三角締めの女王様
「カレンちゃん、三番、お客さんだよ」
店長の塚田に呼ばれ、私は待機所を出た。時間からいって今日、最後の客になるだろう。
中世のコルセットのようなビスチェ、ドレープチェーンのついたTバック、革のロングブーツ……全身黒ずくめのエナメル衣装である。
三番ルームに入ると、暗い目をした青年が立っていた。
「久しぶりね、ゾウリムシ」
「僕のこと、覚えてくださっていたんですか、カレン女王様」
青年の暗い双眸に光が宿る。
「忘れるわけないだろう。おまえみたいな最低のゾウリムシをね」
この女王様系の店で働き始めて一ヶ月、ようやくノリがわかってきた。
「ありがとうございます」
うれしそうに近寄ってきた青年の腹をカウンター気味に蹴る。くの字の形で青年が背後のベッドに倒れ込む。
「気安く近づくな、このゾウリムシ!」
お腹を押さえた青年が哀しげな目を向けてくる。
「女王様が来るのを服を着て待ってるやつがいるか。さっさと脱げ!」
青年が、はいっ、とベッドから跳ね起き、ワイシャツを脱いで、壁のハンガーにかけた。手首にうっすらと赤い痕があった。二週間前、私が緊縛でつけた傷痕だ。
視線に気づき、青年が自分の手首を触る。
「これ……女王様につけられた傷だと思うと愛おしいんです。だんだん傷が治っていくのがさみしくて……できれば治ってほしくないんですけど……」
「ふんっ、傷なんていつでもつけてやるわよ」
「ありがとうございます。でも次いつお会いできるかわかりませんから……この傷は、僕と女王様を結ぶ絆なんです」
不覚にもゾウリムシの言葉に一瞬、心が揺れたが、それを押し隠すように強い口調で訊いた。
「今日のリクエストはなんだい? さっさと言いな」
「またプロレスレクチャーをお願いしてもいいですか?」
プロレスレクチャーとは、元はJKリフレが始めたプレイで、エッチなサービスをできない未成年がフェイスロックなど、プロレス技にかこつけて体を密着させるサービスだ。だが女王様系のお店の場合、多少趣旨は異なる。
「いいよ。技は何がいい?」
「えっと……じゃあ女王様の得意技で」
「得意技かー、三角締めかな」
股間に男の頭を挟むので客からの評判もいい。私は黒いレザー衣装のまま、ベッドに上がり、後ろに手をついた。
「おいで」
指をクイッと曲げ、男をベッドに誘う。青年が広げた私の膝の間におずおずと腰を入れてくる。
「ゾウリムシは私としたい?」
「え?……」
ふふ、と妖艶に微笑む。が、次の瞬間――
「させるわけねえだろ。おまえみたいなゾウリムシに!」
跳ね上げた両足を青年の頭に絡め、同時に素早く右腕を引き込む。青年の体がぐらっと前方へ傾ぐ。男の後頭部を押さえ、自分の腹に向かって引きつける。むぐ、と股の間でこもった声がした。
トントン、と青年の手が私の脇腹を軽く二度タップし、首に巻き付けた足から力を抜いた。
「……すごい。一瞬で極まりました」
呆然とした顔で男が言った。
「でしょ?」
素に戻って私はうれしそうに笑った。
客から特に要望が多いのが締め技だった。格闘家のYouTubeを毎日見て必死でマスターした。
三角締めで客を痛めつけた後、私はいつも濡れてしまう。たとえ一瞬でも男の生殺与奪を握る感覚がたまらない。
青年の視線が私の二の腕に向いていた。
「……カレン女王様、お怪我をされたんですか?」
二の腕に大きな青アザがあった。コンシーラーでごまかしていたが、プロレスレクチャーで肌がこすれ、剥がれてしまったらしい。
「転んだのよ」
絶対に言えなかった。アパートで同棲している彼氏から受けたDVの傷だなんて。そう、私は男に殴られたり蹴られたりしている女だった。
この店に来たきっかけも、彼氏に風俗で働くよう命じられたからだ(前に働いていたキャバクラより稼ぎがいい)。本当の私は「女王様」なんて呼ばれるのもおこがましい情けない女だった。
「温かいシャワーを少し離れた場所からマッサージするように当てると、早く痕が消えますよ」
「そうなんだ。ありがとう。やってみる」
親切を受けたからか、私は素に戻って余計なことを言った。
「よく来てくれてありがたいんだけどさ。あんた、顔は悪くないんだから、普通に女の子と付き合った方がいいんじゃない?」
まあ、じめっとしたM男特有の暗さはあるけれど。
