「私が君を愛することはない」と言われた令嬢の話
「最初に言っておく。私が君を愛する事はない」
ネイトゥ男爵家の令嬢として私……タミーがビーバック辺境伯の所へ嫁いできてからの初対面、彼から最初に言われた言葉がこれでした。
「アイル様、それは――」
「話は終わりだ。屋敷はメイドに案内させる」
私は食い下がろうとするも、私の夫となる方は強引に会話を打ち切ると立ち去っていきます。
「はあ……」
思わず溜息が漏れてしまいます。
……ですが、正直覚悟はしていました。
先の戦争で早くに父を失くしつつも、若くして爵位を継いできたアイル様は国境に位置するそのビーバック領をその手腕でさらに発展させ、隣国の侵攻からも何度も守り抜いてきました。
さらには、その整った顔立ちと精悍さを纏わせた容姿も合わさって、まさに物語に出てくる英傑を思わせる方です。
一方で、私はビーバック領と隣接しているというだけで、何の取柄もない小さな田舎領地を治めているネイトウ男爵家の令嬢。
身体の方もお世辞にも丈夫とは言い難く、趣味は庭の草花の世話という平凡な小娘です。
とてもではありませんが、釣り合いなんて取れていないでしょう。
ですが、これは政略結婚。
優先させるべきは互いの家の利益。
向こうにどんなメリットがあるのかは私もわかりませんが、きっと私も知らない何かがあるのでしょうし、私も貴族の娘ですので、それぐらいの覚悟はできておりました。
「見てください、アイル様。今日はパンジーの花が綺麗に咲いたんですよ」
数か月後、私は庭の花壇に植えた花を自慢げに彼に披露していました。
愛の無い結婚ですが、それでも夫婦仲は良い事に越したことはないと思い、私はできる限りアイル様との距離を詰めようと、今日も今日とて彼に声をかけ続けているのです。
「そうか。良かったな」
しかし、アイル様は不愛想にそれだけ返すと、そのまま自分の部屋へ戻っていきました。
相変わらずのつれない態度。それでも私はめげません。
次の日も、その次の日も、何度もアイル様に接し続けました。
「アイル様、あの今日は私が料理を作りましたの。口に合えば良いのですが……」
「そういうのは屋敷の者らに任せておけばいいのだ。君は彼らから仕事を奪う気か?」
「……はい。申し訳ありません」
「アイル様、今日は月が綺麗ですわ。夜の散歩にでもどうでしょう?」
「眠い。散歩なんて昼でもいいだろう」
「あ、そうですね……」
「アイル様、今日は領の収穫祭で人が多いのではぐれてしまいそうです。なので、その……わ、私と手を繋いでくださいませんか?」
「うむ。では馬車で公道を移動しようか。これならば、はぐれてしまう心配はない」
「いや、移動したいのではなく、一緒に祭を……」
こんな感じで取り付くしまがないとはこの事でしょうか。
そんな不毛なやり取りが毎日続いていきました。
もっとも、それでも懲りずに話しかける私も私なのでしょうけどもね。
そんな、ある日のことです。
私は今日も今日とてつれなくされ、廊下の端っこでしょんぼりと項垂れていました。
(本当に何がしたいのでしょうか、私は……)
自分でも無駄だと薄々わかっております。
ですけれども、自分でもわかりませんが、なぜだか彼を放ってはおく事はできないのです。
例え、いずれ彼からの不興を買い、婚約を破棄されてしまったとしても、私はあの人を――。
「君がビーバックに嫁いだというネイトゥ家の令嬢だね。なるほど。本当に可哀想な人だ」
「――え?」
そこへ不意に後ろから声をかけられました。
振り返ると、そこには身なりの良い服を着た青年が立っていました。
彼の名はベービィ・ソラーミ。
このソラーミ王国の第二王子です。
「まったく、ビーバックめ……。君のように美しく才溢れる女性をこうも邪険に扱うとは信じられん」
「は、はあ……どうも」
歯の浮くようなお世辞を並べ立てる殿下に、私は気後れしつつも、とりあえず会釈をします。
彼はアイル様と何か大切な話をしに、定期的にこの屋敷に訪れていました。
詳しい内容は知りません。
