。
わたしは従兄の正兄が幼い頃から大好きだった。念のためもう一度言うけれど、恋愛の好きではない。
十歳上の正兄は勉強もスポーツもなんでも得意な優等生、それでいてとてもかっこいい。正義感が強く、いつも明るくて大らかで優しい。わたしは正兄が怒っているところを一度も見たことがない。とにかく、正兄は完璧な人なのだ。
絵本の中の主人公と王子様はいつだって恋人同士になるけれど、わたしは絵本の住人じゃない。現実では、王子様は憧れるだけの遠い存在なのだ。正兄は遠い存在ではないけれど、憧れだけの存在でよかった。正兄は王子様だから。
けれども、だんだんとただの憧れとは違ってきた。
わたしは正兄のような完璧な人間になりたいと思いはじめた。どうしたら正兄のようになれるか。それが知りたくて、気が付くと正兄を目で追ってしまう。そうしてそんな時間がわたしは好きだ。
正兄の実家はとても田舎にある。小さい時から神童と謳われていたそうだ。そんな正兄は、中学に入学する時からうちで暮らしている。わたしの家のそばには中高一貫の有名な進学校がある。田舎に居ては勿体ないと、正兄はその学校に進学することになった。それが今わたしが通っている学校。必死に勉強して、どうにかわたしも同じ学校に入ることができた。といっても、補欠入学だけれど。でも、今はそれなりに上位の成績を収めている。やれば出来るものだ。努力は好きだ、惜しまない。正兄のようになれるならば。
廊下に見える正兄を見つめていたら、その視界の端に親友の美樹の姿が映った。わたしの方をさりげなく見ている。
どうしてそんな風にわたしのことを見るのだろう。美樹はわたしが正兄を見つめていると、時々少しだけ尖った目でこちらを伺う。前はそんなことなかったのに。
中学からの親友である美樹は、いつもいつもわたしが正兄を眺める度に「好きなんでしょ? いい加減認めなさい」と楽しそうに揶揄ってくる。
「いい加減にしてよ。わたし、好きな人いる。困る」
いつだかそう言ってしまったわたしの口調はきっと機嫌悪く聴こえただろう。美樹はその時、暫く黙り込んだ。それから「ごめん」と言った美樹の口調がいつもと少し違っていた。
わたしは機嫌を悪くしたわけではなく、その日に限ってひどく面倒くささを感じてしまい、うっかりしただけだった。うんざりはしていたけれども、揶揄ってくる美樹は楽しそうだから、別に構わないかなと思っていたのに。
しかし美樹はわたしが思った以上に重く受け止めてしまったのだろう。それからの美樹は一切揶揄ってこなくなった。けれどもきっと信じていない。だからあんな目でわたしを見るのだと思う。そうして、わたしは美樹に時也が好きだと言うことを伝えていなかったのだ。
好きな人がいると伝えていたのは美樹にだけだ。誰かは聞かれなかったから、時也だと教えていなかった。それに、美樹は時也のような平々凡々としたタイプがあまり好きじゃない。
美樹だけではなくて、友達たちもよく揶揄ってくる。時也と付き合いはじめてからも、面白おかしく色々と言ってくる。そしてわたしはむきになってあれやこれやと色んな言葉を並べてはみんなの爆笑を誘う役目を担う。
みんなには言わないのに美樹にだけやめてと言ってしまったのは、美樹が親友だからだ。みんなの前で戯けるのとは訳が違う。みんなに対してなにも言わないのは、みんなが面白半分で済ませているとわかっているからで、わたしはみんなとこのやりとりをする時だけはなにを言われても楽しく感じているのだ。美樹のは本気だ。揶揄いながらも、本気でわたしが正兄を好きだと思っている。時也と付き合いはじめてからも。
まだ親友と呼ぶには少し遠かった頃、うちに遊びに来た美樹が初めて正兄に会った時のことだ。廊下で正兄と三人で少し話をしてからわたしの部屋へ行った。
小ぶりの丸っこいテーブルで向かい同士に腰を下ろすと、美樹がとても真面目な顔をしていて、それでいて優しげな目をしていた。
「双葉って、正隆さんが好きのね。正隆さんも双葉のことが好きなのね」
美樹の語調はうっとりと夢見心地のようなものではなかった。まるで現実として捉えているようだった。
わたしは驚き過ぎて直ぐに言葉が出てこなかった。さっさと否定すればいいものを、驚愕のあまり思い付けず、「……そんなわけないじゃん」と言った声は絞り出したようなものになってしまった。これでは肯定しているようなものだ。
「でも、恋している目をしていたよ」
「正兄は、わたしの憧れ。それだけだよ。本当に」