「……いえ、僕は女王様だけで……」
青年は医学部の学生だった。実家は病院を経営していて、親と同じ有名国立大学の医学部に合格するまで二浪させられたらしい。
晴れて医大生になったのはいいが、学生時代、勉強ばかりで女性と付き合った経験がなく、今も女性と話すのは苦手だという。
ある日、ネットで女王様に責められる男の動画を見て、自分の求めていたものはこれだ! と目覚めたらしい。
その後、緊縛、言葉責め、鞭打ち、ロウソク……など、一通りのプレイをして時間を迎えた(もちろん、私が客に対して行うプレイだ)。
青年を店の外に送り出し、私は待機所に戻った。彼が最後の客だったので、もう店に他の嬢はいない。
店長の塚田がやってきて「彼氏が来てるよ」と言った。フロントに行くと、客の待合所に茶髪の若い男が座っていた。
私の姿を認め、よー、とタカシが手を上げる。
「どうしたの?」
店に来るのは二度目だ。最初、私を店に連れてきて、店長とギャラの交渉をしていった。
ちなみにタカシは以前、ホストをやっていた。今はホストを辞め、私の稼ぎだけで暮らしている。ようはヒモである。
「ちょっと近くに来る用事があってさ」
顔が赤らんでいる。お酒が入っているようだ。言い訳がましく店長の塚田に言った。
「こいつがちゃんと働いているか様子を見に来たんすよ。店長、こいつバカでしょ? みなさんにご迷惑をおかけしてませんか?」
塚田が微笑む。
「そんなことないですよ。カレンちゃん、すごい人気ですよ」
タカシが「へー、そうッスか」と気のない返事をする。店長に気後れしていることもあるが、タカシは女が目立つのが嫌いだった。私の収入で暮らしているくせに、自分より稼げる女だと思いたくないのだろう。
塚田がそっと耳打ちしてくる。
「相談したいことがあったら言ってね。力になるから」
嬢の恋人――ヒモ男を店は否定しない。むしろ歓迎する。ヒモがいれば、女は金を稼がなくてはならず、結果、店を飛ばないからだ。
だが、別れてストーカー化したり、仕事に支障をきたす存在になれば話は別だ。即、排除に動く。
特に私はこの店で女王様として売れっ子になりつつあった。塚田の言う「相談に乗る」とはそういうことだ。
私はタカシに言った。
「すぐ着替えてくるから待ってて」
更衣室に行き、黒いレザー衣装を脱ぎ、私服に着替えると、店長に「お疲れさまでした」と挨拶して、タカシと一緒に店を出た。
ビルのエレベーターの中でタカシは無言だった。なんで急にお店に来たりしたのだろう? 私を心配して来たわけではないのは確かだ。
「ちょっとこいや」
ビルを出ると、腕をとられ、人気のない建物の小路に連れて行かれた。
「なんなのよー。私、疲れてるのよ」
そう言った瞬間、バチンと目の前に火花が散った。よろめいて壁に背中があたる。鼻から生ぬるいものが垂れてきた。顔を殴られたのだとわかった。
「おまえ、店長に俺のこと無職だって言ったのか?」
酒臭い息が頬にあたる。
暴力をふるうときのタカシは奇妙に表情のない顔をしている。よく言った。「俺がおまえに手をあげるのは、おまえを愛しているからだ。他の女に手はあげない。愛してもいない女を殴ったりしない」と。嘘だ。タカシは自分しか愛していない。
「無職だなんて言ってないよ」
殴られた痛みで目から涙がこぼれる。無職など言ったろうか。前に彼氏は何をしている人なの? と訊かれ、言葉に詰まった記憶はあるけれど。
「言ったろーが!」
壁に頭をゴツンと押し当てられ、地面にうずくまる。髪を鷲掴みにされ、涙と鼻水まみれの顔を上向かされた。口の中に血の味がにじむ。
「あの店長と寝たのか?」
「そんな人じゃないよ」
雇われ店長が嬢に手を出すはずがない。そもそも塚田はゲイらしい。
「いっぱしに男かばってんじゃねーぞ」
ぼんやりとかすむ視界にビルの狭い隙間からのぞく夜空が見えた。そこに空があるのに手が届かない。まるでクレバスに落ちた遭難者のように、窮屈な場所から這い出ることができない。
「なに見てんだ! てめえは」
タカシが別の方向を向いていた。私は視線を追うように、腫れ上がった顔をのろのろと動かした。
小路の入口に若い男が立っていた。手に紙袋を持っている。暗い顔に見覚えがあった。あいつだ、お客のM男だ。なんでこんなとこにいるんだろう?