アイル様に尋ねても、私には関係ないの一点張りでしたから。
その日以降、彼はたまにこうして私に話しかけてきました。
「それにしても君の夫は冷たい男だね。己にこうも尽くしてくれる妻をこうも邪険に扱うとは――」
しかし、その内容はほとんどがアイル様に対する愚痴のようなものでした。
遠巻きに見ていましたが、二人の話はやはり上手くいっていないようです。
正直、彼の愚痴りたい気持ちは少しわかってしまいます。
毎回あんな風にすげなくされていたら、毒づきたくもなるでしょう。
「自分の独りよがりなエゴを押し付け、寄り添おうとしてくれる他者を蔑ろにする。人を束ね土地を治める領主として……いいや、人としても失格だ。そうは思わないかね?」
「いいえ。そんな事はありませんわ」
――でも、そこだけは私も否定しました。
「あの方は少し人よりも不器用なだけです」
確かに彼はいつも仏頂面で口数も少ないです。
ですが、こうして共に暮らしていれば、嫌でもわかるものもあります。
私がしきりにちょっかいをかけていると、たまに口元を僅かに綻ばせてくれるのです。
それを見る度に私の心は温かくなり、めげずにまた頑張ろうと思えました。
――まあ、それはそれとしてもっと素直になってくれてもいいんじゃないかとは思いますけど。
「殿下も本当はわかっていらっしゃるのでは? 彼が自分が言うような冷たい人間でないことが」
「……またくるよ。君だっていつか理解するはずさ。真実の愛というものを」
言われ、面白くなさそうに顔をしかめるベービィ殿下はそう言って立ち去っていきました。
少し不敬だったかもしれません。反省です。
彼の後ろ姿を見送った私は、自分の部屋へ戻ろうと、二階への登り階段を昇っていると、その曲がった先の壁際にアイル様がなんと立っていました。
「……聞いてらしたのですか?」
「そんなつもりはなかったのだが。――つい、な」
バツが悪そうな顔でアイル様は言葉を濁します。
私も気恥ずかしさでなんと返そうか悩んでいると、先に口を動かしたのはアイル様でした。
「私もわからない……君はなぜ私にかまうのだ?」
彼は純粋な疑問を私に尋ねました。
「殿下の言う通りだ。私は君の優しさに応えられる人間ではない。現に今日までずっと冷たい態度をとってきたではないか」
――自覚していらしたのですね。だったら、もう少し優しくしてくれてもいいのに。
でも、彼にしては珍しい、どこか申し訳なさを含む声色に私は思わずクスリと笑ってしまいました。
「そう言ってくれる時点で、貴方は自身が思うような人間ではありませんわ」
「君は私を買い被り過ぎだ」
アイル様は否定しますが、私は既にこの方が不器用なだけだというのを確信してしまいました。
「うふふ。私は諦めませんわ。絶対にあなたを素直にしてみせます」
「勝手にしろ」
諦めたように、いつもの突き放すような口調でアイル様は行ってしまいました。
しかし、あれが彼なりの照れ隠しによる逃げだというのを、私はもう理解しています。
(まずはあの逃げ癖をどうにかしなければいけませんわね)
やる気が漲ってきた私は心の中で意気込むのでした。
……ですが、そこからさらに半年の時間が過ぎた時、その報は届きました。
なんと隣国がこちらに向けて兵を出兵し、現在国境砦が攻撃を受けているというのです。
近年、隣国の動きがキナ臭くなってきている事は聞いていましたが、まさか突然こんな強引な手段に出るとは思っていませんでした。
とはいえ、放置するわけにもいきません。
「それでは行ってくる。留守は任せたぞ」
「はい」
その報告を受けたアイル様はすぐさま騎士団を率いて出立する事になりました。
「あ、待ってください!」
そんな一刻も時を争う事態だというのに、私は彼を呼び止めてしまいます。
「なんだ」
「あの……その……今夜から強い雨風が降るかもしれませんので、その……できれば早く帰ってきてほしいと言いますか。……お気を付けください!」
ああ、私は何を言っているのでしょうか……。自分でも言っていて恥ずかしくなりました。
「フ、わかった。気を付けよう」