「双葉はまだ気づいてないのね」
その言葉が嫌に脳裏に残っている、今でも。
それからも、事あるごとに美樹はわたしに指摘をしてきた。一緒に暮らしたりしてると気付きづらいのかもね、などとも言う。
美樹は大人っぽくて、みんなとはしゃいだりしない。わたしはどちらかといえば、そういうのも好きだ。大人っぽくいようと思うのに、なかなかうまくいかなくて、結局子供っぽいのだと思う。わたしは努力をして優等生を気取っているけれど、美樹はそのまんまでも優等生でしかない。人付き合いはあまり好きじゃない優等生。そんな美樹がわたしのことをやたらと構ってくれることがわたしは嬉しかった。
竹を割ったような性格、大人っぽい風貌と言動、美樹は意思がはっきりとしている。美樹のそういうところが大人だと思っているわたしは大人っぽくいようと常に努力しているつもりだ。大人っぽい美樹と居ると、自分も少しだけ大人な気がしてくる。美樹はまるでわたしをそんな風に扱わないけれども。美樹と過ごすことは心地好い。そうして気が付いたら閉鎖的な美樹が親友になっていた。
そんな美樹がいつまで経ってもわたしが正兄に恋をしていると勘違いしているということは、本気で信じているということだ。度々、「どう? そろそろ自覚した?」などとも問いかけてきていた。わたしは恋と憧れを切り離していたから、ひたすらに否定をつづける。そんな時のわたしを見つめる美樹の目はとても優しげである。今みたいに揶揄っては面白がるようになる前の話だ。完全に好きと憧れを切り離しているわたしは流されることはなく、どんな時も正兄を恋する目で見つめたことがない。というよりも、試してみたけれど無理だった。
美樹とは中学二年生の時に出会った。時也と出会ったのは中学一年生。どちらも同じクラスになったことがきっかけだ。
時也の苗字は神部、わたしの苗字は唐沢、出席番号が一緒で、隣同士の席で直ぐに仲好くなった。二年生ではクラスが分かれてしまい、美樹と同じクラスになった。美樹の苗字は小野川という。出席番号がわたしの一つ前、一学期の間に席替えはなく、美樹はわたしの前の席だった。
美樹は自分の前の席の子にも隣の席の子にも話しかけないのに、わたしにだけは話しかけてくれた。最初は不思議だったけれど、性格とは裏腹に優しい口調で話す美樹に惹かれた。そうしてどんどんわたしたちは仲良くなっていき、家に遊びに行ったり来たりするような仲になり、夏休み明けには親友と呼べる存在となっていた。
その頃、既にわたしは時也のことが好きだった。大好きだったと言っていい。わたしの正兄に対する誤解があるから、わたしと美樹は本当の恋話ができない。美樹に好きな人がいることは聞いていた。美樹が好きになる人だからとても素敵な人だろうと思い浮かべた。べたべたしたような関係性ではないわたしたちの交友関係は全く違う。そもそも美樹はとても狭い。狭いのに、わたしはあまり知らなくて、だから美樹の好きな人が誰か知らない。
ある時、時也が淋しそうなことを言った。一緒に帰ろうと誘われた帰り道でのことだ。ふたりでのんびりとくだらないやり取りをしながら歩いて、コンビニに行った。その日発売のパリンコバーの期間限定イチゴチョコ味を求めて。パリンコバーはバニラアイスの間にぐるぐるとパリパリのチョコートが挟まっていて、食べるたびにパリパリと音がする。わたしと時也はその食べ心地が大好きだ。
冬の初め、寒い寒いと言いながら縁石に腰を掛けてパリンコバーを味わっていた時のことだった。
「小野川ってさ、とっつきにくくて話したことないけど」
「うん」
「双葉が親友やってるくらいだから、きっとすごくいい人なんだろうなあ」
「うん、美樹ってとても素敵」
「大好きなんだねえ」
「大好き!」
と返すと、時也が「嫉妬しちゃいそー」とけらけら笑った。そうしてその拍子に、時也はまだ食べかけの棒アイスのアイスの部分をぼとりとアスファルトに落っことしてしまった。時也は悔しそうな顔ではなくて、淋しそうな顔で少しの間、食べてもらえなくて悔しそうなアイスを見つめていた。
きっと友情のそれだとわたしは思ったし、冗談だろうとも思った。わたしは時也が大好きだけれど、時也はどういう好きでわたしと一緒に居てくれるのかをまだ知らない頃だ。
こうして放課後にのんびりとふたりで過ごすことは多かった。そう考えると、付き合うまでの時也も親友のようなものだ。しかしわたしと時也との関係にはわたしの片想いが挟まっていたから、きっとその時のわたしたちは親友とは少し違う。