青年は黙ってこちらを見ている。痺れを切らしたタカシは男のもとへ歩み寄り、胸ぐらをつかんだ。
「なに見てんだつってんだよ」
顎を突き出し、凄んでみせる。相手が自分より弱いと判断したら急に強気になる。
「なんか言えよ、てめえ」
おらおら、と面白がって青年の頭を小突く。気弱な青年は「あ、いえ」としどろもどろだ。
私は瞼が腫れ上がった目でぼんやりとその様子を見ていた。
私を助けてくれようとしたのかな? だめだよ、無理しちゃ、あんたMなんだからさ。さっさと逃げちゃいなよ。
(あー、くそ。ほんと、しょうがないなー)
私は疲れた息をつき、壁に手をついて立ちよろよろと上がった。
「や、めて」
絞り出した声はかすれていて、自分の声ではないようだった。コンクリートの壁に打ち付けられたせいで頭の後ろが痺れている。
「カレンさん!」
タカシを腕で押しのけ、青年が駆け寄ってくる。
「血が……病院に!」
言いかけたとたん、胸に飛び込んできて、重なるように私たちは地面に倒れた。後ろからタカシに背中を蹴られたらしい。
「なめてんじゃねえぞ、てめえ」
うつ伏せの青年の横腹をタカシがめった蹴りにする。
「やめて! この人、私のお客さんなの」
私は青年の頭を守るように覆い被さった。
「てめえ、客とデキてたのかよ」
ようやく浮気相手を突き止めた、とばかりに狂気の笑みを浮かべる。
「おらっ、死ね。仲良く死ねって」
怒りを爆発させたタカシは地面にうずくまった二人の身体をめった蹴りにする。互いの身体を守るように身を寄せ合う私たちの姿に顔をゆがめる。
「この売女が!」
仰向けで倒れる私にのしかかり、拳で殴ってきた。
「やめて……」
か細い声で訴えるが、タカシはどこか愉しむよう私の顔をゴツンゴツンと打ちつづける。
女王様――
どこからか声がして、私は声の主を探す。私の頭の横でM男がうつろな目をしていた。
ああ、そうか、と私は思った。私は女王様だった。奴隷とM男しかいない小さな王国、それでもクイーン、いつだって女王は気高く美しくあらねば。
M字に開いていた膝を私は跳ね上げた。カマのように鋭く曲げた足を、タカシの首の後ろへ巻き付かせる。右腕を引き込むと、男の体が前に泳いだ。その瞬間をのがさず、すばやく両足を交差させ、後頭部に回した手を引きつける。
三角絞めは、格闘技の寝技で使用される絞め技で、英語ではトライアングルチョークと呼ぶ。本来、不利なはずの仰向けの体勢から、上からのしかかってくる相手を一瞬で絞め落とすことが可能である。
「ぐっ……」
タカシのうめき声が洩れる。私は両足をしっかりホールドしたまま、男の頭を押し続けた。まるで蛇が獲物を絞め殺すようにじわじわと。自分でも驚くほど冷静だった。
やがて男の体から力が抜けた。足をほどくと、意識を失った肉体がゆっくり覆い被さってくる。折り重なったまま、私はハァハァと息をついた。今になって手が震えた。
身体を起こしたM男がタカシの首筋に手をあてる。
「大丈夫、気を失ってるだけです」
ああ、と思った。そう言えばこいつ、医学部の学生だったな。
「立てますか?」
手を引かれ、私は壁を頼りに立ち上がる。足首に痛みがある。倒れたときに痛めたらしい。三角締めをしている最中は必死で気づかなかった。
肩を貸してもらい、小路から表通りに出た。
「お店に戻りますか?」
私は、うんにゃ、と疲れたように首を振った。
「家に帰るわい」
アパートに戻り、引っ越しの準備を始める。そのときには決めていた。タカシと別れる。どうせ自殺するだの、殺すだのとわめくだろうけど、もうどうでもよかった。
「あんた、何で外にいたの? 出待ちは禁止されてるでしょ」
嬢を店の外で待つ行為はどの店でも厳禁だ。
「すいません。カレン女王様に渡したいものがあって――」
地面に落ちていた紙袋から花束を取り出した。薄いピンクの花弁、セロファンに赤いリボンが結ばれている。
「帰る途中、花屋さんの店先で見かけて……」
瞼を赤く腫れ上がらせた私が花束に手を伸ばすと、青年がすっとひざまずいた。それこそ女王に謁見する騎士のように。
片膝をつき、両手で花束を差し出した。
「マイ・ミストレス」
ミストレスとは〝ご主人様〟という意味だ。欧米では女王様をそう呼ぶ。
私は苦笑いしながら花束を受け取った。外国人が見たら、プロポーズでもされたのかと思っただろう。でもまあ、悪い気はしなかったよ。
花束から甘い匂いがした。アッツザクラ。以前、キャバ勤めをしていた頃、客から贈られたことがある。花言葉は――可憐。
夜空を見上げた。
ネオンの中で星は見えないというけれど、私の目には見えた。ずっとそこにあったのに私はうつむいて地面ばかりを見て歩いていた。手を伸ばせば、今度は星に届くような気がした。
(完)