すると、どうしたことでしょう。
アイル様は珍しくしっかりと微笑んでくれました。
雨どころか、雪か槍でも降るかもしれません。
「そんな顔をするな。必ず戻る。待っているがいい」
続いての優しい言葉。
本来なら喜ぶべき所なのでしょうが、逆に不安で仕方がありませんでした。
こうして出陣するアイル様の後ろ姿を見送りながら、ひたすら私は彼の無事を祈る事しかできませんでした。
……その夜は本当に嵐が来て、外は風と雨で酷いものでした。
おかげで一睡もできない私は住み込みの使用人の皆が寝静まっている中、気を紛らわせようと深夜の屋敷を歩いてました。
「アイル様は大丈夫でしょうか。――あ」
思わず出た呟き、そこで私は自分がアイル様の事が気がかりで眠れないのだという事にようやく気付いたのです。
いい加減に部屋に戻ろうしたその時、屋敷の玄関の方からバンと扉が開く音が聞こえました。
私は思わず音のした玄関のホールに向かって走り出します。
「おかえりなさいませ、アイルさ――」
「クク。迎えに来たよ、ネイトゥ令嬢」
玄関で立っていたのはベービィ殿下でした。
「な、なぜ、あなたが……アイル様は……騎士団の皆様は……?」
「ああ。彼らなら戻らないよ。隣国のノロマ共はあくまで陽動だけで、僕が事を起こすまでは静観してるようだけど、こんな事もあろうかと、傭兵を雇っておいたからね。今頃はここに戻る途中で奇襲を受けているんじゃないかな。さしもの彼らもあの人数では太刀打ちできまい」
「何を言っていますの?」
彼の口から語られる内容もそうですが、その纏う雰囲気と眼光に、私は恐怖で後ずさりします。
「ああ、家の者を呼ぼうとしても無駄さ。邪魔が入らないように眠りの香を焚いておいた。君以外の人間は深い眠りについている。私も無駄な血は流したくないのでね」
「……あなたは何がしたいのですか?」
「目的かい? 僕はただ変えたいだけさ。この腐った国をね。君にはその手伝いをしてほしいんだ」
私の問いに殿下は陶酔した面持ちで自身の野望を喋り始めます。
「手始めに国境周辺では私が味方につけた隣国が君の夫を始めとした辺境伯どもを釘付けにしている。次は王都に潜ませた僕の手勢がクーデターを起こし、王都を占領して父上……国王陛下の身柄を押さえる。そうして身動きが取れなくなった邪魔な連中を一掃すればこの国は僕のものだ……!」
目の前の方が何を言っているのか、理解できずに、私は絶句していました。
それでも、私はなんとか気を落ち着けて平静を保ち、ベービィ殿下を説得しようとします。
「……殿下、お考え直し下さい。あなたは敵国に利用されているだけです。王都を中心にそんな事を起こせばどれだけの血が流れるかわかるでしょう? 少なくとも犠牲者は万を超えるはずです」
「私に口答えするのか⁉ この国には二百十五万人の民がいる! 一万人ぐらいなんだ!」
私のような小娘に反対されたのが気に食わなかったのか、殿下は一転して語気を荒げながら、平然ととんでもない事を言います。
私は思わず言葉を失ってしまいました。
「なおさら、そのような考えを持つ方とは共に歩むことはできません」
「……君もなのか⁉ 君も僕から離れていくのか? クソックソオッ! 皆、馬鹿だ! 誰も私を見ようとしないっ! 妾の子というだけで評価してくれないっ!」
ヒステリックにがなる殿下のその姿は叫ぶというよりも、黒い感情のようなものを吐き出くようにも見えました。
そして、その眼には目の前の私すらも映っておらず、ひたすらにこの世全てへの怨恨が渦巻いているようです。
……今まで彼はどれだけの鬱屈とした感情を溜め込んできたのでしょうか。
「はぁはぁ……。ネイトゥ家令嬢、これが最後だ。私と共に来てくれ。さもなくば……」
「……お断りいたします」
恫喝を含んだ二度目の誘い。
それでも、私ははっきりと拒絶します。
殿下の執着と怒りがこもった眼光が私を射竦めますが、それでも私はまっすぐに見つめ返します。
ここで引くわけにはいきません。
「なぜだ。君に夢を見させてやると言ってるんだぞ!」
「いいえ。悪夢に決まっていますわ!」
恐怖を表に出さないように私は毅然とした態度を崩さぬように努めます。
「どうして……なぜなんだっ! なぜ誰も僕を見てくれないんだっ!」
「それはあなたこそ周りを見ようとしないからです」
きっと彼の味方をしようとした方もいたはずです。
他ならぬアイル様もその人でしょう。
口論する彼らの姿を私は何度も見てきましたが、その後にはアイル様はいつも殿下を引き留めようとしていました。
きっと彼は殿下のやろうとしている事に気付いて、止めようとしていたのでしょう。
ならば、アイル様の婚約者である私が堕ちるわけにはいきません。
「違う! 私は孤独なんだ! 私ほど哀れな天才はいない! 誰も見てくれないなら、見るように振り向かせるしかないだろう!」
まるで自分に言い聞かせるように叫びながら、殿下は狂ったように頭を掻きむしります。
「ああああああああああ! ……ふぅ」
ですが、やがて激情を吐き出したのか、殿下は落ち着きを取り戻しました。
その姿に不気味なもの感じた私は言い寄れぬ不安を覚えます。
「……いいや、私は違うんだよ、ネイトゥ家令嬢。私は正しく君の力を理解し使う事ができるのだから」
今度は薄気味の悪い笑みを浮かべながら、殿下は私の方へと歩み寄ってきます。
「それ以上近付かないで! ……いったい何の事をおっしゃってますの?」
「ははは。君の家に伝わる力のことだ。君とて御伽噺の体で聞いた事はあるんじゃないのかい?」
いったい何の事を言っているのか。
困惑していた私ですが、やがて小さい頃にお祖母様から聞いた話を思い出しました。
私たち……ネイトゥ男爵家には古くからとある異能にまつわる言い伝えがあるのです。
宮廷術師であり占星術師でもあったネイトゥ家のご先祖は未来予知の力を持っており、その力で幾度となく王国の危機を予知し回避させ、王国を支え続けたのだそうです。
しかし、その力は時が経つにつれ薄らいでいき、王家は無用な諍いを避けるために、ご先祖たちに爵位と領地を与え、それらを一切の他言無用としました。
「城の書斎の奥の奥に貯蔵された書物を見た時は震えたよ。君こそが伝説の末裔なんだ!」
「ですが、その話が本当だとしても、その力は既に途絶えたと聞きますわ。今の私は無力な小娘です」
「嘘だね。私はずっとアイルを亡き者にしようとしてきた! だが、それを阻止してきたのは君だ!」
殿下の言葉に私の頭に強い痛みが襲うと同時に、身に覚えのない景色が浮かんできました。
それらは今まで見た悪夢の中でも特に鮮明でした。
夕飯に毒を盛られ、倒れ伏すアイル様。
黒ずくめの男たちの夜襲を受け、切り刻まれるアイル様。
街中ではぐれてしまい、ようやく見つけた時には、何者かに刺され遺体となっていたアイル様。
「ああ……、ああ……」
「なるほど。今ようやく完全に覚醒したわけか」
殿下は納得したように頷きます。
「だが、今回は君も失敗したようだね。アイルは今度こそ死んだ」
「こ、こないでっ!」
殿下の伸ばす手を私は振り払います。
「もういいよ。君の意思は関係ない。無理やりにでも僕のものにすれば――!」
ベービィ殿下は今度は無理矢理に掴み取ろうとします。
(助けて……アイル様っ!)
その手が届こうかという寸前、私たちの間に割って入るように、短剣が飛んできて壁に突き刺さりました。
「な、何者だ⁉」
飛んできた暗がりからコッコッと足音が聞こえてきます。
「私の顔を忘れましたか殿下。私ですよ。アイル・ビーバックです」
まさしく、そこにはアイル様が立っていました。
彼はこちらに向けてふっと笑いかけます。
不思議です。
彼の名には、いずれ戻って来る、帰ってきてくれるだろうという予感めいた力を感じるのです。
「アイル様……! ご無事だったのですね! アイ……!」
私は彼の元へと駆け寄りますが、彼の姿を見て言葉を失います。
暗がりで良く見えませんでしたが、よく見ると彼の体中がボロボロで傷だらけでした。
ここに辿り着くまで、いったいどれだけの無理をしてきたのでしょうか?
だというのに――。
(ああ、私はなんて浅はかな女なのでしょう。あれだけ傷付いてまでアイル様が駆けつけてきてくれたという事実に喜んでいる自分がいます)
「タミー、私の助けなど必要なかったか?」
「……とんでもありません。待っていましたわ」
なんとか私はそれだけ呟くと、嗚咽と共に涙を流します。
「アイル! 貴様、いつの間に戻ってきた! 我が手勢は……」
「無理矢理にでも押し通らせてもらいました。あの程度の連中で私や我が騎士たちを討ち取れると思いましたか? 精々が時間稼ぎが限度でありましょう」
それでも時間が惜しかったので、残りの掃討は彼らに任せましたが、とアイル様は付け加えます。
「館に待機していた連中も無力化させました。王都にも早馬を出しています。終わりです殿下」
「アイル! お前まで私に歯向かうのか? かつては友と呼んでくれたお前まで……!」
そういえば二人は士官学校の同期だと聞き及びました。
だからこそ、アイル様は殿下を止めようと、何度も諫めてきたのでしょうね。
「殺そうとしておいてよく言う。あえて言わせてもらうなら、友だからこそ止めるのだ」
「友だと⁉ 友ならば私についてきてくれるのが道理であろう!」
アイル様は敬語をやめて、本来の彼らにとっての距離で会話を続けます。
しかし、今の殿下には挑発以外の何物でもなかったようでした。
「明らかに道を踏み外そうとしているお前は止めねばならぬ。……今なら全て見なかったことにできる。さっさと失せろベービィ!」
「アイルウウウウウウゥ!」
激昂して剣を抜いて襲いかかる殿下、同じく剣を抜き応戦するアイル様。
遂に二人の戦いが始まりました。
きっと大丈夫です。
王国でも一・二を争う剣の腕を持つアイル様なら負けないはず――そう思った直後、最初の打ち合いで、苦悶の表情と共にアイル様は足をよろめかせました。
「ぬぅ……!」
「ク、クハハ! やはりそれなりの深手は負っているようだなあ!」
勝機を見出したとばかりに、殿下は絶え間なく剣を振るい、アイル様はそれを必死に受け続けます。
一方的に剣戟の音が絶え間なく夜の屋敷のホールに響き続けました。
既にここに戻ってくるまで、数多の刺客を退けてきたアイル様は手負いで体力も消耗しています。
このままではいずれ押し負けるのは時間の問題でした。
(このまま見ている事しかできないなんて……)
私は己の無力さに歯を食いしばることしかできませんでした。
「終わりだぁ!」
遂に殿下はトドメとばかりに、剣を大きく振りかぶります。
「それはこちらのセリフだ」
ですが、殿下の振り下ろされた剣閃、それをアイル様は剣技で軌道を逸らしました。
彼はこの瞬間をずっと待っていたのです。
「もらった!」
「⁉」
カウンターの突きが殿下を捕らえます。
アイル様の勝利を確信した直後、それは起こりました。
「――ぐぅっ!」
膝をつくアイル様。
彼の肩には矢が刺さっており、血が滲んでいます。
見ると、階段の柱の影に黒装束の男がボウガンを構え、射出していました。
「ハハハ。残念だったなあ、アイルゥ!」
殿下のその剣がアイル様の胸を貫きます。
「ごふっ……!」
「いやぁああああああああああああああああ!」
血の塊を吐き出し倒れ伏すアイル様の下へ、私は走り出しました。
「アイル様、しっかり……しっかりしてくださいっ!」
勝ち誇ったように哄笑し続ける殿下。
それを無視して、私は必死にアイル様へと語りかけます。
しかし、血は一向に止まらず広がるばかりです。
しかし、アイル様は今にでも消え入りそうな声で私の言葉に応えます。
「ネイト。……私が君を愛することはないと言ったな……。あれは嘘だ……」
アイル様の目の光は段々と弱々しくなっていきますが、それでも私の目を真っ直ぐ見据えてます。
「……殿下と袂を分かつ以上、……彼が私を狙い出……は時間の問題……た。だから……危害が……及ぶ……前……遠ざけねば……と思っ……ガフッ!」
アイル様はさっきよりも大きな血を吐き出します。
嫌、嫌、嫌、嫌、嫌!
「それでも……君は……私の傍に来て……くれた。礼を……言う。……あい……して……る」
そのままアイル様の目の光は完全に消えて、動かなくなりました。
「うわああああああああああああああああああああああ!」
なんで、いまさらそんな事を言うの⁉
もっと話したかった!
もっと一緒にいたかった!
もっと笑い合いたかった!
……こんな結末認めない!
その時、不思議な事が起こりました。
「な、なにぃ!? なんだ、これは!?」
隣にいた殿下が驚きの声をあげていました。
私たちの足元には、私を中心に幾何学模様の円陣が浮かび上がっていたのです。
「ああ、そうだったんですね。これが……」
ようやく完全に思い出しました。
予知の力ではありません。これは私そのものが前の時間軸に戻る力です。
――戻る。――戻る。――戻る。――巻き戻る。
「――はっ⁉」
気付けば、私は殿下とアイル様が戦い始めた時に戻っていました。
「すごい。本当に戻っ……あら?」
鼻から血が流れていると思ったら、眩暈を起こして倒れてしまいました。
軋むような痛みと凄まじい疲労感が身体を襲います。
……そういえば、殿下が死んでしまう際に、いつも私は身体の調子を崩して屋敷で寝込んでいました。
あれは時間を巻き戻す代償だったのですね。
――いけない。それどころではないわ。
そこには殿下の部下の男がボウガンを片手に忍び寄っていました。
――ベッドで寝込むのはまだ早いわ。
痛む身体に鞭を打ち、私は引き摺るように歩き出します。
移動する際に、壁に備え付けられた火のついていない燭台を拝借。
ソロリソロリとこっそりと部下の男の後ろへと忍び寄ります。
向こうの戦いはもう少しで決着がつきそうです。急がなければ。
見れば、部下の男はアイル様に向けていつでも射出できるように構えます。
おそらくは殿下に当たらぬようにタイミングを窺っているのでしょう。
――お願い、間に合って。
気を取られている今がチャンス。
やがて決着の時が訪れます。
『もらった!』
『!?』
アイル様が斬り払うタイミングに合わせて、引き金を引こうとする部下の男。
「えぇええい!」
私は燭台を力一杯振り下ろしました。
「ガアッ――⁉」
後ろから叩きつけられた黒装束の男はそのまま倒れ伏せって痙攣しています。
……だ、大丈夫かしら。
「なっ……⁉」
戦っていた二人はようやくそれに気付いたようで、殿下の方は驚愕に目を見開きます。
「ネイトゥ家令嬢! 貴様の仕業か! そうまでして……、そうまでして私を拒絶するのか、ターミ嬢! なぜだ! なぜ私を見ない」
「……理由は沢山ありますが、あえてこの場で言わせてもらうならば、あなたこそ私の事を家の名前でしか呼びませんでした。それが理由ですわ」
やはり、この方は最後まで私の能力にしか目がいってなかったのでしょう。
「言ったでしょう。あなたこそ誰も見てはいなかったのです。ベービィ殿下」
「タァミイィネエェトオオオオオゥ!」
これまでのような利用できる駒か、己を認めようとしない理不尽の一部ではありません。
今度こそ殿下は本当の意味で――今までのような癇癪とは違う、目の前の私を抹殺せんという明確な憎悪がこもった目で、私の名を叫びます。
そして、その隙を見逃さないアイル様ではありません。
「ハアアァッ!」
「⁉」
アイル様は殿下の剣を弾き落としました。
「私の……いえ、私たちの勝ちです殿下」
彼の喉元へと剣を突きつけながら、アイル様は勝利を宣言しました。
――その数刻後、ようやくアイル様の部下の騎士の方々が屋敷に到着すると、アイル様から指示を受けた彼らは殿下を取り押さえて、そのまま連れて行こうとします。
それでも殿下はこちらを見て、納得できないとばかりに語りかけます。
「なぜだ? アイル、お前とて私と同じだったはずだ! かつては共にこの国を正していこうと誓ったはず! それなのになぜこうも違ってしまったのだ……」
「その志は私も忘れてはいない。……あなたはやり方を間違えたのだ。もし、我らの行き着く先が同じだと言うのなら――また地獄で会おうベービィ」
「おのれぇ! アイルビィバアアーック!」
寂しげに呟いたアイル様に対し、殿下は悔し気に吠えながら、今度こそ連行されていきました。
きっと、あの二人は再び相まみえる。
なぜだか、そんな予感がします。
その時に彼らが雌雄を決するのでなく、友として和解できる事を、私は殿下の後ろ姿を見送りながら静かに祈りました。
「タミー」
「ふわっ⁉ アイル様」
突然、アイル様に呼ばれて私は慌てふためきます。
だって、彼から声をかけられたのなんて初めてなんだったのですもの。
「いまだに記憶が定まらないのだが……、ずっと私は君に守られていたのだな」
そう言って、アイル様は私を静かに見つめます。
「改めて言わせてくれ。私が君を愛することはないと言ったな。あれは嘘だ」
「ふふ。知っていましたわ」
アイル様の言葉に応えるように、私はゆっくりとアイル様の胸元に身を寄せ、彼もそっと私の背に手を添えてくれます。
気付けば、既に嵐は去り、朝日が昇っていました。
窓から降り注ぐ日差しを浴びながら、私たちは静かに寄り添い続けるのでした。